幕間三 クローネ視点
牢獄のような部屋。魔石の赤い光が、淀んだ空気を血のように染め上げていた。だが、何より異様なのは壁一面に刻まれた術式だ。脈打つ魔力の奔流は、見る者を拒絶するような禍々しさを放っている。それでもフランは、躊躇いなくその中心へ歩み寄った。
鎖が無機質なレンガに擦れる。うさぎの頭を持つ白い獣人。暗くてよく見えないけれど、片耳にくすんだ王冠がつけられている。フランが小さく声をかける。
「最近会いに来れなくてごめんね。あのね、前にも話したけど、お友達がいっぱいできたんだ。それで……」
呼びかけに応じ、ラビはゆっくりと顔を上げる。けれど、その口が開くことはない。
「あっ、紹介するね。私のお友達のクローネちゃん。かわいいでしょ?」
少しだけ、ラビが頷いた気がした。私は少し頬を赤らめて口を尖らせる。フランは嬉しそうにその場に座り込んで、私に言った。
「ずっと小さい頃からいつもね、辛いことがあったり、話したいことがあるとここに来てラビに話すんだ。ラビは何も言わないけど、話を聞いてくれるから」
「この人が……ラビ? えっと……よろしく」
私はたどたどしく挨拶をした。この存在が何者なのか、どうしてここに閉じ込められているのか。全く分からない。気になるけど、フランの邪魔をしたくなかった。
彼女は慣れた様子で独り言のように話し始めた。
「ねぇラビ。私ね、何の役にも立てなかったの。いつもそうだけど、今回はすごく、すごく苦しいの。役立とうと頑張ったけど、結局お姉ちゃんに守られちゃった」
地面が彼女の涙で濡れていく。
「それでねっ、大事なお友達――めざめないの」
声が震えてる。フランも……何もできなかったことを後悔してるんだ。みんなの前ではいつも明るく振る舞ってるけど、暗い部分は全部ここで吐き出してただろうから。
何度も、何度も何度も、手の甲で涙を拭う。どんなに拭ったって、涙が止まるわけじゃないのに。
「どうして……私はお姉ちゃんみたいに強くないの……? お姉ちゃんみたいに、強ければ……イルナちゃんがあんな目に合わなくて済んだかもしれないのにっ」
なんて声をかければいいのか分からなかった。だって私も同じだから。掛ける言葉が見つかるなら、私は私に同じことを言いたいから。
鎖に繋がれたラビは、ただ静寂を纏っていた。何かを告げるでもなく、ただフランの溢れ出る後悔を受け止めている。
――何か、喋った? 微かな吐息か、あるいは呪詛か。だが、フランは気づいていない。ラビはただ、淀んだ瞳で虚空を見つめているだけだった。
フランが胸の内をさらけ出してから長い時間が経った頃、足音がした。フランが息を止めて入口を見た。
「どうしよ……ここにいることは内緒なのに……」
入口の影から見えたのは……王位継承権第一位のフィアナと、そのペアの獣人だった。
「お姉……ちゃん」
フィアナは感情を殺した瞳で、冷徹に言い放った。
「その者は大罪人。十二の貴族に逆らった鏡の国の王――ラビットキング。名はミラーレガリア」
フランは瞳孔を小さくさせて声を震わせる。
「どうして……喋ってくれるの?」
「ここは――誰も見てないから」
彼女の視線は私に向かった。私はどう反応したら良いか分からず、髪の毛をくるくると人差し指で巻き付けるように遊ばせた。
「お姉ちゃん……ラビは悪い人じゃないよ。私はそう思ってる」
「好きにすればいい。どう思うかは貴殿が決めることだ」
第零席が背を向けた瞬間にフランが駆け寄り、その背中にしがみついた。
「待って……! お姉ちゃん。やっと……話せたのに」
「……」
フランは、第零席のシャツを強く握りしめながら問いかけた。
「お姉ちゃん……えっと、あの」
遠くから見ていた私は、息を呑んでその光景を見守る。第零席の手が、フランの背中に触れるか迷うように、わずかに宙を彷徨っていた。
ひょこっとペアの獣人の子が顔を見せ、フランに話しかける。
「あなたのお姉さんね。あなたのために第零席になったんだよ?」
「え?」
フランは理解が追いつかないらしい。獣人の子はクスクスと口元に手を当て、楽しげに語り出す。
「フィアナは耐えられなかったの。姉妹なのに視線すら合わせられないこと。あなたを『いないもの』として扱う閉塞感に、彼女自身が一番傷ついてたんだよ」
「お姉ちゃん……」
第零席は小さく息を吐いた。……これまでの隔絶が、獣人の子の一言で霧散していく。ためらいを捨てたように、彼女は自分の口からすべてを語り始めた。
「私は、第零席になった。けれど、学院の力じゃあなたにエルワースの名を返してあげることはできない。私が玉座につくのはずっと先。第零席のまま卒業すれば至高評議会に入れる。どんな国に対しても外部から法律をねじ込める最高峰機関。過半数の同意を得る必要はあるけど――だからもう少し待っててフラン」
「……」
すべてを受け止めたフランは、第零席の胸に顔を押し付け、声を殺して泣きじゃくった。そのくぐもった呼吸音だけが部屋に響く。やがて、彼女はゆっくりと顔を離し、姉を見上げた。
「お姉ちゃん。自分のために生きて」
「フラン……?」
「すごく嬉しい。お姉ちゃんが私のために頑張ってくれてたの。でもいいの。私が……私が頑張るから」
そっと離れていく。
「いつも誰かに守ってもらって、誰かに助けてもらって、誰かになんとかしてもらう。私って本当にそれでいいのかなって」
彼女は私の手を引いた。震えはない。
「至高評議会で待っててお姉ちゃん。私だって怒ってるもん。陛下の評価が不当だったこと、証明してみせる。王族の名を奪われた私が第零席となって『スローネ』に座って見せるから」
スローネ――学院の頂点。そこにフランは座ると言った。虐げられ、否定され、努力も実を結ばない日々の中で、彼女はずっと自信を持てずにいたはずだ。
そんなフランが、姉へ真っ直ぐに宣言したのだ。ならば私も、怖気づくわけにはいかない。
私はフランの手を握りしめたまま、その場に膝をついた。
「グラヴィエ伯爵家令嬢、クローネ・グラス・グラヴィエはここに誓う。王位継承権第三位『フラン・エルワース・ファニス』の偽りなき名を、必ず取り戻すと」
私の手の甲に、ぽたりと熱い雫が落ちる。
「もう、本当に泣き虫なんだから」
フィアナは静かに目を閉じると、少し口角を上げながら出口へと歩き出す。
「大きくなったのね。小さくて、まだ縛られてなかった頃、あなたと無邪気に遊んでいた頃が懐かしい。至高評議会で待っている」
従者がクスクスと笑いながら後をついていく。
「もっといろいろ話せばいいのにー。フランさんのこと大好きなくせにー。あつっ! あっつつつつ!!」
弱火で炙られていた従者はびょんびょん飛び回っていた。第零席の特殊な照れ隠しに私とフランは表情が緩んだ。
フランは見送った後、私の手を強く握った。
「ありがと。クローネちゃん。目指す資格なんてないと思ってた。でも、覚悟決まったよ。クローネちゃんが……手を握ってくれるから」
「覚悟だけじゃ無理だからね? 私たちが第零席になるってことは――イルナとエリスを超えなきゃいけないんだから」
「うん……頑張るね」
第零席になることへの不安。自分たちの力不足という現実。そして……眠ったままのイルナ。たくさんのことがのしかかる。
私は部屋を後にしながら、最後に小さく呟く。
――イルナ、いい加減起きなさいよ。友達を泣かせて待たせるなんて、いじわるにもほどがあるでしょ。




