ただの人間
大きな振動で目を覚ましたエンバーは、従者の膝の上から空を見上げる。世界には、あまりにも大きなヒビが広がっていた。咄嗟に起き上がり、その従者に問いかける。
「……どれくらい寝ていた」
「二日ほどです」
エンバーは駆け出した。空の庭園に張り巡らされた龍の王と吸血鬼の女王の魔法術式が進行している。計画が実行に移されていることを確認した彼は、そっと魔法術式に手を乗せる。
「――あともう少しか」
従者は後を追い、エンバーに向かって片膝をついた。
「各陣営、および我々従者も、指示された通り計画を進めておりました」
「……そうか」
彼は一息つき、胸を撫で下ろした。戦況を確認するため、空の庭園の端へと移動する。遥か先から神の軍勢が押し寄せてきているのが見えた。
――次の瞬間、先陣を切っていた一体の神がエンバーの正面へと現れた。
怯む足など無視しろ。龍の王と、吸血鬼の女王の計画が完了する瞬間に、最も大事な仕事が残っている。
宣言しろ。自分が何者なのか。
「――私はエンバー! 龍の王よりこの全てを託された者だ!!」
その一体の神は不思議に思った。龍の王が人間に託す? そもそもこの小僧はそんなことを叫んで何をしたいのか。雷槍を強く握り、空の庭園を破壊するように小さき人間を睨んだ。
「無意味に死ぬといい。無価値な人間」
そう言った目の前の神を覆うように、巨大な岩の手のひらが真横から飛び出す。鈍い音を立て、神は姿が見えなくなるほど遥か彼方へと消し飛んだ。その風圧でエンバーの身体まで吹き飛びそうになるが、必死にこらえる。
天にまで届くような巨体がエンバーを守っていた。
「……ギガス」
――名を呼んだ瞬間、全身が震え上がる。
「グォオオオオオオオ!!」
初めて聞いたギガスの雄叫びが、空気を震わせていた。その雄叫びがきっかけとなり、戦況はピークを迎えようとしていた。
凍てつく氷が空の庭園を守るように檻を形成し始める。各所に配置された吸血鬼の眷属達は、自身の身体が霜に覆われようとも形成を止めない。
寒さが庭園を覆った頃、檻の上へ降り立つ龍の大群が神々を見下ろしていた。
天使の笛の音が聞こえた。空を叩くような衝撃波が檻を壊そうと迫ってくる。龍たちの目の色が変わる。その鉤爪を檻へと食い込ませ、各々が大きく顎を開く。
魔力を放出するような咆哮が、天使の笛の音をかき消した。エンバーの耳をピリピリと痺れさせるような感覚。
龍と天使のぶつかり合う二つの衝撃が、さらに空を割る。龍たちは天使を強く睨んだ。空の絶対的な支配者が誰なのかを教えるが如く。天使たちは完全に怯み、空を飛ぶことさえ恐れた。
一喝。
「狼狽えるな」
筋骨隆々の神二体がダンッ!! と地面を強く踏み込んだ。海はその呼び声に応え、空の庭園を巻き込むが如く高い波を形成した。同時に、地もまた波のように流動性を帯び、空の庭園を襲う。
ギガス複数体が前へと歩み出る。迫りくる地の波へその両手を突き刺した。ギガスの指先が砕けるように削れていく。重なっていくギガスの雄叫び。
その上を覆うように波が襲いかかる。空の庭園など優に超える波をエンバーは見上げた。
――カチッ。
歯車の音が聞こえた。だが、何者がそれをしたのか全く分からない。エンバーが周囲を確認しても、それらしい存在は見当たらなかった。
波の動きは、まるで止まってしまったかのように鈍っている。
「一体誰が……」
そんな疑問を持つヒマなど与えないかのように、空の雲が円形状に一気に晴れる。中心に現れたのは巨大な神の拳。龍たちはその拳に向かって魔力を放出していく。傷は増えていく。しかし、止まる気配は一向にない。
一瞬にして全ての雲が蹴散らされた。風圧に耐えるため、龍たちは檻へとしがみつく。檻の頂点に、一匹の破滅の獣が立っていた。巨大なそれは、神の軍勢に血走った目を向けていた。深く喉の奥を怒りに震わせるように鳴らしていた。
「グルルルル……」
――破滅の獣もまた、亜人の一人だった。彼にとって亜人たちは、持たざる者であろうと家族だった。その家族を使い捨てた神々への怒りこそ、彼が破滅の獣たる所以だった。
神の破滅を願う一匹の獣は瞬時に神の軍勢の中心へと飛び込んだ。神々の血が大地を鮮血に染め上げていく。その神たちの雨の下で、神たちは嘆いた。
――なぜ、主神が来ないのか。
自分たちとは比べ物にならない、死すらも超越した絶対神がなぜこの場に現れないのか。最終決戦は神側の圧倒的劣勢。主神さえ来ればすべて終わる。龍の王と吸血鬼の女王が現れないのだから。
その頃、エンバーは改めて指示出しをまとめ、各陣営へと伝えた。そして自分の最も重要な仕事の為に龍の王と、吸血鬼の女王が儀式をしている中心へと赴いた。
二人は互いに身を寄せ合い、目を閉じていた。おそらく声も届かないだろう。遠くでは龍たちの咆哮が聞こえ、見上げれば氷の檻が軋んでいる。
エンバーは自身の魔法術式を確認しながら不思議に思っていた。なぜ、ただの人間たる自分の指揮に誰もが従ってくれるのか。その答えは分からぬまま。
しかし答えは単純だった。皆、龍王がエンバーにこの全てを託したことを知っている。だからこそ、その指示に従う。龍王がそれに見合う者だと判断した。理由はそれだけで十分だったのだ。




