アンナ
――沈んでいく。影の中はいつも静か。頭だけの顕現だったというのに、龍の姿は負担が大きいわね。残ってた魔力もほとんど空っぽになってしまったわ。
影の奥底へ沈んでいくギガスと黒本。
私がやるべきこと。それはギガスが私の影の世界に適応する前に黒本を支配すること。
私はさらに深く沈んでいく。禍々しい魔力を持つ黒本を手にした。描かれた表紙のタイトルは禁忌の書――ギガス。
この禁忌の書の魔力を龍の魔力に書き換える。龍の力なら他者の魔力を喰らいつくし、自身のものにするなんて、簡単でしょうから。
私は目を閉じた。微かに残った龍の魔力を呼び覚ます。禁忌の書――ギガスの魔法術式展開。マーカスほど上手くはないけれど、多少は読む必要があるわ。どこに魔力が流れているのか。
複雑な魔法陣が展開される。龍の目を凝らしながら読み上げつつ解読していく。複雑すぎて、今の私の知識では手も足も出ない。術式の組み方が現代のものだ……古代のそれとは根本から違う。
「大体分かったわ。目次程度だけれど、支配権を奪うには充分」
指先で表紙のタイトルをなぞっていく――侵食開始。
あともう少し。
クラッ……と視界が揺れる。
「……?」
突然影の世界がぐちゃっと揺れ始める。
私は危険を察知し、急いで影の世界から地上へと出た。夜の冷たい空気が私を冷やす。ざらついたボロボロの地面に両手をついて、息を切らす。
影の中で、まだ私の侵食は続いている。けれど、手遅れだった。本の黒い影が私の腕を伝い、魔力を喰らいながら意識の芯まで黒く塗り潰していく。
遠くでエリスが私を呼んでいる。その笑顔は、この泥沼のような影に沈む私には、直視できないほど眩しく映った。
「イルナさん! やりましたね!」
ごめんなさい。まだ――終わってないの。
私はそのまま意識を失った。――闇が晴れると、そこは秋の林だった。濡れた落ち葉の匂いと、冷たい風が頬を撫でる。私の記憶にある、あの場所だ。どこか懐かしい。この場所を知っている気がする。空気がほんの少しだけ冷たい。
「……理解したわ。これは記憶の再体験。黒本の檻に、私の精神が閉じ込められたのね。悠長にしている暇はないわ……」
近くの木に触れる。指先が樹皮の裂け目に沈み、乾いた粗い感触が伝わってくる。土の湿った匂い、頬を撫でる風の冷たさ。偽物なら消えるはずの感覚が、現実以上に鮮明に指先に残っていた。
私は歩き続けた。どこかに綻びはないか。
「死ね化物!!」
複数人の子供と大人。投げてくるのは石。大人たちは武器を持ってる。私は龍の目で牽制する。
「うるせぇ。食い殺すぞ」
――え? 今、私は……誰の声で、なんて言ったの? 聞き覚えのない濁った音色が喉の奥で震えている。自分の体なのに、勝手に獣の唸りがこびりついて離れない。
頭を両手で強く締めつける。私はイルナ、それだけは揺るがない。エリス、クローネ、フラン……大切な名前が脳裏でかすれる。消えないで。
でも、私は……なんで彼女たちの名前を知ってるの?
怯えた人間どもを無視して、私は歩き続けた。
「忘れないで、大切な記憶でしょ。最初は、甘い蜜だった。でも、あの子達が好きになっていたんでしょ。頑張りなさい、イルナ・ヴァレス・ドラクシス」
長い時間のあと、街へ着いた。化物と恐れられる。当然だ。私から溢れる魔力は人間には異物でしかないのだから、彼らが石を投げるのも無理はない。溢れ出る魔力は人間とは違う。簡単に魔族とバレてしまう。
「消えろ化物! お前達に奪われてたまるか!! 小汚いクソ野郎が!!」
――影で、自分を守って……
ゴツンッ……と石が当たっても、影は出ない。――そうか、これは『私』の記憶だ。名前も持たず、ただ飢えと敵意だけで動いていた、あの獣のような頃の光景。
「うぅぅぅう」
痛い。だから殺す。こいつらを。
「ひっ……」
逃げた。雑魚。あんなのもうどうでもいい。食べ物。店の中、ある。美味いな。
ここはつまらない。どっかへ行こう。結構歩いた。でっかい家。壁……登ればいいか。指を壁に突き刺しながら……壁の内側に入れた。
――広い庭。外に置かれたテーブル。小さなイスに、女が座ってる。金色の髪。綺麗。私に気づいた。こいつ、私に怯えない。気持ち悪いな。
「死ね」
「あら? ずいぶんと物騒なご挨拶なのね?」
「……怖くないのか。私は化物だぞ」
「ただの魔族でしょう? 傷つけるために来たの?」
「……気持ち悪いなお前。人間らしくない。暇つぶしに来ただけ」
彼女は、よく分からないという顔をした。こいつはなぜ分からない? 人間は私に敵対する生き物だろ。他の動物や魔物と同じ。
「一緒に紅茶でもいかが?」
「紅茶? なんだそれ」
「え? 知らないの? 世間知らずなのね。教えてあげるわ。こっちへおいで。私は怖くないわよ」
――逆のはずだ。私がお前を恐れるはずがないだろ。意味がわからない。でもいいか。紅茶に興味がある。
私は彼女の隣のイスに両足で立った。そしてしゃがみ込む。彼女は私の座り方が面白いらしい。
「ふふっ。あなたの座り方おかしいわっ」
「……笑うな。死ね」
「あははっ。本当に口の悪い子ね。はい、飲んでみて」
彼女は一つのコップに何かを注ぎ入れた。湯気の立つそれをスンスンと嗅ぐ。なんだかいい。好きだ。期待を込めて一口飲み込むと、苦みが舌を刺した。
「ゔぇー……」
「あははははははっ」
彼女が腹を抱えて笑っている。なんだかムカつく。彼女が何か白い粉と、四角い塊を紅茶に投げ込む。毒か? と身構える私をよそに、彼女はニコニコと差し出してくる。不審でたまらないが、不思議と喉が鳴った。
「――!!」
美味しい! なんだ、なんだこれっ! 澄んだ甘さ。世界がひっくり返るような衝撃だった。
「喜んでくれたみたいね。とても嬉しいわ」
彼女は目を細めて微笑む。
「ねえ、あなたのお名前は? 私の名前は――アンナよ」




