ギガス
私は――目を見開いた。心臓が早鐘のように跳ね上がる。見上げれば、山のような重量を持つ巨大な足が、天を覆い尽くさんとしていた。皮膚を刺すほどの濃密な魔力に、大気が悲鳴を上げている。
逃がさないと――生存本能が脳内で警報を鳴らし続けた。
「クローネ!! 全員避難!!」
私は喉が裂けんばかりに叫んだ。その声に反応してクローネ達が動き出す。観客達も事態を察したのか、悲鳴を上げて我先に出口へ殺到していた。
この観客を守りながらなんて無理だと私は悟っていた。あの第零席にでも加勢してほしいところだけれど……本気で戦わなきゃいけない。でも、私の微かな魔力じゃ――大七階梯魔法術式は使えない。
「終われない終われない終われない!!」
アルバートのペアが怒声のように叫んでいた。
「ここまで来たんだ! 終われない!! アルバート様とスローネに……!!」
彼のローブが風圧で激しく翻る。その手に持っていた黒本に魔力が逆流する。黒無地の表紙に描かれたタイトル。それは、この怪物と同じ名前。見上げていたフランが、戦慄と共に呟いた。
「神に抗う者――ギガス」
この場に残ったのはアルバートとそのペア。私とエリス、そしてクローネとフランのみ。
――全身を現したギガスの巨体。岩の山と表現する他ない。それが意思を持ち、魔力を持ち、今――私たちに敵意を向けている。肌がピリつくほどの殺気だった。
本物よりは小さい。けれど、それで世界二大最強種のうちの一種。
「ノクト・グラビティア――グラウィス!」
クローネが少しでも動きを止めようと重力魔法を使った。けれど……
「嘘……ほんの少しも」
最強種はどちらも反魔法術式を持っている。つまり、それを破壊するだけの能力が必要だった。だから今は――アレの相手はしてられない。
私はアルバートを睨む。
「なんだ……! 僕は何も知らないぞ!」
「あら、黒本について王族の夜会で調べていたじゃない」
「ふざけるな! あれは秩序を保つためだ! 僕は貴族だ。その誇りを持って、あんなもの使うはずがないだろうが!!」
「じゃあ……あの子の独断ってこと?」
「そうだよ。僕は前線だから気づかなかった。やけに成長したと思ったら……恥さらしめ」
アルバートは忌々しげに吐き捨て、震える拳を握りしめた。
私たちに巨大な影がかかった。あの巨体でこの速度。背筋に冷たいものが走る。冗談じゃないわ。
――パキッ! と私の氷塊が間に入る。けれど粉々に砕け、全員が吹き飛ばされる。各々が受け身を取る中、アルバートだけは走り出した。端で倒れているペアに向かって。
「ベック!! このバカが! そんなに僕の力が信用ならなかったか!」
落ちていた自分の剣を拾い上げ、すぐさまその剣をベックの腕に突き立てる。そして手から離れると蹴り飛ばした。
「馬鹿者が。次期当主であるこの僕を――甘く見るな」
――一瞬だった。ギガスの蹴り上げた足先に、アルバートが触れた。彼が観客席へと吹き飛ばされる。剣は手放され、着地の反動すらなく全身の骨があらぬ方向へと曲がっている。その瞳から、瞬く間に光が消えた。
私は目を伏せた。最悪だ。持ち主から本が離れても消えない。クローネが息を荒げる。まるで、怯えるように手を前へと突き出した。
「大丈夫……きっと。三段階目に」
怖いのだろう。魔法を発動することに躊躇していた。察するに、成功したことがない。あるいは重大な副作用がある。
「クローネさん危ない!」
エリスがクローネを抱きかかえながら横に飛ぶ。かすめた風圧だけで何メートルも転がされた。私は覚悟を決めた。龍の力を使うしかない。でも使える魔力はほんの僅か。おそらくあのギガスを破壊できるほど残ってない。吸血すれば……
私は首を横に振った。あの黒本さえ無効化すればいい。フランの魔法術式じゃ媒体を破壊できないと考えると、それしかない。
みんなに時間を稼いでほしいけれど……エリスの剣じゃあの規模には刃が立たない。クローネは賭け。フランは数秒。しかもあのギガス、分かってる。
あの黒本を守ろうとする。
――背筋が凍りつく。この感覚、初めて会った時と同じだ。王族のマントを翻し、オッドアイを冷徹に細めながら、彼女が戦場に足を踏み入れる。
「第零席スローネのフィアナ・エルワース・ファニス……」
相変わらず無言。腰から抜き出した装飾の豪華な剣をギガスへと向ける。私は呟いた。
「あれを少しの間足止めして。出来るかしら?」
返事はない。ただ、一目私を見るだけ。後ろの獣人の女の子が小さく頷いた。コミュニケーション能力無さすぎだと思うのだけど……
私は龍の魔力へアプローチしていく。ずいぶんと久しぶりだもの。一部とはいえ、龍の魔力ではなく、龍の力を使うのだから。
その横で、ギガスが何かを悟ったのか、私を攻撃しようとしたその時だった。ギガスの姿が見えなくなるほどの魔法陣の数。詠唱も無しに叩き込まれる第六階梯魔法。
ギガスは鬱陶しそうに魔法陣を破壊しようと腕を振り回す。未だに無表情の第零席のフィアナ。消しても消しても叩き込まれる。
パキンッ……とギガスの半魔法術式にヒビが入った瞬間だった。天から一本の線。私は直感した。これは第七階梯魔法。
雲に覆われていた空は一瞬にして曇りを晴らす。周囲の空気を急速に圧縮し、解き放たれる破壊の権化。私たちを白い結界が覆い隠す。
本当に怪物ね。これが人間? 同類と言われても不思議じゃないわ。とてもシンプルな固有能力が二つ。一つは無詠唱魔法。もう一つは全属性の魔法を使うことが出来る。もはや魔法そのものと言っても過言じゃないわね。無詠唱で第七階梯魔法なんて叩き込まれたら、第零席なんて呼ばれてもそりゃおかしくないでしょうね。
粉々に砕けたギガス。これで終わってくれれば助かったのだけど、一秒と立たず完全回復。正直、ギガスに破壊されるのが先か、第零席に破壊されるのが先か。みたいな状態ね……この学院の運命は。
――初めて、フィアナの表情が動いた。その視線はフランへと向いていた。
タイミングはフランが魔法術式――セイクレッド・アーバー・チェインズを使った時。少しだけ口を開けて驚いていた。効果は抜群だったのか、ギガスの攻撃が鎖を引きずりながらフランへと向いた。
次の瞬間、ギガスは数千の雷槍に貫かれ、行く手を阻まれた。オッドアイの奥で、静かな怒りが静かに燃えている。
「禁忌階梯魔法――」
フィアナが初めて口を開いた。その瞬間、獣人の女の子がそれを止める。
「待って待って! フィアナ様やりすぎ。みんな巻き込んじゃう」
ハッとすると、口を閉じた。
「もう充分よ」
私はそう呟く。
――影の中へと落ちる。龍の姿になるなんて、いつ以来かしら。私は自分の意識が引き伸ばされ、巨大な衝動に飲まれる感覚に身を委ねた。
影の中から、白銀のドラゴンの頭が姿を現す。咆哮が轟き、鱗が鈍く光る。私は龍となって黒本をギガスごと一飲みしたが、その姿は彼女たちにはどう映ったのかしら。
世界二大最強種のうちの一種は龍族なのだから。
私は完全に支配するために取り込んだ。そうでなければギガスが消えない。影の中で暴れられても困るもの。彼らなら這い出てしまうでしょうし。
けれど、支配する。それが間違いだった。いえ、正しいとも言える。そうでもしないと消えないのだから。黒本の禍々しい禁忌の術式は、私の記憶を覗き込んだ。




