図書保管庫の住人
扉の向こうは薄暗かった。古びた棚が闇の奥まで並び、クモの巣の一つでも垂れていそうな空気なのに、不思議なくらいホコリがない。長い間使われてきた場所なのに、今も徹底して管理されているらしい。
明かりはなく、フランの用意した浮遊する魔法具の光を頼りに奥へ進む。光を掲げた瞬間、私は思わず足を止めた。第一決闘場ほどもある空間。その天井近くまで伸びた棚には、隙間なく本が収められている。一体、何冊あるのかしら。私の人生を使っても読みきれないんじゃない?
中には、人間が抱えることすら難しそうな大きさの本まである。他にも厳重に古紙で包まれた本や、中には鎖付きの本、背表紙に何が書いてあるのかも分からないような本も見えた。
視線を上へ、奥へと巡らせても終わりが見えない。ところどころに見える魔法術式の組み込まれた小さな足場。フランはいつもあれに乗って、本を探していたのかしら?
地下図書保管庫の空気感と規模に圧倒されて立ち尽くす私の手を、フランが引いた。
「こっちだよ。一番奥に、魔法術式を使わないと入れない部屋があるんだ。その中に『世界の本』が三冊とも保管されてる」
胸の奥が少し騒ぐ。ここまで探していた答えが、もう目の前にある。フランが扉を開け、厳重に保管された三冊のうち、私たちに必要な中巻と下巻へ手を伸ばした。
コツッ……
フランが振り返る。私も彼女も歩いていない。遠い。けれど、階段の方から確かに足音がした。
コツッ……コツッ……と、一定の速度で近づいてくる足音。
そうだ。フランは言っていた。地下の図書保管庫には管理者がいる。異変に気がついたのか、あるいは単純に見回りだったのか。
私が声をかけるより早く、フランは中巻を開いた。パラパラとページがめくられ、その目が文字を追って激しく動く。
出直す? でも、一度異変に気づかれれば、次はもっと厳重になるかもしれない。
「フラン……」
返事はない。今度は下巻へ手を伸ばし、息を止めるように集中している。限界まで待つ。でも、本当に危なくなったら私が影へ隠して逃げる。そう決めて、私は近づいてくる足音へ神経を尖らせた。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
少し年配の女性の声。奥の部屋の扉が、ぎしり……と音を立てる。
「……」
私は反射的にフランを影へ引き込んだ。慌てた拍子に、彼女が持っていた本が床へ落ちる。入ってきた管理者のメイドは、その本をそっと拾い上げた。
「……フラン様?」
その声には、咎める響きがなかった。影の中で、フランの気配がわずかに固くなる。
「今回だけは見なかったことに致しましょう。図書保管庫の住人さん、もう随分と顔を見ておりませんね」
いないものとして扱われていた。それでも、ちゃんとフランを見ていた人はいた。私は一瞬だけ迷う。あの人なら、話せば分かってくれるんじゃないか。でも、私たちを見逃したと知られれば、彼女までレギウスとの問題に巻き込むことになる。
フランも同じことを考えたのか、影の中から「大丈夫」と小さく呟いた。私はその言葉に従い、その場を離れる。階段を上がり、警備兵の巡回を避けながら、フランの部屋まで戻った。
部屋へ戻るなり、フランは頭を押さえて床に座り込んだ。座っていることさえつらいのか、片手を地面について体を支える。
「うー……ぼーっとする。本の知識が頭の中を駆け巡ってる……まだ整理がつかない」
「大丈夫?」
「うん……あとでちゃんと本として再現して、それから解読する。そのあとイルナちゃんに教えるね」
世界の本を一気に取り込んだうえ、影の中に何度も入れた。明らかに限界が近いのに、それでもフランは自分が次にすることを私へ伝えようとしている。私は心配になり、すぐ隣へ寄り添った。
「少しここで休む?」
「うん、すこしだけ――」
ギシッ……
背筋を冷たいものが走った。私は考えるより早くフランを影へ隠し、自分も影へ沈む。そのまま窓の外へ抜け、壁を伝って落ちながら部屋を見上げた。
窓辺に立ち、こちらを見下ろしていたのは――レギウス・エルワース・ファニス。
近づかれていたことに、まるで気づかなかった。龍の目を使っていなかったとはいえ、足音か気配くらいはしてもいいはずだけれど。
彼は部屋の中を探るように見回している。少なくとも、私たちの姿をはっきり捉えた様子はない。何かの異変を感じて、フランの部屋へ来た……そう考えるのが自然かしら。
今のフランを自分で走らせる余裕はない。私は彼女を影に入れたまま、灯りの少ない王城の庭園を警備兵の死角を縫って抜け、そのまま城壁の外まで急いだ。
「フラン!!」
影から吐き出されたフランを、落とさないように抱きかかえる。腕には力がなく、鼻から一筋だけ血が流れていた。意識はない。それでも呼吸が乱れていないことを確かめて、私はようやく少しだけ息を吐いた。そっと前髪を払い、その青ざめた顔を見つめる。
「ごめんなさい、フラン……私のために、こんな無理をさせて」
これ以上負担をかけないよう、その場に腰を下ろして膝へ頭を乗せる。顔色の悪いフランの髪を撫でながら、私は眠気をこらえた。太陽が昇る頃、ようやく彼女が目を開く。その瞬間、張り詰めていたものが少しだけほどけた。
「イルナちゃん……? あれ、私たしか部屋に……」
「途中で意識を失ったのね。無理をさせたもの。今は休んでいて」
「イルナちゃんも休む?」
「私は大丈夫」
城壁の外、木漏れ日の下。そんなふうに強がったくせに、フランを抱きしめたまま、私はいつの間にか目を閉じていた。
夜通し張り詰めていた緊張が切れて、思っていた以上に神経をすり減らしていたらしい。身体の力が抜けて、彼女の体温に身を寄せる。静かに訪れる眠気に、私は身を任せた。
それに……フランは子供っぽいのに、時々こうして一緒にいると、私の方が包み込まれているような安心を覚える。




