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エリスの嫉妬

 背を向けた後、私がちょっかいをかけた子がボソッと呟いた。


「イルナ様……」


 周りの取り巻き達から「は?!」と驚く声が聞こえる。私はクスクスと可愛らしい子たちのざわめきを背中で聞きながらエリス達の元へと戻り、顎に手を当てて考え込んだ。


 私の龍の目は、あの子が持っていた黒本を捉えていた。そこに流れる魔力は微々たるもので、術式の構造も酷く稚拙。少なくとも、クローネ達を襲った黒本とは別物。あの禍々しさはないわ。


 一種の流行り。のようなものだと思うけれど、気をつけるに越したことはないわ。エリスは私が守るから問題ないけれど、クローネやフランが戦っている時に同じ目にあったら……


「一体誰が何のために……けれど集められる情報は少ないわ」


 分かったのは誰かが売りさばいていること。当たり外れがあること。学院は認知しておらず、まだ危険視されていないこと。もっと大きな被害が出てからじゃないと、アッシュの私たちが注意したところで聞く耳は持たないでしょうし。


 今は……順位を上げることに注力するべきかしらね。


 エリスが少しトイレへ行ってきますと浮かない顔をしていた。その言葉で我に返った私は「行ってらっしゃい」と呟く。そして……彼女がトイレに入り、ため息をついたとき、私はドアをノックした。


「入っていいかしら?」


「ダメに決まってるじゃないですか?!」


 私はクスクスと笑う。


「あらどうして? 本当はトイレではないんでしょ?」


「む……」


 影へと入り、個室の中で私は姿を現す。


「ほら。やっぱりね。どうしたの? 何か気に触ることでもあったのかしら」


「それは……」


 私は彼女の太ももの上に跨るようにして乗った。狭い個室の壁に彼女を閉じ込め、上から見下ろしながら囁く。


「当ててあげましょうか? いくつかあるわね。一つは……アルバートのこと?」


「なんでもお見通し、ですか? そうです。弟のことを思い出しました。順位を駆け上がっているという噂を聞いて、もしかしたら黒本を使っているのかもしれない。責め立てるつもりはありません。胸にしこりがあるのは……きっと弟と戦わなきゃいけないってことです。弟が、さらに黒本で力を得ていたら――私は勝てるのかなって」


「不安なのね。ずっと虐げられて、牙を向くことに怯えてる。でも闘志があるのなら充分。そんな風に悩む時点であなたはきっと……弟に決闘を申し込むつもりなのでしょ? 順位差は明白。それでも私との約束――第零席に座るために」


 彼女の顔は曇ったまま。けれどその瞳に覚悟が見えるような気がした。この子は踏み出そうとしている。私たちはまだスクワイアの中位。相手はナイトの中位という噂。およそ二百位前後まで上がってる可能性がある。


 前回の勝利で私たちは六百五十位。まだまだかけ離れてる。通用するかどうかはナイトに入ってからでないと分からない。


「なら、ナイトになりましょうか。連勝すればいいんだから」


 ささやきながら唇を重ねる。甘美な声が彼女から漏れる。


「んっ……イルナさ……待ってくださいっ」


 契約のパスを通じて強制力の魔力が流し込まれ、私はピタリとキスを中断した。彼女を見下ろしながら、荒い呼吸をする彼女の首に手を回す。エリスは目を逸らしながら顔を腕で隠した。


「どうしたの? 命令までするなんて。私のことが嫌いになった?」


「ちがっ……違うんです。なんか、私――イルナさんが他の子にちょっかいかけてるの見て……少し嫌な気持ちになったんです。それで今、キスされて……嬉しいって」


 私は目をパチクリさせた。


「あはっ、あははっ。好かれちゃったわね」


「わ、笑わないでくださいっ! こっちは真剣に……だって、イルナさんは……私を救い出してくれた人で、それで」


「ふーん? ほら、命令を解除して。契約更新しないと。嬉しかったんでしょ? なら――許可を頂戴?」


 契約更新という大義名分。それはいとも簡単に彼女の壁を崩落させた。


「……しても、いいですよ――んっ」



 私は待っていたかのように唇を押しつけた。舌で合図をすると、彼女の唇がそっと開く。私の舌を受け入れながら、彼女の手が私の手を探す。私はその手を迎え入れた。互いに握りながらキスに夢中になる。



 ――物音。


 誰かがトイレへと入ってきた。隣の個室。私は甘く囁く。


「ほら、静かにしないと。キスの音――聞こえちゃうわよ」


「――ッ!」


 とろけるような目で私を見上げながら、まるで手加減を請うような顔をする。そんなこと、するわけないじゃない。私は胸を押し付けながら執拗に彼女の舌を追いかけた。


「んっ……んんっ!!」


 忙しなく動く太もも、私の手を握る彼女の手がより強くなる。私のお尻から伝わる、彼女の太ももの強張りが限界を教えてくれる。長く、長く彼女は足を伸ばして、そっとおろした。「……意地悪」と、震える声で拒むように囁いてくる。


 クスッと私はいつものように笑う。


「命令、すればよかったのに。楽しんでた?」


「あっ……ちがっ」


 赤くなっていく彼女が顔を横に逸らした。はらりと落ちた髪の隙間から、白く滑らかな首筋が露わになる。



 その瞬間、ドクンッ、と私の奥底で何かが跳ねた。喉が焼けるように渇き、視界が真っ赤に染まる。気づけば私は彼女の首筋に顔を埋め、唇を寄せ、犬歯の裏に隠された牙を――その柔肌に軽く突き立てていた。


「はぁ……はぁっ……!」


 エリスは逆らわず、まるで全てを悟ったように、ただ愛おしそうに首を差し出してくる。その無防備さが、逆に私の中の理性を激しく揺さぶった。駄目だ。この子の血を、今ここで吸うわけにはいかない――内側から湧き上がるおぞましい飢餓感に、全身の血が凍りつくような恐怖を覚える。


 私は狂いそうな息を荒げながら、自分自身の身体に「やめなさい」と全力で命令を打ち込んだ。それでも止まらない衝動に、必死の形相で歯を引き剥がし、エリスへ向けて悲痛に懇願する。


「……ッ! 止めて……私を、止めなさい……!」


 私の異常な様子に、エリスは驚きながらも、慌てて「吸血の禁止」を命じた。契約の縛りが私の全身を物理的に硬直させる。私はその隙に、荒くなった呼吸を必死に抑え込みながら、這いずるように影の中へと逃れ、姿を消した。



 ――どうしても、吸えない理由が私にはある。

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