叶わぬ願い
「漏れているわよ」
澄み渡るような優しい声。荒々しさの残る龍の王とは対照的な、静かな響きだった。吸血鬼の女王は龍の王の怒りを遮るようにそっと歩み寄り、その身を預けるように寄り添った。
龍の王の目が、先ほどまでとは別物のように和らぐ。それを見た従者は何も言わず、深く頭を下げて数歩身を引く。龍の王はとても優しい声を彼女に向けた。
「そんな時間か、怒りで空の色も見えなくなっていたようだ」
龍の時間の終わりが、空の庭園を赤色へと染めている。吸血鬼の女王は龍の王の顎を優しく撫でながら呟いた。
「怒りと迷い。私も同じよ。魔の者にも魔力を持たない者がいる。交流のある亜人も、その大半は持たざる者。中には神に並ぶほどの者もいるけれど……結局は私たちと変わらないわ。笑って、泣いて、怒って。魔力さえ与えれば、彼らは自分たちでいろんなものを生み出す。もしかしたら、私たちより上手にね」
「そういう細工は、我には向かぬ。魔力を放ってしまった方が早い」
「あなたほどならそうでしょうね。でも、それにも限界はあるでしょう? 現に……私たちの計画だって、多くの存在の知恵を借りて形になった」
女王は空のひび割れを指先でなぞった。パキッと乾いた音を立てて亀裂が広がると、その手がぴくりと止まる。ひどく怯えた顔で指を引き、唇を結んだ。
「私も、正しいかどうか分からないわ。あなたと同じ疑問を、ずっと抱えていたもの。あなたがそれを言葉にしてくれた。でも……いつしか、この世界を変えようとしていたはずなのに、まどろみの時間はとても楽しくて。あなたに惹かれてしまったわ」
自分の手をそっとお腹へ当てる。吸血鬼の女王は儚い表情を浮かべながら、まだ見ぬ我が子へ視線を落とした。
「もう……時間も残されていない。世界は選択肢も時間も与えてはくれなかったわね。私たちの計画を、もう進めなきゃいけない。覚悟はできてる? ドラクシス」
「あぁ、できている……泣いているのか」
「……ごめんなさい。気づかなかったわ」
白く細い指で、彼女は頬を伝う涙を拭った。けれど声の震えまでは隠せない。まだ見ぬ我が子との未来を思い浮かべるように、ひとつずつ言葉をこぼしていく。
「一目見ることすら……叶わないのね。どんな声で泣くのかしら。私たちに子どもができるなんて思わなかったから……どんな泣き声なのか想像もつかないわ。角は生える? 私に似てくれるかしら? あなたみたいにおっきな龍だったら、いつまで抱っこできるかしら?」
「ヴァレス……」
何度拭っても涙は止まらなかった。女王はその場に座り込み、身体を龍の王へ預けるようにして顔を覆った。
「会いたかった……見たかった。世話をしたかった。どんな子になるのか。何が好きなのか。何が苦手なのか。親の顔も見せてあげられない。私たちがしようとしていることは……娘にとってはひどく残酷なんじゃないかって」
「……こうする以外に、娘を生かす方法はない」
龍の王はこう呟いた。我も見たかった。きっとお前に似て美しいだろう。従者や他の龍達が傷つけないように抱き上げる姿を見たかったのだと。
従者の青年は、下げていた頭を上げていた。その顔には驚愕の表情。自身を巻き上がる布を強く握りしめ、まるで不安と恐怖を押し殺すかのように。
――知らなかった。子がいるのだと。そして頼まれていた技術。儀式と魔法陣を用いた研究。その意図はなんなのか。どうして両者は泣いているのか。言葉の節々から感じられる悲嘆の色。問いかけたい。何をしようとしているのか。一従者でしかない自分など、知る権利はないかも知れない。
「エンバー」
龍の王がその名を呼んだ。かつて名すら持たなかった青年へ、龍の王自らが与えた名だった。エンバーは即座に頭を下げ、短く返事をする。
「どうか、これから我の言う事を、聞き入れて欲しい」
「……ドラクシス様?」
いつも気高く、猛々しい龍の王が、今だけは静かな声で語りかける。
「今まで、我を崇拝し、寄り添い、疑うこともなかった。そんなお前に感謝している。お前達の技術のおかげで、我とヴァレスは解決策を生み出すことができた」
聞きたくない。何を告げられるのかはまだ分からない。それでも、良い知らせではないことだけは分かってしまう。けれど、崇拝とは都合のいい言葉だけを聞くことではない。
「ありがたき……お言葉」
「魔法術式を使い、我とヴァレスを犠牲にし……この世界を書き換える」
床へ落ちていく涙が止まらない。もし、自分と出会っていなければ。この二人は世界へ疑問を抱くこともなく、娘の顔を見る未来を選べたのではないか。そんな考えが胸に刺さった。あの日、言葉などかけなければよかった。
「……それはっ」
龍の王が目を見開く。かつて膝を震わせながらも言葉を紡いだ少年が、今度は首を横に振っていた。唇を強く噛み締め、声にできない拒絶をその動きだけで示す。
「エンバー……頼みがあるのだ。儀式にはとても時間がかかる。当然、神たちもいずれは気づくだろう。この空の庭園を、儀式が完了するまで指揮を執って守ってほしい。そして――我が子を託したいのだ」




