第10話 遠くへ
十二月に入っても、初美の就職先は決まっていなかった。
仕事終わり、いつものコンビニ前で、それとなく聞いてみた。
「就職の話、どうなったんだ」
「実は……一回、決まりかけてたんです。九月に」
「決まりかけてた?」
「はい。市内の会社で、面接まで進んで。でも、直前で辞退しちゃって」
初美は少し気まずそうに、自転車のハンドルをいじった。
「なんとなく、違うかなって思って。それで年明けの二次募集に、もう一回応募しようかと」
「そうか」
辞退した理由までは聞けなかった。だが、その「なんとなく」には、何か具体的な引っかかりがあるように感じられた。
「いいと思う。焦ることないだろ」
本音を隠して、そう答えるのが精一杯だった。
———
その時だった。前から歩いてきた女性とすれ違った。お腹の大きな、妊娠中の女性だった。ゆっくりとした足取りで、旦那らしき男と二人、談笑しながら通り過ぎていく。
何気ない光景のはずだった。
だが、隣を歩く初美の横顔が、一瞬にして固まった。
笑っていた表情のまま、時間だけが止まったような、そんな顔だった。
「初美?」
声をかけると、初美は我に返ったように瞬きをした。
「あ……すみません、何でしたっけ」
「いや、何でもない」
それ以上、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
初美は何事もなかったかのように、また歩き出した。だが、さっきまでの明るさは、少しの間戻ってこなかった。
———
帰り道、自転車を押しながら、俺は一人で考えていた。
九月に決まりかけていた話を、初美はなぜ辞退したのか。
以前、公園で「初美が選んだことなら、それでいい」と自分で言ったはずだった。だが、辞退の理由も、さっきの妊婦を見た時の表情も、俺には何も見えていない。
――何か、あったんだろうか。
その疑問を、うまく飲み込めないまま、俺は家路についた。
———
数日後、休みの日に、幸子から連絡があった。店の外で待ち合わせて、少し話す。
「初美から聞いた? 一回、就職先辞退したって話」
「聞きました」
幸子は少し困ったような顔をしていた。
「複雑なのよね。あの子が地元に残ってくれるのは嬉しいんだけど、それだけの理由で決めてるんだとしたら、それはそれで心配」
地元に残ること自体を心配しているわけではないらしい。理由の方を、幸子も気にしているようだった。
「あの子、この十年、私にもあんまり本音を話してくれなくて」
幸子の口ぶりには、これまで見せたことのない弱さが滲んでいた。妹を心配する強気な姉、というだけでは片付けられない何かが、そこにはあった。
「あなたには、話してるんじゃないの」
「いえ……俺にも、全部話してくれてるわけじゃないと思います」
さっきの、妊婦とすれ違った時の初美の顔が、頭をよぎった。
幸子はそれ以上深追いせず、「まあ、いいわ」とだけ言って、話を切り上げた。
———
年の瀬が近づいても、初美の就職先ははっきりと決まらないままだった。
「まだ、考え中です」
その言葉を、俺はもう何度も聞いていた。だが、以前と同じ「考え中」ではない気がした。
何かに向き合いかけて、まだ踏み出せずにいる。そんな迷いの色が、その言葉に混じっているように思えた。




