託されたもの
「……わかり、ません。どうして、私なのですか」
そんな言葉が言い訳にすぎないことは、エンバー自身も理解していた。唇を噛んだまま、彼は俯いた。自分のすべてだった崇拝の対象が、消えてしまう。大切で、かけがえのない存在が。
他に方法はないのか。どうにかならないのか。
けれど、自分でもよくわかっていた。世界の崩壊が、もう目の前まで迫っていることくらい。そんな彼を呼ぶ龍王の声。
「エンバー」
その瞬間、初めて名を呼ばれた時のことを思い出す。あの日と同じように、心を落ち着かせてくれる声だった。エンバーはついに、噛みしめていた唇から、血が滴り落ちてしまう。龍の王は、頼みと言っていた。命令ではない。断ったとしても責められることはないだろう。
――自分の心に問いかけろ。答えは出ているはずだ。
「……この身に、代えても」
その言葉を絞り出すのが精一杯だった。主人が犠牲になることまで、自分の口で受け入れた。その事実が、ひどく胸を締め付けた。
龍の王は、その宣言を聞いて、安心したかのように目を閉じた。
――龍の王は傷を癒すため、一度眠りについた。魔の時間、空が闇に包まれる。星星の下で、吸血鬼の女王はエンバーの前で腰を下ろした。
「とても苦しかったでしょう。ありがとうエンバー」
「いえ……お二方に比べれば……私など」
「比べたって痛みが消えるわけではないわ。彼の代わりに私たちの計画を話すわ。いい?」
「……」
エンバーは静かに頷いた。口元の傷をハンカチで押さえ、耳を傾ける。唇はズキズキと痛んでいたが、その痛みに意識を向ける気にはなれなかった。
それから、吸血鬼の女王は多くを語った。世界に何をするのか、自分たちがどうなるのか。言葉一つ一つを聞き逃さないようにした。
最後に女王はこう言った。
――このまま世界を書き換えれば、この子は生きられない。
女王がお腹をさすりながら、震える声で告げたその言葉が、いつまでもエンバーの耳に残っていた。エンバーは静かに背を向けた。残された二人の時間を邪魔したくなかったこと、そして……自分がこれからしなければならないことを、一度整理したかったからだ。
空の庭園の端に寝転び、右手を星々へ向ける。自身に課せられた……いや、自身に課した使命は二つ。
「世界再構築の儀式を守り切ること。そして……お二方の子を――守ること」
あまりにも重かった。ただの人間でしかない彼にとって、何ができるのか。それでもやるしかない。右手を握りしめ、心細さを呟いた。まるでその先にいる誰かを見るように。
――次の日。エンバーは駆け回った。神に悟られる前に、自身の足で各陣営へ指示を伝えていく。最優先は、空の庭園を守り切ること。人間や亜人たちの力も借り、こちらの陣営を強化する魔法術式の構築を進めた。
空の庭園にある与えられた一室にて。
エンバーは羊皮紙に魔法陣の図形、計画の時間、それぞれの陣営の配置などを書き出していく。インクが乾く前にこすれてしまうこともあったが気にしている余裕はない。
世界再構築の術式は、龍の王と吸血鬼の女王が完成させている。ならば、エンバーが考えなければならないのは、その先だ。二人の子が、どうすれば生き残れるのか。世界最高位の王と女王の子に、ただ……幸せに生きてほしい。その願いのために。
他の従者が飲み物と食事を運んでくる。柔らかく焼き上げられたパンと庭園の水。何度声をかけられても、エンバーは一度も顔を上げなかった。返事もない。
唇は乾ききって、空腹はついに音を消す。羊皮紙と手をインクで汚し続けた。その日も、次の日も。眠ることすらしない。食事が何度運ばれてきても、手をつけることはなかった。
――やつれたエンバーは、ついに手を止めた。
「……これで」
言葉もまともに発せられない。一枚の羊皮紙を丸め、一匹の鳥に咥えさせる。
「頼んだぞ、エルワース」
一匹の鳥は、目的地へと向かって飛び立った。それを見送ると、エンバーは意識を失った。見ていた従者はすぐに駆け寄り、口元を水で濡らす。とても浅い寝息。
時間がないことはその従者も理解していた。けれどもう少しだけエンバーを寝かせることにした。もう少しだけ……時間はあるはずだから。
――とある神殿にて。一人の青年が豪華で巨大な水浴び場で足を浸けていた。背中に生えた天使の羽と、輪っかは神々しく輝いている。
一匹の鳥が羊皮紙を咥えて降り立った。青年は不敵に笑い、そのくちばしから羊皮紙を受け取る。彼は寝転んだまま、その羊皮紙を広げる。
「へー。こういう計画かエンバー」
指を鳴らすとその羊皮紙は炎に包まれて灰になった。
「神の手先である天使にこんなもん送りつけるなんて。無責任な男だ。人間を裏切った俺を、君はどう思うのかね」
ニヤけたまま水浴び場から足を上げる。ひたひたと濡れた足跡を残し、両手を広げて歩く。自分を見下ろす神々の視線が集まったところで、わざとらしいほど仰々しく声を張り上げた。
「さぁ、神々のみなさん――空の庭園を落としましょう」




