廃人
――あれから数日が経ちました。治療室のベッドに横たわるイルナさんは、まだ目を覚ましません。焦点の合わない瞳は、どこか遠くの景色を映しているようでした。他の黒本の使用者のように、人形のように何の反応も示さないんです。
意識が沈んだまま、浮き上がってこない。かつて黒本に蝕まれた者たちがそうであったように、瞳から光が消え、私を見ることすらできないようです。
イルナさんがギガスを取り込み、地上に出てきた後のことです。騒ぎを聞きつけた教師たちによって私たちは保護されました。アルバートのペアのベックさんは退学処分。アルバートはポイントを剥奪され降格処分と、当面の決闘の禁止を言い渡されました。
他の被害として、第一決闘場のみならず、スローネによる第七階梯魔法の余波でヒビの入った全校舎の修理など、大人たちは大忙しなようです。フランさんとクローネさんはいつも通り、とは言い難いです。ベッドで虚ろなイルナさんを見ると、言葉を失ってしまいます。
――いつになったら起きてくれますか? ベッドの上で、意識のないイルナさんを見るのは辛いです。
一ヶ月が経過しました。学期末も終わり、冬休みです。実家へと戻るクローネさんたちとお別れし、私はイルナさんを車椅子に乗せて実家へと帰省しました。いくつもある屋敷のの一つ。そこは私やアルバートが育てられた屋敷です。
「ただいまです」
相変わらず、侍女と家族の目は冷たいです。私の現在の状況など、お父様やお母様含め、誰も知らないのだと思います。きっと興味がないんです。期待してないから。私を歓迎する者はおらず、ただ屋敷の調度品よりも価値のない存在として扱われます。
でも、変わったことがありました。アルバートが謝ってくれたんです。自分のペアが危険行為をしていたことを相当重く受け止めているようです。
「ごめん。姉さん。許さなくていい。全部僕の監督責任だ」
彼の目は、車椅子で虚ろな目をするイルナさんへと向いていました。様々な感情が入り混じった表情をしているようです。
「本当です。炎の貴族、次期当主としてあるまじきですよ」
「返す言葉もないよ。今までのことも謝りたい。もちろん何をされても文句は言わない。認めるよ――僕は姉さんよりも圧倒的に弱い。だからこそ恥ずかしい。様付けさせておいて、自分の立ち位置を理解してなった」
「分かっています。父の教えがそうでしたから。でもあなたを許しません」
アルバートの顔が曇る。けれどどこか当然と言ったように静かに頷いた。
「分かってる。ずっと姉さんを見くびってた。資格のないただの凡人だって。でも姉さんは強かった。僕は姉さんの足を引っ張っていた足手まといそのものだ。好きなだけ断罪してくれ。これは罪だ。償う覚悟はできてる。腕を落とせと言われたならこの場で斬り落とす」
お父様に似て、本当に極端です。私はため息をついた。
「今は何も言いませんし、何も許しません」
「分かったよ。姉さん」
もっと責め立ててほしい。そんな渇望すら滲む表情で、弟は力なく俯いていました。私は腰に手を当て、少しだけ背伸びをして大人びた態度を装いました。
「あくまでも今は、です。まずはちゃんとイルナさんに謝ってもらいます」
キョトンとした顔でアルバートは口を開ける。
「姉さんは本当にその人が好きなんだね」
「すっ!? えぇ、そうですよ? 大好きです。大切な……パートナーですから」
「……起きたらちゃんと、謝罪するよ。もちろん今も」
イルナさんの前で、弟は膝をついて頭を垂れました。その表情はとても真剣で、苦しいものに見えました。こんな弟の顔を見たのは初めてです。
「炎の貴族、ヴォルド家次期当主――アルバート・エンバー・ヴォルド。貴殿に対し、無礼を行ったこと、心から……謝罪する」
「よろしい」
気恥ずかしそうにアルバートは口を閉じると、逃げるように去っていった。まだまだ子供ですね。私は自分の部屋へとイルナさんを案内しました。
「そんなに大きな部屋じゃなくてすみません。他の部屋よりも質素ですが、寮よりは過ごしやすいと思いますよ。寮と違って何不自由ないとは言えませんが、ここなら少しは落ち着けるはずです。手入れが行き届いておらず恥ずかしいのですが……。」
私は軽く部屋の掃除を済ませたあと、たくさんのお肉を用意しました。出来るだけ細かく調理をしたあと、イルナさんの口の中に入れます。細かく刻んだ肉を匙ですくい、丁寧に唇へ運びました。
飲み込む喉の動きを確認するまで、私は決して匙を引くことができません。この温かな嚥下だけが、彼女がここに「いる」という唯一の証拠なのです。
「アンナ……」
ボソッとイルナさんの独り言。私はそっと抱きしめる。誰のことなのか、私には分からない。いつもこうして、時折言葉を出すんです。一人にしないで。アンナ。どうして? など、いろんな言葉が聞こえてきます。どんな夢を見ているのでしょうか?
アンナ、と呼ぶその声に刺すような嫉妬が胸を突く。けれど、イルナさんが僅かに身じろぎした瞬間、私は即座に自身の感情を心の底へ押し込み、介助者へと徹しました。
「あっ、トイレですか? 今連れていきますね」
冬休みもあっという間に過ぎていきました。寮へ戻ると、クローネさんとフランさんが待っていました。
「お久しぶりです。クローネさん、フランさん」
「久しぶりエリス。やっぱりまだ……」
クローネさんの視線が、今も虚ろなイルナさんへと向きました。私は、事実を肯定するように頷きました。
「はい……状況は変わりません」
フランさんも心配な様子で、泣きそうな目でイルナさんの冷たい手をそっと握りしめていました。
「うー……表情がないの嫌だよぉ。私さみしいよ、イルナちゃん。クローネちゃんがキスしてくれるって」
「しないわよ?!」
「うー……これでも起きない……」
フランさんは唇を尖らせ、潤んだ瞳に期待と怯えを滲ませながら、イルナさんを覗き込んでいます。淡い期待が、変わらない沈黙によって静かに消されていくのが分かりました。
「あんたね……私は餌じゃないんだけど。まぁ、それで? 目が覚めるっていうなら……するけど? でもどうせ起きないし」
クローネさんが、近づいてイルナさんに優しくキスをしました。やっぱり、反応はありません。クローネさんは恥ずかしさを隠すように「やっぱりダメじゃない!」と背を向けてしまいました。
「さっさと起きなさいよ。席順位……追いついちゃうわよ。バカ」
あれから、私とイルナさんの順位は少しずつ下がる状態でした。一時的な決闘凍結の処理をしてもらっているからです。一方で、クローネさんとフランさんは少しずつ順位を上げて、ナイトが目に見えてきています。追いつかれてしまうかもしれませんね。




