病
「……名前? 知らない。でも、たぶんこれか? 私、文字読めない」
気を許してしまった。私は指につけていた指輪を見せる。
「イルナ・ヴァレス……ドラクシス。つまりイルナさん、ってことになるのかしら?」
「イルナさんってのが私の名前か?」
「ふふっ。イルナが名前よ。さんをつけるとね。敬意を表すの」
「敬意? なんだ。それ」
「分からないの? 本当に、敵しかいなかったのね」
彼女は目に涙を浮かべながら私の頭に手を触れた。温かい感触が触れた瞬間、私は反射的にその手を弾き飛ばしていた。心臓が喉まで競り上がり、全身の血が引いていく。私は壁際まで跳ね退き、獣のように身を縮めて喉を鳴らした。
「うぅううう!! やっぱり、攻撃か!! クソ! 死ねっ! ころ……さないでいてやる!」
殺すという言葉はなぜか出てこなかった。戸惑う彼女の手が行き場を失っていた。言い訳をするようにさっきの行動をこう説明した。
「あっ……違うわ。撫でるのよ」
「手、出した!! 攻撃! 魔法か!! なんで、そんな顔する。怒るんじゃないのか。その顔、なんて言う」
「……悲しいのよ。ねぇ、あなたが今までどんな時間を過ごしたのか、教えてくれる?」
「……攻撃しないか?」
「えぇ、約束は守るわ」
「……分かった」
私は記憶の底をさらう。暗い地下の底、冷たい石の床。名前も言葉も持たず、ただ空腹に耐えて這い出した外の世界だ。出会う人間は皆、私の喉元に刃を突きつけてくる敵ばかりだった。
「……そう。あなたは言葉をそうやって覚えてしまったのね。人がどんなものかも、分からないわよね。その一面しか知らないんだもの」
「なんで泣く。意味がわからない」
「共感って言うのよ。あなたが苦しいと、私も泣いちゃうの。泣くことはね。大事な感情の一つよ」
「分からない」
「教えていくわ。時々遊びにいらっしゃい。食べ物も用意してあげるから」
「……嫌だ」
「どうして?」
「分からない。だから怖い。そんなことするやついない」
「私が初めて、というだけよ。怖くても私が一緒に居てあげるわ」
「……分かった」
そうして私は彼女の元へ何度も遊びに行った。毎日のように、紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んだ。彼女はいろんなことを教えてくれた。
言葉遣い、所作、そして音の連なりに込められた感情。アンナはひとつひとつ、私に世界の色を教えてくれた。
「んー、美味しいわね。このお菓子」
私がそう言うと、アンナはクスっと笑った。
「それは良かったわ。言葉を覚えるのが早いのね。びっくりしちゃった」
コンコンッ。ノックの音がする。私は肩を落としながら言った。
「終わりの時間かしら。またお医者さん?」
「えぇ、そうよ。ごめんね」
「分かった」
私は壁をよじ登った。いつもは見ないようにしていたけれど、そっと中を覗き込む。白い服を着た男が、彼女の腕に触れ、淡々と検査を進める。その男の指先には温もりも、気遣いもない。まるで壊れた人形の部品を確かめるような、無機質で冷徹な作業。その男には、アンナという人間への敬意も温度も欠けていた。数分で終わる。
その後に、一人の男が入ってきた。服装は豪華で、礼服という感じ。アンナと少し話をして、出ていった。私はてこてこと歩いて、部屋の中に入った。ベッドに座っている彼女は私を見るといつものように微笑みかけた。
「イルナ来たの?」
「終わったみたいだから。最初の人がお医者さん?」
「そうよ。私の体を見てくれるの」
「治してくれる? 二人目は誰?」
「あの方はお父様よ」
「お父様?」
「あっ、そっか。イルナは知らないわよね。人というのはね、二人の男女から生まれるの」
「へー。特別?」
「そう。特別なの。家族というのはね。とても大切なものなのよ」
アンナは少し目を逸らしながらそう言った。
「女は何ていうの?」
「お母様よ」
――私は、アンナと長い時間を過ごした。毎日、毎日笑いあった。何気ない会話の端々で、凍りついていた心の内側に小さな火が灯る。胸の奥で、氷が溶けるような音がした。アンナとなら、この先もずっと笑い合えるのかもしれない。そう思えてならなかった。
「ケホッ……ケホッ」
「アンナ? また咳? お医者さんに診てもらってるのに、治らないの?」
「えぇ……そうみたいね。まだ治らないの」
「早く治してまた庭で飲もうよ。紅茶」
「そうしたいわ。枯れ葉の色が悪くなってきたわ。もうすぐ……冬ね」
コンコンッ。私はまた壁の上へと移動した。胸が痛い。嫌よ。私は……もっともっと一緒に居たいんだもの。
また数分でお医者さんは帰っていった。お父様はもう来なくなってた。
「……直接聞いてみようかしら。いつになったら治るのって」
私は屋敷の開いていた窓から屋敷の中へと潜入した。広い屋敷の中を、メイドに見られないように歩きながらさっきの医者を探した。とある大きな部屋。扉の奥から、声が聞こえる。
「ハスター公爵。今日も役割を終えましたよ」
あのお医者さんの声だ。
「そうか」
お父様の声。
「ま、堅苦しいのはやめるか。俺達は馴染みなわけだしな」
「くくっ。そうだな。娘の様子はどうだ」
「どうだって言われたって”分かるわけないだろ”」
「それもそうだ」
――どういうこと? 分からない?
その後も会話を聞いていたけど、なぜ分からないのかまでは分からなかった。
次の日、アンナといつもみたいに話していたけど、私は言えなかった。どこか、言ってはいけないんじゃないか。そんな気がしたから。
「ケホッ……! ケホッ!」
「アンナ!」
ひどくなっていく咳。もう、体もずいぶんとやせ細った。顔色も悪い。どうして……治らないの? 顔色は土のように青白く、呼吸はひどく浅い。昨日の彼女とは、明らかに違う。私はアンナとの約束で、家の人には見られないようにしていたけど、それどころじゃない。
走った。屋敷の中を。
――死んじゃう。アンナが死んじゃう。嫌だ、そんなの嫌だ。また一人になるなんて耐えられない。喉の奥からヒュウヒュウと悲鳴が漏れた。助けて、誰か、この人を助けて!
一人のメイドがある部屋に入っていくのが見えた。
「お願い、アンナが!!」
紅茶へ手際よく何かを混ぜ込んでいたメイドが、独り言のように呟いた。
「早く死ねばいいのに。あなたが消えれば、私が主人の寵愛を……。ああ、私ならもっと……あなたより、ずっとうまくやれるはずなのに。そう、私なら……あんな出来損ないは生みませんから」
うっとりしていた彼女は、私の存在に気がつくと、怯えた表情で私を見た。私は全身が冷たくなるような感覚に襲われた。
「ねぇ今――なんて言ったの?」




