持たざるものの為に
私はただ、フランの言葉に耳を傾けた。
前に聞いたのは、龍と吸血鬼がまどろみの時間に会っていたこと。そして、世界を維持しようとする者と変えようとする者に分かれ、大戦が始まったところまでだった。
フランは目を閉じ、一人の従者の記録をなぞるように語り始めた。
空に浮かぶ龍の庭園。人の身には余るほど広大な大地には、巨大な龍が翼を休められるほどの草原と、湖と見紛うほど大きな水場が広がっている。立ち並ぶ木々さえ、人の世界で見るものより遥かに太く、高い。すべてが龍の尺度で作られた、人にはあまりにも大きすぎる世界だった。
身体に巻いた布を正しながら、一人の青年が龍の王のもとへ歩いていく。戦いの余波で水面が揺れても、足は止まらない。そんな揺れさえ、もう珍しいものではなくなっていた。
龍の王の為に用意された王の祭壇。階段一つでさえ、青年にとっては登らなければならない。自分の背丈よりも大きいからだ。
龍の王に仕える青年はさらに空を見上げた。空でさえも軋む大戦。彼は複雑そうな表情を浮かべ、俯いた。龍の王に借りた魔力を流し、階段を登り歩いていく。
最後の階段を上がると、横たわる龍の王。その視線は空の庭園から見えるはるか先を見ていた。美しかった街の輪郭はぼやけ、ギガスと神の軍勢の戦いが繰り広げられていた。大地は激しく割れ、周囲は荒れ地となり、空は悲鳴を上げる。
龍の王は、まるで見たくないとでも言うかのように目を閉じた。スンッ……と鼻先を揺らすと、全身が震えるような声で、やさしく呟いた。
「来たのか。あまり見せたい姿ではない」
「……龍王様」
従者は顔をしかめた。神の槍によって切り裂かれた多くの傷から、鮮血が滴り落ちている。それは美しい空の庭園に赤い染みを作っていた。無力である従者は拳を強く握りしめ、ただ静かに頭を垂れた。
龍の王はボソッと心の内を吐露した。
「……我は間違っていたのだろうか」
従者は息を呑んだ。言葉を探している内、龍の王が言葉を連ねる。不規則な呼吸の中で言ったのは迷いだった。
「我ら龍、ギガス、魔の者などは持たざるものの為に立ち上がった。一方、神の軍勢は今の世界こそ至高であると立ちふさがった。その戦いに終わりが見えぬ。多くの者が命を落とし、世界は荒れ地と変わってしまった」
その視線を空へと向けた。多くの亀裂を目にした龍の王はため息をつくように呟く。
「世界にヒビが入っている。世界が耐えられないと嘆いている。我は――この世界に疑問を持つべきではなかったのだろうか」
従者は下唇を噛んだ。傷だらけの龍の王を見上げることができず、握った拳へ視線を落とす。従者は震えそうになる息を一度だけ飲み込み、ゆっくりと言葉を乗せた。
「私程度では、決めかねます。世界にとって、何が正しかったのかを選定する器ではございません。私はただ、あなたを畏れた。その気高さに、見上げるだけで全身が震えるほどの力に――心を奪われた。私にとって、あなた様が全てだったのです。そんな私の言葉でよろしいのであれば……私は、あなたの選んだ全てを肯定したい」
「くくっ、相変わらずだな。我の全てを肯定か」
龍の王はほんの少しだけ目を開ける。瞼に映ったのは――少年。龍の王が遭遇した一人の少年は膝を震わせながらも、逃げることはしなかった。気づかぬ内に殺してしまいそうなほど、弱々しい生き物は――命知らずにも言葉を紡いだ。
龍の王は取るにたらならない弱者の為に足を止めた。本来目を向ける価値すらないと言われた持たざるものの言葉に耳を傾けた。世界に疑問を持った全ての始まり。弱くとも強き心を持った少年の因果。
――龍の王が瞬きをすると、その少年は力強い言葉を告げる青年へと戻っていた。喉を鳴らしながら軽く息を吐き出す。人の時間とはあまりにも早い。そう心の中で呟きながら再び世界の亀裂を眺める。
「……我と、女王の計画を進める時が近づいている。戦いとは何も相手の軍勢を屈服させることだけではない。この世界の正しさを選定する器は、我にもないのだろう」
とても寂しそうにそう呟く。できることであれば、他の方法を模索したかった。これからの未来を、可能性をもっと近くで見てみたかった。けれど、この大戦の規模と世界の器は……龍の王と吸血鬼の女王に時間も選択肢も与えてはくれなかった。
これまでの時間に目を向けるように静かに目を閉じた。龍の王も吸血鬼の女王も、その覚悟は決まっていた。
――これからを生きる全ての存在のために。
持たざる者に欠けているものなど、ただ魔力だけだった。たったその一つで理不尽に使われ、いとも簡単に命をかき消される。たった一つの魔力という持たぬものの為に、他の全ての価値を無価値とする愚かなこの世界よ。
――あぁなんと、なんと憤りを覚えることか。
空の庭園が、抑えきれない龍の王の怒りに呼応するかのように激しく揺れた。その怒りは空の庭園に留まらず、大地さえ揺るがしていた。




