第12話 凪
卒業式から数日が経っても、俺と初美の間には、以前より少しだけ距離のある空気が残っていた。
「俺がいるから、こっちを選んだんじゃないのか」
あの一言を、口にしたこと自体は変えられない。気まずさを抱えたまま、当たり障りのない会話だけが続いていた。
———
三月のある日、初美からSMSが届いた。
『今度の休み、少し付き合ってほしいです』
用件は書かれていなかった。少し迷ったが、『いいよ』とだけ返した。
当日、待ち合わせ場所に来た初美が向かったのは、駅近くの保育園だった。
「今度、ここで働くので。中は入れないんですけど、外から見ておきたくて」
塀の外から、園庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。初美はしばらく、その様子を眺めていた。
「不安か」 「そりゃ、不安ですよ。ちゃんと務まるかも分からないし」
初美は少し笑って、それから、少し真剣な顔になった。
「でも、自分で選んだことだから、やってみたいです」
その言葉には、迷いよりも、静かな覚悟のようなものがあった。
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帰り道、二人並んで歩きながら、初美がぽつりと切り出した。
「この前のこと、あの時は正直、怒ってました」
直球だった。俺は何も言えず、頷くしかなかった。
「でも、耕一さんが、あたしのこと心配して言ったのも、分かってるんです」
初美はそう続けて、少し困ったように笑った。
「だから、もう気にしてないです。……あんまり」
その「あんまり」に、正直な感じがした。
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「それと」
初美は少し声のトーンを落として、続けた。
「最近、思うんです。十年前に戻ったばっかりの頃って、令和のこと、もっとはっきり覚えてた気がして」
「ああ……俺もそう思う」
「少しずつ、曖昧になっていってる。忘れるのは、やっぱり怖いです」
その声には、これまで感じたことのある不安が滲んでいた。だが、初美はすぐに、少し違う言い方で続けた。
「でも、だったら――これからのことを、いっぱい覚えておきたいです」
振り返らず、前を見たまま、そう言った。
その横顔に、俺は何も言葉を返せなかった。ただ、初美の未来を、俺が決めることはできないのだと、改めて理解した。
「じゃあ、これからは自分で決めろ」 「最初からそうですよ」
軽口のような、それでいて確かな言葉のやり取りだった。以前とは少し違う、対等な距離に、二人の関係が戻っていくのを感じた。
———
四月一日、初美の保育園での初出勤日だった。
仕事終わり、コンビニ前で待っていると、いつもより疲れた顔の初美がやってきた。
「どうだった、初日」 「疲れました……子供、思ってたより全力でぶつかってきます」
初美は苦笑いしながら、自転車のサドルにもたれかかった。
「でも、悪くはなかったです。多分、向いてるかも」 「そうか。よかったな」
———
ゴールデンウィークの終わり、いつもの公園のベンチで、二人並んで座っていた。
初美は保育園の仕事にもすっかり慣れ始めていて、以前より表情が柔らかくなっている気がした。しばらく他愛のない話をしたあと、会話が途切れた。夕方の風が、木々の葉を揺らしている。
「なあ」 「はい?」
言おうとして、言葉が出てこなかった。何度か口を開きかけては、また閉じる。
「……なんですか、さっきから」 「いや」
初美が、少し首を傾げてこちらを見ている。その視線から逃げるように、俺は目の前の植え込みに視線を落とした。
令和で失敗した結婚。初美が抱えている、まだ何も分からない「何か」。この十年前の世界が、いつまで続くのかも分からない。考えれば考えるほど、言葉にする理由より、言わない理由の方が多く浮かんでくる。
それでも。
「これから先も、隣にいてくれないか」
自分でも、うまい言い方だとは思えなかった。彼氏になってくれ、とも、好きだ、とも言っていない。ただ、それだけ言うのが精一杯だった。
初美は、しばらく黙っていた。膝の上に置いた手を、少しだけ握りしめる。
「……それ、プロポーズみたいですね」 「違う、そういうんじゃ……いや」
慌てて否定しかけて、途中で言葉に詰まった。違う、と言い切れる自信が、自分の中になかった。
初美は、小さく笑った。今まで見た中で、一番自然な笑い方だった。
「はい」 「え?」 「隣に、います。ずっとは、まだ分からないですけど。今は、それでいいです」
その一言で、十分だった。
名前のなかった感情に、ようやく輪郭がついた気がした。大袈裟な言葉も、劇的な場面もない。それでも、確かに何かが変わった夕方だった。
二人だけの秘密が、また一つ増えた。誰にも――母にさえ――まだ言わないでおこうと、どちらからともなく決めた。落ち着いたら話す、という程度の、ゆるい約束だった。
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それから先の一年半は、これといった大事件もなく過ぎていった。
初美は保育園の仕事に少しずつ慣れていき、休みの日には相変わらずコンビニ前や公園で顔を合わせる。大輔とは、たまに店で会う程度の、当たり障りのない関係が続いていた。幸子は月に一度くらいの頻度で店に顔を出し、世間話をしていく。
付き合い始めたと言っても、暮らしぶりが劇的に変わったわけではなかった。会う場所も、話す内容も、これまでとほとんど同じだった。ただ、隣を歩く距離が、少しだけ近くなった。それだけで、十分だった。
令和の記憶は、あれからも少しずつ薄れていった。互いにそのことを口にする回数は、以前より減っていた。
———
二〇一九年五月、元号が令和に変わった。
テレビでは連日、改元の特集が組まれていた。新しい元号が発表された瞬間の映像を見ながら、俺は妙な感覚に包まれていた。
知っていたはずのことが、目の前で本当に起きている。当たり前のはずなのに、その当たり前さに、不思議な実感が伴っていた。
「令和かあ」
居間で、母がお茶を飲みながら呟いた。
「なんか、ちゃんとした時代って感じがするわね」 「そうだな」
母は、この後自分が三年後に亡くなることを、当然知らない。その事実が、頭の片隅を静かによぎった。
———
その夜、自分の部屋でスマホが鳴った。
画面には「父」ではなく、律儀に「松井耕一郎」とフルネームで登録されている、いかにも几帳面な父からの着信だった。
「もしもし」 「ああ、耕一か。夕飯のことなんだが」
いつもと変わらない、何気ない用件だった。米が切れそうだから買っておいてほしい、というだけの電話だった。
「分かった。帰りに買っておく」 「頼むな」
それだけで、電話は切れた。
いつもと変わらない父の声。いつもと変わらない会話。
だが、電話を切った瞬間、頭の中に別の記憶が蘇った。
父が死ぬのは、あと二年ほど先。
これまで、初美のことばかり考えていた。大輔との未来を変え、初美が自分の意志で人生を選べるように、そばで見守ってきたつもりだった。
けれど――。
父の未来だけは、まだ何も変わっていない。
居間の方から、テレビの音と、父の軽い咳払いが聞こえてくる。いつも通りの、何でもない夜の音だった。
その音を聞きながら、俺は初めて、現実的に考えた。
父さんが死ぬ未来を、俺はただ待っているだけなのか。
三年目が終わろうとしていた。
初美は、自分の未来を選び始めた。そして、俺との距離も、静かに一歩進んだ。
そして今度は、俺が、父の未来に向き合う番だった。




