学期末
ギィ……と扉が開く音がする。隣の個室に入っていた人がトイレから出ていった音。
「イルナさん?」
私は返事をしなかった。影の中で、膝を抱えて俯いていた。
「吸血行為、しないんじゃなくて――できないんですか?」
唇を強く噛み締めながら、私は震える体を抑え込んでいる。
「そうですか。理由は、きっと教えてくれませんよね。何も聞きません。いつか――話してくれるような人に私がなりますね」
影の中で、私は胸を押さえた。どうしたらいいか分からなかったから。どんなに長く生きても、消えないものがある。
「アンナ……私は、どうしたらいいと思う?」
私の独り言はエリスの影の中に消えていった。
それから少しして、彼女は教室に戻った。クローネはその頬に残る赤みに気づいたらしく、フランとのおしゃべりを中断して茶化す。
「なにあんた。イルナとキスでもするためにトイレ行ったの?」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
エリスが指先を唇に当てて、少し戸惑っていた。その様子は、クローネにとって格好の答え合わせになってしまったようね。クローネまで顔を赤くして視線を逸らした。
「じゃ……じゃあ結果的にしたのね。ほんと節操ないんだから」
フランはよく分かっていないようで頭だけ傾ける。クローネがあんたは分からなくていいのよとくしゃくしゃと彼女の髪を撫でた。
「あんたはね。なーんにも知らないままでいいの。餌食になるんじゃないわよ? んで、エリス――なんかあった?」
「あっ……」
勘の鋭いクローネは、いとも簡単に異変に気づいてしまった。エリスは私が影にいることを分かっているはず。それでも彼女は私との出来事を口にした。
「イルナさんが……吸血をしようとしたんです。でも、しないように命令しろって」
「あぁ、そういやあの子が吸血するところ見たこと無いわね」
「はい……ずっと、吸血をしないという選択をしているのだと思ってました。まるで選べるかのように。でも違うんです。イルナさんは――できないのではないかと……」
「……あぁ、なるほど。そういうことね。だから――イルナが下僕になったのね」
エリスがハッとするように目を見開く。
「イルナさんが……自分をコントロールするために? てっきり、私の恐怖心を煽らないようにと思ってました」
「あははっ。ないない。そんな気遣いはしないでしょ。あいつの場合、恐怖心があったら乗り越えろってスタイルでしょ。私の時もそうだったし」
「……いつか話してくれるように、どれだけのことをすればいいんでしょうか?」
「話してほしいの?」
クローネの問いかけに、エリスは静かに頷いた。
「……はい。私が首を突っ込むことではないとは思います。でも、イルナさんだって私に首を突っ込んで救い出してくれました。私もそうしたい。吸血をやめさせた時のイルナさんの顔は……見ていて辛かったですから」
「――あっそ。私には分かんない。どうすりゃあの子がもっと信頼してくれるかなんて。でも、少しずつその距離は縮まってるんじゃない? 最近いつもよりあんたにべったりだし、自分の過去をフランに話してくれたりしてたし。私たちが起きていたことくらい、気づいた上で話していたみたいだしね」
「そう、ですかね。だといいんですが……」
「居心地のいい場所であればいいでしょ。今のままでいい。今は目標に向かって頑張ればいいじゃない。なるんでしょ。スローネ」
「クローネさん……はいっ! なります。スローネに!」
クローネは元気になったエリスの顔を見て、小さいため息をついた。フランの髪をくしゃっと撫で回し、こう言った。
「私たちもなるわよ。スローネ。あの子たちに先をこされないようにさ」
フランは顔が曇った。
「私が……スローネ? えっと、う、うん」
「歯切れ悪いわねー。目標が高くたっていいでしょ?」
「そうだねっ、えへへっ」
そう笑う彼女の顔が偽物であることは、きっとクローネにはバレバレだっただろう。
――あれから時が過ぎ、学期末が近づいてきていた。一年の終わりが近づく中で、私とエリスは躍進を続けていた。
第三決闘場。二人の男性生徒、クラスはオリハルコンの二年生。席順位は四百三位。私たちはその一個下。レート計算上、ここで勝てば私たちはスクワイアという階級からナイトになれる。つまり、エリスの弟、アルバートと同じランク。
決着は早かった。恐れることなく剣を主体とした戦いをするエリス。私の龍の魔力を纏って舞う彼女の前には、もはやスクワイアの対戦相手など敵ではないわね。
エリスが鞘から剣を抜き、静かに構える。――試合の開始の合図と同時だった。
「第五階梯魔法――イグニス・ドラグーン」
黒の内部を、血のような赤い炎が包む龍の岩石が相手に降り注ぐ。決闘場の温度を一気に上昇させ、落ちる過程ですら空気を揺らす。
相手のペアが、その大規模すぎる攻撃に放心しかけ――悪足掻きのように懐から引き抜いた黒本が、突如として禍々しい光を放った。
「なっ、なんだ?! 急に光りだし……て」
叫んだ男の瞳から、またたく間に光が失われていく。黒本から溢れ出た底なしの闇が、まるで彼の存在そのものを貪り喰らうように侵食していくのが見えた。私の龍の目が、その最悪な魔力の奔流を瞬時に解析する。あのおぞましい禍々しさ――間違いない、『当たり』の黒本よ。
私はマスケット銃を地面へと向け、迷わず引き金を引いた。乾いた一発の銃声が、イグニス・ドラグーンの轟音の中へと掻き消されていく。同時に銃身の彫刻が魔力を帯び、足元へ影の盤上を展開する。
――影の盤面が、またたく間に会場を侵食し、覆い尽くしていく。
「――第五階梯魔法術式 ノクト・ザ・アドミニストレータ」




