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未来への方舟

 空の庭園に張り巡らされた龍の王と吸血鬼の女王の魔法術式。その全容を眺め、エンバーは感嘆の息を漏らす。自分の作った魔法術式とは比べ物にならない規模と精度で作り上げられている。これを作り上げるのに一体どれだけの時間と労力を……


 彼は祭壇の下で、片膝をつく。それは畏敬の念を表すためではない。二人の娘を守るために。


 ――空の庭園が音を立て、大きく揺れ始める。膝の下で石の床が震え、細かな砂埃が跳ねた。王と女王を中心に魔力が空の庭園全体へと走り始めた。張り巡らされた術式が次々と光を帯び、エンバーの影を幾重にも床へ投げかける。


「……始まった。世界を書き換える儀式が」


 エンバーは大きく息を吸い、長く息を吐いた。視線を伏せ、自身の感覚を鋭くさせる。両手を石の床へぴったりとつけ、吸血鬼の女王に言われたことを思い出す。


 このまま世界を書き換えればこの子は生きられない。生まれ落ちるまでの時間すら……ない。形成途中で世界再構築に巻き込まれれば、強力かつ未熟なその身体と魂が持たず、生命を維持することができない。


 それに……母体の中にいるこの子まで犠牲にしたくはない。母親として願うのは――生きて欲しい。


 思い出した瞬間、心臓が強く締め付けられる。不安、恐怖、緊張。数々の感情が思考を邪魔する。祭壇の上にいるお二方が光りに包まれ、少しずつ実体を失っていく。


 ほんの少しだけ、龍の王が瞼をあげる。


「ヴァレス……後悔はないか」


「……あるわ」


「そうか、我もだ……」


 二人の言葉が重なる。


「禁忌階梯魔法術式――エテルナ・レヴォルティオ」


 二人の姿がまばゆい光に包まれていく。見えなくなる直前、龍の王が一瞬だけエンバーを見た気がした。呼び止めようと、唇が開く。けれど声にはならなかった。エンバーは目を見開き、自身の胸元の布を強く掴み……歯を食いしばる。布越しに爪が食い込んでも、指の力を緩められなかった。


 ――泣くな。今じゃ、ない!


 エンバーは頭を振って、作業に入った。発動される世界書き換えの魔法術式から魔力を借り、龍の王と吸血鬼の女王の魔力をもう一つの魔法術式へと流れ込ませた。


 母体の中にいる二人の子を、この身に代えても守り切る。手順を思い出せ。何度も頭の中で繰り返したはずだ……!


 脳が焼ききれてしまいそうだった。人の身には余る王と女王の魔力。それに見合うほどのもう一つの魔法術式。鼻からも目からも血が落ちていく。唇まで伝った血が、口の中に鉄の味を広げた。床についた両腕が震え、肘が折れそうになる。エンバーは肩へ力を込め、前へ傾きかけた身体を支えた。


「再構築の及ばない空間を作り出し、お二方の子を隔離する!」


 ――それだけじゃだめだ。


 形成途中ということは未熟であるということ。それでは生きられない。けれど形成を終わらせるには時間、そして母体からの材料が必要だ。けれど、母体の中に留まれる時間は、もうごくわずか。


 ――干渉しろ、少しでもいい。お二方から回路を回収する。足りない材料を龍の王と吸血鬼の女王から使わせてもらうしかない。世界再構築に影響がないレベルで……!


「……っ」


 視界が完全に暗くなった。今、倒れていないのかどうかも分からない。感覚で魔法術式を組み上げていく。見えない、聞こえない。耳が潰れたか。目も潰れたか。呼吸はできているのか。


「――手伝ってやるよ。親友」


 そんな声が聞こえた気がした。エンバーは一瞬……息が詰まった。そしてほんの少しだけ口角を上げた。上げられているのかすら分からないが、十分だと思った。


 母体ごと再構築しようとする禁忌階梯魔法術式に、わずかな亀裂が生じる。世界を書き換える力が、小さな命を避けていく。エンバーは親友の助けを感じ、迷いを振り払った。感覚だけを頼りに、隔離の術式を進める。


 世界が崩壊を始める。空の庭園を揺さぶる轟音に、石の砕ける音が混じった。床を走る亀裂から砂埃が噴き上がり、祭壇を包む光の中へ舞い込んでいく。強力な魔法術式が二つも起動し、外では大戦が繰り広げられていたからだ。終末大戦、再構築、隔離された空間の作成に、世界は限界を迎えていた。


 まばゆい光に包まれた祭壇に、一つの空間が生成される。この世界に重なりながらも交わらないもう一つの世界。エンバーは魔法術式の完成のため、その名を呼んだ。


「禁忌階梯魔法術式……アルカ……アイオニス」


 声がでているのかどうかも分からないほどに掠れた小さな声は、禁忌階梯魔法術式の完了を示した。空間は完全に歪み、母体と子を完全に切り離した。


 切り離されたその空間の中で、両親の魔力と回路を使った一つの指輪が形成される。溢れる光の中に、小さな輪郭が浮かび上がった。やがて光が薄れ、その表面に刻まれた文字が、一つずつ露わになる。


 そこにはこう刻まれていた。


 ――イルナ・ヴァレス・ドラクシス。


 あの日、二人から聞かされていた娘の名前。そして両親の名。指輪が完成すると、その空間の時間が止まった。エンバーは遠のいていく意識の中で、魔法術式の成功を確信した。

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