第11話 巣立ち
年が明けて、一月の半ば。二次募集の結果を待つ数日間、初美はいつもより口数が少なかった。
結果の連絡があった日、仕事終わりのコンビニ前で、初美は開口一番に言った。
「受かりました」
「よかったな。どこだったんだ」
「駅の近くの、保育園です。保育補助として」
少し意外だった。てっきり事務か接客の仕事だとばかり思っていた。
「子供、好きなのか」
「好きというか……なんとなく、ですけど」
そう言った時、初美の表情に一瞬、何かがよぎった気がした。すぐにいつもの笑顔に戻ったので、見間違いだったのかもしれない。
「四月から、正式に働き始めます」
「そうか。おめでとう」
素直に喜んだ。だが同時に、九月に一度辞退していたことが、頭の片隅から離れなかった。あの時と、今回と、何が違ったのか。結局、聞けないままだった。
———
数日後、店に買い物に来た幸子と、少し立ち話をした。
「初美、保育園に決まったんですって?」
「聞いたんですね」
「ええ。――実はね、あの子、一時は県外も考えてたのよ」
初めて聞く話だった。
「県外、ですか」
「うん。求人票、何枚か持って帰ってきてたことがあって。結局、全部やめて、地元に絞ったみたいだけど」
幸子はそれ以上、深くは語らなかった。だが、その一言だけで、頭の中が一気に忙しくなった。
県外も考えていた。それなのに、最終的には地元を選んだ。
――なぜだ。
———
その週末、いつもの公園で、思い切って聞いてみた。
「県外の仕事も、考えてたんだって?」
「……お姉ちゃんから聞いたんですか」
「ああ。なんで、地元にしたんだ」
「近いから、ですかね」
初美はそれだけ言って、視線を逸らした。あまりに簡潔な答えだった。
――本当に、それだけなのか。
本当に、それは初美自身が選んだことなのか。俺という存在が、無意識のうちに、初美の選択を狭めているんじゃないのか。
考えがまとまらないまま、口が先に動いた。
「俺がいるから、こっちを選んだんじゃないのか」
言ってしまってから、しまったと思った。だが、もう遅かった。
初美の表情が、見たことのない硬さに変わった。
「私のこと、そんなに何も考えてないと思ってるんですか」
声には、これまでにない強さがあった。
「いや、そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりですか」
言葉に詰まった。初美は、しばらく黙って俺を見ていた。
やがて、少し落ち着いた声で続けた。
「……耕一さんがいることも、理由の一つです。でも、それだけじゃないです」
初美はまっすぐこちらを見た。
「自分の人生を、耕一さんのためだけに決めたわけじゃない。ただ、耕一さんがいることが、選ぶ時の後押しになったのは、本当です。それの何が悪いんですか」
何も言えなかった。
初美の言う通りだった。誰かの存在が選択に影響することと、その選択が自分自身のものでなくなることは、同じではない。頭では分かっていても、うまく飲み込めなかった。
「……悪いなんて、言ってない」
「言ってるように聞こえました」
それきり、二人とも黙り込んだ。答えらしい答えは、どちらの口からも出てこなかった。
自分の未来を、自分だけの意志で選ぶことの難しさを、俺たちは二人とも、まだうまく扱えずにいた。
———
「卒業式、いつなんだ」
「三月の頭です」
「見に行っていいのか、部外者だけど」
「え、来てくれるんですか」
公園でのやり取りから数日が経ち、いつの間にか普段通りの会話に戻っていた。ただ、あの日の言葉は、まだどこかに残っている気がした。
「校門のところなら、いいと思います。中には入れませんけど」
「それで十分だよ」
———
三月の初め、卒業式の日は、朝から薄曇りだった。
校門の脇で待っていると、式を終えた生徒たちが、三々五々と出てくる。制服姿の中に、見覚えのある顔を見つけた。
初美だった。友人たちに囲まれて、何か話しながら笑っている。俺に気づくと、小さく手を振ってこちらへ駆けてきた。
「来てくれたんですね」
「言っただろ、来るって」
少し離れたところに、幸子と、初美たちの母親らしき人の姿もあった。幸子と目が合うと、小さく会釈された。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
初美は照れくさそうに、卒業証書の入った筒を両手で持ち直した。
「これで、あたしも社会人ですね」
「気が早いな、四月からだろ」
「気持ちの問題です」
軽口を叩き合いながら、俺たちは校門を離れた。桜のつぼみは、まだ固いままだった。
十年前に戻ってから、ちょうど二年近くが経とうとしていた。高校生だった初美は、来月から社会人になる。俺も、去年から正社員としてこの町で働いている。
二人とも、少しずつ、この時間の中で自分の場所を作り始めていた。
それでも、初美の中にある「何か」には、まだ誰も触れられないままだった。
———
卒業式の帰り、俺は初美を家まで送っていくことにした。
特に会話もないまま、少し先を初美が歩き、俺がその後ろをついていく形になった。街灯だけが灯る道を、初美はゆっくりと歩いていた。
ふと、その足が止まった。
何か呟いているようだった。声までは、はっきりとは届かなかった。ただ、街灯の下で、初美の肩が一瞬だけ、小さく震えたのが見えた。
「どうした?」
声をかけると、初美は驚いたように振り返った。
「あ……いえ、何でもないです」
いつもの笑顔だった。だが、さっきの震えは、見間違いではなかったと思う。
何を呟いていたのか、聞くことはできなかった。ただ、初美の中で、何かが静かに――そして確実に、削られていっているような、そんな予感だけが残った。




