策士
――突然クローネの体がびしょ濡れになる。クローネは開いた口が塞がらない。
「なんで! あんた両手とも地面につけてるのに……!」
エリスの姿が揺らめいていく。そこには……誰もいない。エリスの声が別の場所から聞こえてくる。
「そこにいると思いましたか? ”イルナさんのすぐ隣”に最初からいるように見えていましたか……?」
クローネはすぐさま声を場所へと手の先を向けた。彼女が魔法を唱えるよりも早く、エリスは次の一手を打った。
「ッ! ノクト――」
「させません! 第三階梯魔法 ヴァクア・アイス・チェインズ!」
――クローネの体を拘束するように氷が形成されていく。発生された冷気がクローネを包み、彼女の息が白くなる。指先まで動けないように固定されていた。息は震え、下唇を強く噛んでいた。
即座にエリスはクローネの正面から身を移した。
「クローネさんの魔法は手の先にいるものに対し、一方向にのみ重力を与える魔法ですよね。これでもう私にその魔法は使えません。
クローネさんが来る前に幻影魔法で位置をずらしていました。傷も、わざと自分に当てながら誤魔化していたんです。きっとクローネさんが勝ったと思う瞬間は、私の動きを止めた時だと思いました。魔法を使う時は範囲魔法で位置がズレているとバレないようにしていたんです。
クローネさんは……強いから。たくさん対策したんですよ。
――クローネさん。私の勝ちです」
クローネが流した涙でさえも氷の鎖に触れて凍っていく。
「私の負けよ」
第二決闘場の自動勝敗認定システムが私たちの勝ちを判定する。氷の鎖は役目を終えて砕けていく。ぺたん……とクローネはその場に座り込んだ。
エリスは現実を受け止めるのに時間がかかっているようね。勝った……勝ちました。私がクローネさんに……と呟いている。次第に理解が追いついたのか、笑顔になりながら私のもとに駆け寄ってきた。
「勝ちました! 勝てたんですよ!」
「えぇ。よくやったわ」
駆け寄ってきたエリスを抱きしめ、胸が熱くなる。短い時間でよく第三階梯魔法までたどり着いたわ。隙を作らなければ彼女の魔法で破壊されていた可能性もある。対策をよく考えていたのね。
胸に染み込む彼女の涙。仕方ないわね。もう少しこのままでいてあげるわ。
取り巻き達が中に入ってきて、私が気絶させた子の看病をしている。クローネには目も向けないのね。どうしてかしら? 機嫌が悪くなるとか?
ふと、傷ついたクローネの姿に違和感を覚えた。腕を抑え、その表情は曇っている。今までバカにしてきたエリスに負けたのだから当然……と思いたいけれど。
それに服の隙間から見えるあの傷。エリスの魔法でつくものじゃないわ。少し気になるわね。
ぐっとエリスとの距離が離れる。エリスは涙を拭いてクローネさんのところへ行ってきますと食い気味で宣言した。
「これで終わりたくないので……!」
「――ふふっ、本当にあなたらしいわね。行ってきなさい」
「はいっ!」
エリスはクローネに駆け寄った。ぺたんと座り込んでいる彼女に目線をあわせ、声を詰まらせながら彼女の名前を呼んだ瞬間だった。パチンッ……という音と共にエリスの頬が赤く染まる。クローネは俯きながら叫んだ。
「負けたやつに情け? くだらない! 私のことなんかほっといてさっさとどっか行きなさいよ!」
「……! 嫌です。もっとちゃんと話したいんです。もう逃げたくないので!」
むしろクローネは苦しそうに自分の胸元のシャツを強く掴んだ。
「……うるさい。うるさいうるさいうるさい!! どっか行って!」
その気迫はエリスを黙らせた。彼女は指先をクローネへと向けたが、躊躇った。そしてその手を引っ込める。
「わかり……ました。今度、ちゃんと話しましょう」
視線を私へと向けるエリス。私はその意図を理解し頷いた。第二決闘場に残ったのはクローネだけだった。
――彼女は静かに一人で立ち上がった。取り巻きの子たちもいない。
「ふん……どうせ貴族のつながりなんて……利用価値があるかないかよ」
傷ついた体を治すことすらせずに踵を返した。
――夕暮れ、空は赤い。長く伸びた影――その濃い影を自分から選び、這うように歩くクローネ。教室へ着くともう誰も居ない。
自分のカバンを漁る。豪華だが、どこか不思議な彫刻の掘られた短剣。どこか普通の代物じゃない。そんな雰囲気を醸し出す一品だった。
それをじっ……と見つめる。柄を握る手が強くなる。口を半開きにし、虚ろな目で呟いた。
「使うしか……ないかもね」
短剣をスカート下の武器収納用のベルトに取り付ける。カバンを手に取り、教室を出る前にいつもエリスが座っていた席に頭を下げた。
「……ごめんなさい。エリス」
表情は変わらず、教室を出る。夕焼けはもう夜空へと変わっていた。夜空を見上げる。
「綺麗……そういえば、こうして月を見るなんていつ以来だったかな。青い月……今日の月は満月なんだ。そっか……」
トボトボと歩いていく。向かったのは寮とは別方向。コツコツとローファーを鳴らし、学院の入口で止まる。迎えの馬車を見つけ、声をかける。慣れた様子で馬車の運転手は客室の扉を開ける。
揺れる客室の窓からこの街の景色を眺める。頭を壁にあずけて呟いた。
「他の大陸ってどんなとこなんだろ」
馬の足音が遅くなっていく。ガタガタと震えだすクローネ。まるでいつものことのように自分を落ち着かせる。
「大丈夫。大丈夫よクローネ。私は貴族。私は強いんだから」
口をつぐんで馬車から降りる。巨大な建築物。外装の彫刻は凝っている。広い敷地に手入れされた芝生。豪華な噴水の水音が足音をかき消す。
一歩、また一歩を重そうに歩く。重厚な漆塗りの扉の前で足がすくむ。扉が開けられる。髪を結んだ一人のメイドが、痛ましそうな……どこか怯えたような表情で頭を下げ、両手を腰の前で重ねた。
「おかえりなさいませ。クローネお嬢様。
――主人様が……お待ちです」
「気にしなくていいわよ。ラディエ。いつもありがとう」
ラディエの手が震えていた。きっと、クローネの声が震えていたからだろう。




