第14話 空回り
それから数日、初美と何度もやり取りを重ねたが、事故の詳細には近づけなかった。場所も時期も、記憶の中には出てこない。分かっているのは「二年後」「事故」というだけの、あまりに漠然とした枠組みだけだった。
「日付が分からないなら、日頃の対策しかないですよね」
初美の言葉に、俺も頷くしかなかった。ピンポイントで防げないなら、普段の行動そのものを変えるしかない。
———
「まず、お父さんの今の生活を知るところから始めましょう」
「生活?」
「はい。仕事だけじゃなくて、休日にどこへ行くとか、誰と付き合いがあるとか」
「そこまで調べるのか?」
「事故の原因が分からないんですから、可能性を減らしていくしかないですよ」
「探偵みたいだな」
「探偵ごっこですよ」
「ごっこなのかよ」
二人で笑った。こんな状況なのに、不思議と嫌ではなかった。未来を変えるための話をしているはずなのに、少しだけ楽しい。たぶん、初美が隣にいるからだ。
———
まず手をつけたのは、通勤の話だった。
「父さん、最近、自転車通勤なんだろ。車にしたら?」
「なんでだ、急に」
「いや、事故とか多いって聞くから」
我ながら、苦しい理由だった。父は案の定、不思議そうな顔をした。
「自転車のほうが健康にいいんだよ。お前も、たまには運動しろ」
取り合ってもらえなかった。
———
その日の夕方、父はいつもより少し遅く帰ってきた。以前なら気にも留めなかったことだ。
「ただいま」
「おかえり。今日も遅かったな」
「ああ。仕事が少し長引いた」
「最近、忙しいの?」
「前にも言っただろ。ちょっと仕事が増えたんだ」
「無理しない方がいいんじゃないか」
「お前が言うことか」
笑って流されたが、こちらとしては焦りが募るばかりだった。
「最近、仕事で車を使うことって多い?」
「車? まあ、前よりは使うな」
胸の奥がざわついた。
「どこに行くんだ」
「いろいろだ。仕事なんだから、毎日同じじゃない」
「……そうだよな」
これ以上は聞けなかった。父に怪しまれる。それに、今のところ何も確証はない。
———
「耕一、最近なんか変じゃない?」
母に、ふとそう言われた。
「お父さんのこと、やたら気にするし」
「別に、そんなことないだろ」
「あるわよ。この前も、自転車がどうとか言ってたし」
誤魔化すのに、少し苦労した。
「いや、なんとなく、体のこと心配になっただけ」
「あんた、そういう年頃でもないでしょうに」
母は笑って、それ以上は追及しなかった。だが、心臓には悪かった。
———
その夜、俺は初美に電話をした。
「父さん、最近仕事で車を使うことが増えてる」
「それは気になりますね」
「ただ、それだけだ」
「でも、前より一つ分かりました。お父さんの未来が、耕一さんの記憶と違っていることです」
言われて、黙り込む。
「……そうだな」
「だったら、事故も同じとは限らないんじゃないですか?」
その言葉に、俺は息を止めた。
事故が起きる。その結果だけは覚えている。でも、そこに至るまでの道筋は、もう変わっているかもしれない。
俺たちが過去を変えたから。大輔の人生が変わった。初美の人生も変わった。そして今、父の人生まで変わり始めている。
「……だったら、事故の日も、変えられるかもしれない」
「そうだと思います」
初美の声は静かだった。でも、その言葉には迷いがなかった。
———
翌日、俺は父の車を見た。いつも使っている車で、特に変わったところはない。最初はそう思っていた。
けれど。
「……あれ?」
助手席に、見慣れないものが置かれていた。仕事用らしいファイルだった。何気なく見ただけだったが、そこに書かれていた会社名に、目を止めた。
知らない名前だった。少なくとも、俺の記憶にはない。
父の仕事が変わっている。そして、その仕事で車を使うようになっている。俺が知っている未来にはなかった仕事だ。
もしかすると、父が事故に遭った未来そのものが、もう変わり始めているのかもしれない。
希望なのか。それとも、新しい危険の始まりなのか。まだ分からなかった。
———
そんなある日、父が仕事帰りに軽く転んだ、という話を聞いた。
自転車で、濡れた路面に滑ったらしい。大した怪我ではなかったが、聞いた瞬間、血の気が引いた。
「大丈夫だったのか」
「かすり傷だ、大げさだな」
父は笑い飛ばしていたが、俺には笑えなかった。
これが、あの「二年後」に繋がるものなのか。それとも、まったく無関係の、ただの日常の出来事なのか。判断のしようがなかった。自転車の危険も、車での仕事の危険も、どちらも捨てきれない。俺たちが見なければならないものは、むしろ増えていた。
———
その夜、初美に転倒の件を伝えた。
「怖いですね、それ」
「ああ。でも、これが本番なのか、それとも全然関係ないのか、分からない」
「分からないことだらけですね」
「ああ、本当に」
電話越しに、二人でしばらく黙り込んだ。
できることは、やっているつもりだった。それでも、何一つ確実な手応えは得られていない。父は変わらず自転車に乗り、変わらず新しい仕事で車を走らせている。
空回りしているだけなんじゃないか。そんな不安が、日に日に大きくなっていった。
「耕一さん」
「ん?」
「これ、続けましょう。今は、それしかできないですから」
初美の声は、静かだが芯があった。
「ああ」
短く答えて、電話を切った。
俺はもう、未来をただ待っているだけじゃない。父の人生に、少しずつ手を伸ばし始めている。
それでも、二年という時間は、思っていたより短いのかもしれない。そんな予感だけが、胸の奥に重く残った。




