幕間一 クローネ視点
それはまだ、イルナが影の底から出てきた時のこと。フランが叫ぶと同時に、エリスも叫んで駆け寄っていた。私はあのバカが出てきて安堵した。どうせまたお腹空いたーとか言うに決まってる。
フランがエリスに続いて駆け寄った時、ふと――第零席の目がフランを追っているのに気がついた。
「……あんた」
私がそう言いかけた時だった。イルナを呼ぶエリスの声が、震えているのに気づいた。私は不安に駆られ、視線をイルナへと戻す。
「イルナ?」
私はそう呼びながら、息を切らして駆け寄った。イルナは横になったまま、虚ろな瞳で虚空を見つめている。口角から涎が糸を引いているのを見て、私は思考が凍りついた。廃人化? こいつが?
「ちょっとイルナッ! ふざけてる場合じゃないでしょ!」
イルナの肩を掴んで揺する。なんの反応もない。私はどこか、いつも楽観視していた。イルナなら、どんな窮地も笑い話に変えて解決してしまう――そんな根拠のない信頼を抱いていたのだ。
――だから重力魔法の第三段階目を躊躇した。
私の心臓が激しく脈を打つ。どうする。どうしたらいい。イルナがもし目覚めなかったら……? 冗談じゃない。そんなの――耐えられない。
コツ……コツ……と第零席が遠ざかっていく足音が聞こえる。でも、それどころじゃなかった。
――数日後。イルナはまだ治療室で意識を戻すことなく眠っている。私とフランも一緒になっていたが、エリスに追い出された。いつ目覚めるのか分からないこと。そして、学業があること。
夕食の時間。フランの手は全く進まない。まるで、気を抜けば泣き叫んでしまいそうな顔。実際、あの日はずっと夜泣きしていて、私が腕の中で慰めていたのだから。
私も……夕食の手は全く進まない。フォークはあいつの好きな肉を突き刺しているのに、刺さったまま。あの日の事件は目撃者も多かっただけあって黒本を使う人はいなくなった。所持はしているみたいだけど……
「はぁ……」
自然とため息も出る。私のせいだ。きっと。私が躊躇せずに第三段階目の重力魔法を使っていれば、第零席が黒本の処理に当たれたかもしれない。私なんかが役に立てたかは分からないけど、どうしても自責してしまう。
結局、私たちはほとんど食べることができないまま――食堂を出た。寮へと戻り、ベッドに腰掛ける。フランが俯きながら言った。
「やっぱり今日もエリスちゃん……イルナちゃんのとこに泊まるのかな」
「でしょうね。ペアだし、あの子なりに思うところがあるんじゃない?」
フランが……すっ――と立ち上がった。私は視線を向けることなく言った。
「またどこか行くの?」
「……うん」
背を向けたフランに、私はすがるようにシャツの裾を掴んだ。ピタリ、と彼女の足取りが止まる。驚いたように肩を揺らし、フランがゆっくりと振り返った。
「クローネちゃん?」
「一人に……しないで。いま一人にされたら……きついから」
フランはふと……どこかへ行ってしまうことがある。どこに行っているのかは分からない。聞くべきじゃないとも思ってる。でも今日は……一人で眠れる気はしなかった。甘えたかった。
「うっ……」
フランは一瞬、遠ざかろうとした。でも、踏みとどまった。そして私の手を握った。
「じゃあ……一緒に来る?」
その指先の震えに、私は戦慄いた。この子は天真爛漫で、怖いもの知らずなのだとばかり思っていた。けれど、この震えは――もっと深い、暗いよどみから来ているように感じた。
私は視線を彼女の瞳に合わせる。なんでそんな顔をするの。何に怖がってるの?
「私ね。嬉しかった。こんな私とペアを組んでくれるって言ってくれて。だって私は――弱いから。一度も私のことを責めなかった。だから、私の抱えているもの……見せたい」
「……抱えてやろうじゃない。私はあんたのペアなんだから」
ただ、苦しかっただけ。一人になりたくなかっただけ。そんなきっかけから始まったけど、この子に真剣な目で求められたのなら、私は答えたい。
――私はフランと一緒に馬車へと乗り込む。その馬車は窓が取り付けられていなかった。学院の外に出たのは分かる。距離があまりにも長いから。
とても長い時間、馬車に揺られていた。
「着いたよ」
フランが静かな声でそう呟いた。私はつばを飲みながら扉を開ける。そこは建物の中だった。広い廊下とでも言えばいいのか。背後には巨大な扉があり、簡単には出入りできるようには見えない。
コツ……コツ……とフランはヒールを鳴らしながら歩いていく。私はその音に現実へと引き戻されると、フランの後ろについていった。そして、その手を握った。
薄暗い廊下の突き当たり。小さな扉は複雑な魔法術式の施錠がされていた。フランはそれに手を重ねると浮き上がった魔法術式を書き換えていく。
カチッカチカチカチッと魔法術式が噛み合う音と共に、扉が半開きになる。フランは慣れた手つきで奥へと入っていく。扉の向こうは暗闇、足元は階段になっていた。地下深くへと足を踏み入れていく。
何も言えず、ついていくことしかできなかった。着いたのは小さな部屋。その奥にもう一つの扉。その前で、フランは立ち止まった。私の手をゆっくりと離す。彼女は片手を自分の片目へと当てた。
一つの魔法陣が浮かび上がる。フランは両目を閉じ、静かに片足を引いた。スカートを摘み、完璧な礼を執る。低く冷徹な声が、狭い部屋の空気を塗り替えた。
「初めまして、グラヴィエ伯爵家令嬢、クローネ・グラス・グラヴィエ」
名指された瞬間、背筋に冷たいものが走る。彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。奥に潜む鮮やかなオッドアイが、私を射抜くように見上げている。いつもの天真爛漫な面影は消え失せ、その場に跪きたいような重圧に、私は息を呑んだ。
彼女は冷たい目で私を射抜いたまま、宣告する。
――王位継承権第三位『フラン・エルワース・ファニス』




