禁忌の片鱗
彼は静かに立ち上がると、腰の純白の剣を音もなく引き抜いた。地面へ剣先を向けたその瞬間――周囲の空気が重く弾ける。抑え込まれていた膨大な魔力が、暴風となって足元の砂を巻き上げた。
私は息を飲んだ。黒本事件のあの日、ギガスを前に、元第零席が見せたあの領域。今度は別の第零席の魔法を、この目で見られる。
彼が口ずさんだのは、知らない言語の歌だった。聞いたことのない旋律なのに、なぜか懐かしさを覚える。足元から周囲へ、金色の魔力の文字が奔流のように駆け巡った。
次の瞬間、彼は歌を止めて剣を鞘へ収めた。金色の文字も、その動きに合わせるように消えていく。
「ごめんね。どうやら怒られたみたい」
ゾクッ……私の背筋が一気に凍りつく。一際私の本能を刺激するこの感じ……元第零席のフィアナ・エルワース・ファニス。
次の瞬間には、ユーリの前にフィアナが立っていた。遅れて白いマントがふわりと翻る。。冷ややかな低い声が、警告のように響いた。
「ユーリ。貴殿は我が学び舎で何をしようとしている」
「あははっ。いやーごめんごめん。少し禁忌階梯魔法を見せようと思っただけなんだよ」
それでもフィアナは鋭い眼光を崩さない。ユーリはオッドアイから目を逸らさず、降参するように両手をひらひらと振った。
フィアナは小さくため息をついて、ユーリを通り過ぎていく。
「迂闊な行動はしないように。私が言えた立場でもないが」
「わかりましたよ王様」
「王位継承権第一位の王女だ。間違えるな」
「気が強いねー。息苦しくない?」
彼女は流し目で私を見ると、ふいと前を向いたまま「そうでもないわ」と短く答えた。
「ユーリ。そして寝た振りをしているヴィーとベン。もうすぐ演舞の時間だ。各自待機場所に向かうように」
「はーい」
ユーリはそう言いながら、私に近づいて膝をついた。
「ごめんね。でも約束は守るよ。近いうちに見せてあげよう。禁忌階梯魔法」
私は高鳴る胸を隠し、努めて穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ。とても続きが見たいわ」
彼は一瞬にして、陽炎のように掻き消えた。静寂が戻ったのも束の間。ヴィーが「なんだバレてたのか」とぼやきながら、のろのろと上体を起こす。欠伸を噛み殺し、隣で眠りこけていたベンの肩をぽんぽんと叩いた。
「禁忌階梯魔法なんぞ使われたら、そりゃオチオチ寝てもいられんて。じゃあな、白髪のちびっこと、王女さん」
過ぎ去っていくヴィーと、そのあとをのっそのっそとゆっくりとした足取りでついていくベン。
去りゆくフィアナの背中へ、私は一歩踏み出した。
「少し待ってくださるかしら」
「……」
ピタッと動きを止めるフィアナ。
「お礼を言いたいのよ。ギガスが現れたあの日、あなたが相手をしてくれなければ本を無力化することはできなかったわ。本当にありがとう」
「……被害があの程度で済んだのは貴殿のおかげだ。そして私は私の第零席としての責務を果たしただけ」
「素直じゃないのね。彼も言っていたけれど、息苦しくないのかしら?」
「最近、嬉しいことがあった。それだけで充分」
今度は見間違えるはずもない。振り返った彼女の口元は、確かに柔らかく弧を描いていた。鉄の仮面のような厳格さを脱ぎ捨てたその表情に、一瞬だけ彼女がかつて第零席だったことを忘れてしまいそうになる。
そして私はこの広場に一人取り残された。少し騒がしかったけれど、人の波による酔いは軽減された。もうそろそろエリスのところへと戻りましょうか。
フィアナ達の戦いも見れることでしょうし。本気ではないでしょうけどね。
「あっ! やっぱりここだったんですね!」
エリスが手を振りながら駆け寄ってくる。そのまま私に抱きつき、先ほど感じた凄まじい魔力について問いかけてきた。私は彼女の背をポンポンと叩きながら、少し魔族大陸の第零席にお願い事をしたのだと答えた。
「ユーリさんですか? 何度かお会いしたことあります。剣聖の貴族ですよね」
「そうらしいわ。後はヴィーとベンにも会ったわね」
「うっ……」
「あら、苦手?」
「結構ぐいぐい来るので……十二の貴族だと会う機会があるんですけど、なんというか目立ってました」
「……それは、目立つでしょうね。片方は社交界に向いてないにもほどがあるわ。貴族への挨拶はもういいのかしら?」
「簡単な挨拶は済ませましたっ! クローネさんも、もうすぐ終わると思いますので合流しましょう!」
「そうね。フランはどこへ行ったのかしら? こういうお祭りごとは全力で楽しみそうなタイプだと思ったのだけれど。マーカスと魔法術式について熱く語り合っているとか?」
「フランさんは朝早くに出かけてしまいました。どうやら用事があるようで……」
「そう……結構忙しそうなのよね、あの子」
私たちは広場を離れ、第零席たちが戦う第一決闘場の近くへ向かった。ベンチでぐったりと休んでいたクローネを見つけ、私はその隣に腰を下ろす。
「大丈夫かしら? 疲れた?」
クローネは、うなだれながら答える。
「ま、いつものことよ。魔族達も来ているから少し忙しいの。ほら、偏見はお互いあるし、私みたいな魔族の血が入った十二の貴族が間に入ると何かと好都合でしょ?」
そう言いながらクローネは立ち上がる。
「さっさと行こっ。早くしないと席無くなっちゃうし。せっかくの第零席の戦いを見逃すわけにはいかないんだから。だって私たちは第零席になるんだから」
今までよりも、その言葉には確かな決意があった。
「そうね。私が先に第零席になるけれど、あなた達に譲るつもりはないわ」
「ふんっ、言うじゃない。そこに座るのはフランだからっ」
自分じゃなくて『フラン』なのね。
クローネは私たちの手を引っ張りながら言った。
「……もしあの子がさ。大事なことを言ったら、本気で受け止めてあげてね。きっと怖いはずだから」
「? 大事なことなら本気で受け止めるわよ? 私もエリスも」
「まっ、あんたたちはそうよね。なんでもない。気にしないで」
――握りしめられた彼女の指先が、わずかに震えているのを私は見逃さなかった。




