最後の契約
私たちを迎えに来た馬車が目の前で静かに止まる。
エリスの屋敷では……第零席になってから、周りの接し方がまるで変わった。けれど、今は第一席。様々な優遇はあるとはいえ、また態度が変わったりするのかしら。
変わらないでしょうね。貴族との繋がりも、格も、あの家で最も立場が上なのはエリスなんだから。
それに、私が許さないわ。前のような扱いは。
「イルナさん?」
「ん? どうしたのかしら」
「いえ、手を握る力が強くなっていたので」
「少し……ね。考え事をしていたのよ。例えば、もう逆方向に馬車を走らせることはないのでしょうね。って」
家……か。私には家と呼べるような場所はないのよね。
馬車へ乗り込んでも、エリスは私の手を離さなかった。同じ強さで握り返してくれる。その温かさを感じながら、窓の外へ目を向けた。
やがて車輪の音が止まる。私とエリスが降りると、メイドたちが揃って頭を下げた。
「おかえりなさいませ、エリスお嬢様、イルナお嬢様」
去年とは大違いね。エリスは会釈をして屋敷へ入り、私はその後に続いた。まず向かったのは、書斎だった。
「お父様、ただいま戻りました」
書類を広げている大柄な男性が、エリスの父だった。去年、一度会っている。事を荒立てたくないというエリスの要望に従い、穏便に済ませたけれど。あの時は、落ちこぼれの帰りなど待っていない、としか言わなかったわね。
さて、今年はどう答えるのかしら。
「戻ったか。ご苦労。第一席になったという件は聞いている。しかし優秀だ。アルバートを抑え、第一席なのだからな。非常に価値が高い。今後はヴォルド家の顔として貴族としての仕事をしてもらう。それに見合いに出せば良い価値になるだろう。どうだ、かのレギウスやユーリと言った他の十二の貴族と見合いを持ちかけるというのは」
エリスは大きく息を吸った。
「はいっ! お断りします!」
くしゃっ……と、父親の手元で書類が潰れた。
「価値が出るまではゴミ扱い。価値が出れば掌返し。お父様に甘い蜜を吸わせるための見合いなど、断じて受け入れられません! 私には私の人生と、一緒に過ごしたい相手がいます。元より期待などしていなかったのですから、同じですよね?」
「貴様……」
「逆らえますか? 私に」
軽く剣の柄に手を乗せるエリス。
「私はお父様よりも強いです。私一人でも。けど私には私よりも強い、最強の従者がいます。私が困った時、助けてくれる人たちがいます。それでも、権威を振るいますか」
「……話は終わりだ。休め」
「はいっ。ありがとうございますっ!」
私の出番、なかったわね。書斎を出てエリスの部屋へ向かい、荷物を置く。すると、コンコンッと扉が鳴った。
「姉さーん。ただいまー。イルナさんもいる?」
エリスがドアを開ける。
「おかえりアルバート」
「ただいま姉さん。盗み聞きしていたメイドから聞いたよ。父上に逆らったんだって?」
「自由に生きると言っただけですよ。貴族の仕事はしますが、ギルドに入って、至高評議会の依頼をこなす日々になると思います」
「かっこいいよ姉さん!」
私は頭を押さえた。
「あなた……変わりすぎじゃないかしら。犬みたいよ」
「……犬? そうかな」
「エリスの頭を踏みつけて、様付けしろなんて言ってたくせに」
「グハァ!!」
アルバートが、胸を貫かれたみたいに倒れた。掘り返された自分の黒歴史に耐えられないのか、廊下をゴロゴロと転がる。メイドたちの視線が冷たい。
「あれは……調子に乗っていて……父上の褒め言葉に、僕は最強なんだ、のような……うぐぁっ!!」
今度はゴンゴンッ! と廊下の壁に頭をぶつけ始めた。さすがにメイドも心配し始める。エリスはクスクスと笑った。
「私は気にしてませんよ。アルバートはただ、そのように育てられただけですし」
声をかすれさせながら、アルバートは倒れ込む。
「姉さんの……その純粋さが、僕のっ……心を深くえぐるっっ!」
私はそっと扉を閉めた。ちょっと愉快すぎるわ。あの子。エリスと一緒にいるとあのまま死んでしまいそうだから。隔離しておきましょう。
ボスッと私は少し質感が固めのベッドに寝転がった。すると、エリスもその隣に寝転び、お腹の上で両手を重ねた。
「ねぇ、エリス。小さい頃は、どんなふうに過ごしていたの?」
「そうですね……第二夫人が私のお母様で、私が八歳の頃に亡くなりました」
幼い頃から、私と出会うまでの話を聞いた。聞けば聞くほど、貴族のもとに生まれることが、どれほど不自由だったのかが伝わってくる。
話し終えたエリスが、私の手を探して指先を伸ばした。その手に触れるように、私も手を差し出す。
「イルナさん。実はフランさんと、すごく仲が良かったわけじゃなかったんです。突然いなくなるし、ずっとあの子よそよそしくて。抱きついてきたりする回数が増えたのも、クローネさんとイルナさんと友達になってからでした。みんなと……仲良くなれて本当に良かった」
エリスは、深呼吸した。そして……
「イルナさん。私たちが死んだら一人ぼっちですよね」
「……そうね。気にしなくていいわ。別に私は」
「嘘ですよね」
「……本当よ」
「舐めないでください。わかります」
「……慣れてはいるわ。でも……寂しいし辛いわ。きっと、ずーっと泣いて、思い出の品を持って会いたい、会いたいよって泣き叫ぶでしょうね」
エリスのバカ。できるだけ考えないようにしていたのに。泣き虫って言ってきたらほっぺつついてやる。私は目を腕で覆った。
「……ひぐっ」
あぁどうしよう。泣き叫んじゃう。
「イルナさん。お願いがあるんです」
「なに、かしら」
「私を――眷属にしてください」
目を覆っていた腕を下ろした。エリスを見つめたまま、固まってしまう。言葉は聞こえた。でも、その意味がすぐには繋がらない。眷属? この子が、吸血鬼になりたいということ?
「だめよっ! だって、長い時間を生きることになるのよ! それに、人間じゃなくなるし、魔族は……人に嫌われているし」
握っていた手を離し、私は立ち上がった。エリスも身体を起こし、ベッドに座ったまま私を見上げる。
「だから、なんですか? フランさんは? クローネさんは? ベールさんは? 正体を知っていても、変わらないですよね。私も同じです。イルナさんが人間でも、人間じゃなくてもイルナさんはイルナさんです。私は、きっとイルナさんと過ごしてたら数十年じゃ足りません。私を救い出してくれた方を泣かせるつもりはないんです」
「だめっ……吸血鬼になるなんて……」
「むっ……アンナさんには吸血鬼になりましょうと言っていたのに、私はダメなんですか?」
「それは……アンナは、その……」
エリスがベッドを下り、私の前に跪いた。さっき離した手を、もう一度取ってくれる。
「イルナさん。立場逆転ですね。どうか一緒に……末永く人生を歩みませんか? 一人ぼっちにさせたりしませんよ」
ずっと嫌だった。一人ぼっちになるのが。大切な人を失って、その先を一人で生きるのが。だから、最初から深く関わらず――全部、諦めることにした。
なのに、この子は一緒に生きると言ってくれている。私を……一人にしないために。アンナを失い、あの子どもたちを失って、その思い出のマスケット銃と孤独に歩いてきた。胸が引き裂かれそうだった。
それでも、またみんなと出会った。一日経つごとに、どんどん大切になって。早く逃げなきゃって、思っていたのに。
「……本当に、いいの? 簡単には死ねないわよ?」
「覚悟は決めてました。辛いことも、楽しいことも一緒に過ごしましょう?」
「エリス……お願いよ? 私を、私を一人にしないでね? もう耐えられないから。一人になったら私、は、どうしたらいいか、わからないから……ずっと、手を握っていて?」
「もちろんです。主人様の仰せのままに。私がイルナさんを一人にするわけないじゃないですか。誰よりもいっちばん愛してますから」
私は勢いよく抱きついた。自分の泣き声が聞こえる。こんなに泣いているのに、すっごく嬉しそうなの。良かったわね、私。あなたも……救われたのね。




