第4話-最悪のスタート
おはよう、こんにちは、こんばんは。
お待たせしました、新しい一話です。
「……だから、まず相手の動きを読む。こっちは二手に分かれて仕掛けることで、相手の大技はどちらか一方にしか使えなくなる……ほら、向こうはスケルトン軍団の方に撃ってきた。なら、こっちは左からバーバリアンを投げれば防ぎようがない……それと一つ小ネタだけど、この茂みに入ると隠しルートが見えることがあって、うまく使えばやり過ごせる」
スタジオの一室。
佐伯はパソコンの前に座り、新作ゲームの配信を行っていた。企業案件の一環でもあり、隣には人気配信者が二人並んで座っている。どちらも可愛らしく、ゲーム内の女性キャラのコスプレ姿でプレイしていた。
彼女たちがいちいち大げさにリアクションを取るのに対し、佐伯はほとんど表情を変えない。だが、それでも――いや、それだからこそかもしれない。彼の名だけで、多くの視聴者がその卓越したプレイを一目見ようと集まってくる。
現在の同時視聴者数は、すでに数十万人に達していた。
「すごーい!オッパの言った通りだ!あ、スパチャありがとうございます!」
「やばいオッパ!ボス出てきた!あ、ごめん、私すぐやられちゃった!」
「大丈夫……ちょっと飲み物飲ませて……よし、今ちょうどいいタイミングだな。必殺コンボのやり方を見せる。いつも通り、まずゲージを起動して――」
佐伯は相変わらず大したリアクションもなく、特に集中している様子も見せないまま、キーボードを素早く叩く。
次の瞬間、ボスはまるで抵抗する暇もなく、一瞬で倒された。
「……はい、これでクリア。見て分かった?」
「すごすぎるオッパ!今のどうやって勝ったのか全然分かんないんだけど!」
「コメント欄、777で埋まってるよ!」
佐伯は軽く営業用の笑みを浮かべると、二人とハイタッチを交わした。
しばらくして、配信はそのまま終了した。
その後、佐伯は他のメンバーと軽く記念撮影をし、サイン対応や簡単な業務を済ませてから現場を後にした。
別の控室に入ると、キューピッドが一人で携帯ゲーム機をいじっているのが目に入る。
だが、どうにも楽しそうには見えない。どうやら序盤のチュートリアルで何度も詰まっているらしく、どこか不機嫌そうだ。リスポーンの合間に、手元のビール缶を開けてはまた飲んでいる。
「……待たせたな。お前もゲームやってんのか。意外だな」
佐伯は背後から覗き込むように声をかけた。
「いや、さっぱり面白さが分からん。……それより、お前は随分と人気者なんだな。見くびっていたよ。まさかゲームで人をベッドに誘えるとは」
「やめろって。ただのファンだよ。写真だってちゃんと距離取ってるし、あいつらがハート作っても、俺はグッドサインしか返してない」
「だが、さっき何度か体を盗み見ていたのは事実だろう」
「それとこれとは別だ。俺は健全な男なんでな。……くそ、バレてないと思ってたのに。で、お前は?てっきりモテる側かと思ってたけど、人間界に好みはいないのか?」
「関係ない。お前に俺の恋愛事情を詮索する権利はない」
キューピッドは冷たく言い放つ。
佐伯はその態度に、背後で小さく目を逸らしてため息をついた。
舌打ちが一つ。画面の中で、キューピッドのキャラクターがまた倒れる。
「……ヒント、いるか?あそこは少し早めにジャンプすれば――」
「必要ない。自分でやる」
食い気味に遮られる。
その言い方には、わずかな苛立ちと軽い侮りが混じっていた。
佐伯は何も言い返さず、しばらくその背中を見下ろしたあと、ぽつりと続ける。
「……で、最近どうだ。まあ、そこそこ上手くやってるみたいだけど」
「人間界の問題など、大したものではない。順調にいけば、近いうちに滞在資格も得られるだろう」
「へえ、いいじゃん。じゃあ、その後は?このまま人間界に居つくのか。それとも、ヒーロー活動は続ける気か?」
「さあな」
キューピッドは缶を傾け、軽く酒をあおる。
「……毎日好き勝手に生きて、適当に自分を麻痺させていくのも悪くない」
どこか投げやりで、興味のないような口調だった。
「他のヒーローとなら、案外気が合うかもしれないぞ。中には――」
「勘違いするな」
キューピッドが低く遮る。
「お前が親切にしているからといって、俺が安易に力を貸すと思うな」
「だから、それとは関係ないって言ってるだろ」
佐伯は軽く肩をすくめ、ため息を吐く。
「俺はただ、約束しただけだ。お前が滞在資格を取るまで付き合うって。だったら、ちゃんと最後までやらせてくれよ」
どこか諦め混じりの声だった。
「……さあな」
キューピッドは小さく息を漏らし、わずかに肩を揺らす。
そして、ほんの一拍置いてから――
「だが――本当に、俺の力を欲しくないと断言できるのか?」
「……俺は――」
言葉が、続かない。
キューピッドは興味なさげに肩をすくめる。
だが、佐伯のほうは違った。
ほんのわずかに、目線が揺れる。
そのまま、何も言えずに沈黙が落ちた。
部屋に残るのは、ゲームの効果音だけだった。
しばらくして、佐伯のスマホが小さく震えた。
何気なく画面を確認する。
先輩の投稿だった。誰かと一緒に、カフェでアフタヌーンティーを楽しんでいる写真。
隣に写っている人物には見覚えがない。
気になって、そのままタグ付けされた相手のアカウントを開く。
――プロフィール欄を見た瞬間だった。
心臓を、掴まれたような感覚。
息が、止まる。
佐伯はそのまま数秒、画面を見つめ――
次の瞬間、何も言わずにスマホの画面を落とした。
そのまま、手から滑らせるように机へと放る。
沈黙。
やけに長く感じる、数十秒。
やがて、ぽつりと――
「……なあ」
声は、ひどく乾いていた。
「お前の力ってさ……人を好きにさせることはできるんだよな」
一拍、間を置いてから。
「……じゃあ、逆に――」
視線を落としたまま、言葉を絞り出す。
「誰かを、好きじゃなくすることって……できるのか?」
「……何だ?」
異変に気づいたキューピッドが、ゆっくりと振り向く。
先ほどまでとはまるで別人のような佐伯の表情を見て、わずかに目を細めた。
「……いや、いい。今のは忘れてくれ」
佐伯は首を振り、言葉を切る。
「……どうせ、お前の言う通りなんだろ。なら、適当に誰かと寝てりゃいいのかもな」
吐き捨てるようにそう言うと、そのまま背を向けた。
視線は落ち、焦点も合っていない。
ポケットに手を突っ込み、重い足取りで部屋を出ていく。
キューピッドは何も言わず、携帯ゲーム機の電源を落とした。
少し距離を空けたまま、その後を追う。
――その前に。
机の上に置きっぱなしになっていたスマホに目をやる。
さきほど佐伯が放り出したものだ。
何気なく手に取り、画面を開く。
「……ウェディングプランナー、か」
小さく、呟いた。
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大通りは、すでに戦場と化していた。
轟音とともに爆発が連鎖し、火花と衝撃波が周囲を飲み込む。街路樹も、看板も、停められていた車も――すべてが容赦なく吹き飛ばされていく。
炎上したトラックが横転し、そのまま勢いよく転がりながら、無関係の通行人へと突っ込もうとした――
その瞬間。
一人の女性の腕を、強く、しかしどこか優しく掴む手があった。
そのまま一気に引き寄せる。
慣性に引かれた彼女の体は、そのままキューピッドの胸へと倒れ込んだ。
「……大丈夫か?」
「え、あ……えへへ……」
キューピッドは軽く微笑み、落ち着いた声で声をかける。
だが、女性は一瞬見惚れたようにぼんやりと笑みを浮かべ――
はっと我に返ると、慌ててその場から離れていった。
キューピッドはそのまま、次の救助へと向かう。
特別に能力を使っている様子はない。
それでも――
彼に助けられた女性たちの中には、名残惜しそうにその場を離れていく者も少なくなかった。
「いいご身分だな。俺が前線であのクソみたいな敵とやり合ってるってのに、お前は後ろでナンパか?その能力で、あの化け物でも惚れさせてみろよ」
ソロプレイヤーの苛立った声が、通信越しにキューピッドの耳へと届く。
だがキューピッドは、まだこの通信機器の扱いに慣れていないらしく、わずかに眉をひそめた。
「言っただろう、俺の力はすべての生物に通用するわけじゃない!それより――お前、大丈夫なのか?」
火花を手で払いながら、前方へと視線を向ける。
そこでは、ソロプレイヤーの機体が巨大な火の鳥と激しく交戦していた。
翼を広げれば数メートルはあろうかという巨体。
空中を自在に滑空しながら、羽ばたき一つで炎と衝撃波を撒き散らす。
さらに、不意に高度を落とし――
鋭く巨大な爪を振りかざして、高速で突撃を仕掛けてくる。
対するソロプレイヤーは、機体のアームに搭載された武装を連続で発射。
ミサイル、エネルギー砲――あらゆる火力を空へと叩き込む。
だが、火の鳥はそれらを軽やかに躱し続けていた。
「……くそったれが」
コックピットの中で、ソロプレイヤーは低く吐き捨てた。
無表情のまま、だがどこか張り詰めた気配をまといながら、機体を操作する。
トリガーを引くたび、次々と武装が火を噴いた。
――だが、当たらない。
狙いはわずかにズレ、焦りはさらに精度を狂わせる。
撃つ。外す。撃つ。外す。
その連鎖が、次第にリズムを崩していく。
やがて――
爆発が、別の場所で起きた。
本来狙うはずではなかった建物。
無関係の看板。瓦礫。
誤射。
「……っ」
その瞬間、キューピッドが動いた。
一気に前へ踏み込み、飛び込むようにして通行人を抱き寄せる。
頭上から落ちてきた看板を、紙一重で回避させる。
そのまま地面を滑るようにして体勢を低くし、崩れた瓦礫の隙間を潜り抜ける。
次の危険へ、次の被害へ――
彼はほとんど休む間もなく、後処理に回っていた。
「くそっ……落ち着け!」
埃まみれになりながら、キューピッドが怒鳴る。
「無理してでも当てようとすんな!援護が必要なら言え!」
「……チッ」
ソロプレイヤーは小さく舌打ちした。
一瞬だけ動きを止め、手元のドリンクを一気にあおる。
そして――深く息を吸い込んだ。
ゆっくりと、吐く。
荒れていた呼吸を、無理やり整える。
機体の武装を一度下げ、ひたすら回避に徹する。
火の鳥の突撃を、紙一重で躱し続ける。
上昇。旋回。急降下。
その軌道を、ただ見続ける。
やがて――
火の鳥が再び高空へと舞い上がった瞬間。
ソロプレイヤーは、静かに腕を上げた。
特殊ミサイル、ロック。
視線は一点に固定される。
ターゲットの軌道をなぞるように、わずかに腕を動かす。
だが、火の鳥は高速で飛び回り、狙いを外そうと軌道を乱してくる。
《補助照準システム、干渉を確認》
AIの無機質な音声が響いた。
「……上等だ」
短く呟く。
「なら――目で追うだけだ」
補助機能を切る。
視界に残るのは、ただ一つの影。
呼吸を止める。
世界が、静かになる。
「おい、そのミサイル――威力、やばくないか……?」
キューピッドの言葉は、最後まで届かなかった。
――発射。
次の瞬間には、すでに決着がついていた。
放たれたミサイルは、空を切り裂き――
高速で移動していた火の鳥へ、寸分の狂いもなく直撃する。
まるで、その軌道をすべて読んでいたかのように。
轟音。
爆炎。
火の鳥はそのまま墜落し、地面へと叩きつけられた。
ソロプレイヤーはゆっくりと歩み寄る。
武装は解除せず、警戒を解かないまま。
距離、残り数メートル――
その時だった。
火の鳥が、突如として甲高い叫び声を上げる。
死体のはずのそれが、跳ね起きるようにして突撃してきた。
「……やっぱりな」
冷えた声。
「クソみたいな再生持ちか」
次の瞬間、機体の腕部から展開されたブレードが閃いた。
死角から潜り込み、真正面から頭部を貫く。
そのまま、引き裂く。
肉を断ち、骨を砕き、内部を抉り裂く。
何かが弾けるように飛び散り、コックピットのガラスに叩きつけられた。
――赤か、黒か、それすら分からない。
ソロプレイヤーは無言のまま、ワイパーを動かしてそれを拭い取る。
「……念のためだ」
それだけ呟くと、再び武器を振るった。
ブレード。レーザー。
すでに動かなくなったはずのそれを、何度も、何度も。
執拗に。
容赦なく。
まるで――
内側に溜まっていた何かを、吐き出すかのように。
やがて、動きが止まる。
ソロプレイヤーはゆっくりと腕を下ろし、武装を解除した。
「……なんていうか……やりすぎじゃないのか、それ」
キューピッドはやや引いた表情で歩み寄る。
体に付着した血のようなものを、手で軽く拭いながら。
「再生するタイプだ。完全に潰さないと意味がない」
コックピットが開き、ソロプレイヤー――佐伯が外へ降り立つ。
手袋を外し、指先を拭うその仕草は、まるで手術を終えた医者のようだった。
だが、その声には一切の温度がない。
「……そうか。なら、次は俺も手伝うとするか」
キューピッドは淡々と言う。
「手伝う、だと?」
佐伯の目が細くなる。
「今の俺に、指図でもするつもりか?ヒーローのやり方でも教えてくれるって?」
声が、低く沈む。
「俺はお前なんかに頼るつもりはない。誰にもな」
一歩、詰め寄る。
「それに――お前、洗脳もできないんだろ?だったら何ができる?」
怒気を隠そうともしないまま、真正面から睨みつけた。
「落ち着け、凡人!」
キューピッドの声が鋭く響く。
「お前が苛立ってる理由くらい分かってる。だが――」
言い終える前に、軽く佐伯の肩を押し返す。
その一瞬の接触が――
逆効果だった。
「……その呼び方、やめろって言ってんだろうが!」
佐伯の表情が、明らかに歪む。
「“凡人”だの何だのって……俺には名前があるんだよ!」
声が荒れる。抑えが効かない。
今にも掴みかかろうと、腕が動いた――
その瞬間。
二人の間に、何かが割り込んだ。
ぬるり、と。
黒い。
巨大な――触手。
地面から這い出るように現れ、ゆっくりと蠢きながら、二人の距離を無理やり引き離す。
空気が、変わる。
得体の知れない、粘つくような不快感が周囲を満たしていく。
「……何だ、これ……」
二人とも、一瞬反応が遅れた。
次の瞬間、反射的に一歩引き、距離を取る。
そして同時に、触手の現れた方向へと視線を向けた。
そこに――“それ”はいた。
距離を置いた先。
およそ二メートルほどの、黒い影。
人の輪郭に似てはいる。だが、それだけだ。
全身は塗り潰したような闇に包まれ、背後からは複数の黒い触手がゆっくりと蠢いている。
まるで、生き物そのものが歪んでいるかのような存在感。
胸元には、奇妙な破片状の装飾が揺れていた。
顔は――見えない。
それでも分かる。
“危険”だと。
佐伯もキューピッドも、無言のまま身構える。
(どこから出てきた……?クソ、今は機体の外だぞ……)
佐伯の思考が一瞬だけ加速する。
その気配を察したのか、あるいは――最初から気づいていたのか。
“それ”はゆっくりと触手を引き戻し、こちらへと歩み寄ってくる。
「……キューピッド……」
声が、空間に滲む。
人の発声とは明らかに違う。
低すぎるノイズが混ざり、歪んだ音が耳にまとわりつく。
「……お前が……キューピッド……で、間違いないか……」
佐伯がわずかに視線を向ける。
「……お前、あれに心当たりは?」
キューピッドは、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや、知らない」
短く否定する。
その表情には、わずかな違和感が浮かんでいた。
「……それに――」
一瞬だけ、言葉を切る。
「……効かない」
「……は?」
佐伯が眉をひそめる。
キューピッドは視線を“それ”へと向けたまま、静かに続ける。
「……あれには、俺の力が通じない」
「……失礼だが、君は何者だ?」
キューピッドが問いかける。
“それ”は、わずかに揺れた。
「……我は……お前と……同じ……」
言葉が、途切れ途切れに紡がれる。
「……追放された……神……この、下等な世界に……落とされた存在……」
空気が、重くなる。
「……感じないか……?」
低いノイズ混じりの声が、じわりと染み込む。
「……本来、全能であるはずの我らが……愚かな人間どもの作った……くだらぬ規則に……縛られている……この滑稽さを……」
キューピッドも佐伯も、無意識に息を呑んだ。
その一方で――
(……何か、おかしい)
佐伯はわずかに視線を逸らしながら、機体の記録機能を密かに起動させる。
「……だが……問題はない……」
“それ”は続ける。
「……もう……耐える必要はない……」
触手が、ゆっくりと揺れる。
「……我は……見つけたのだ……」
間。
「……神界へ……戻る術を……」
「……っ、それは……本当か……?」
思わず、二人の声が重なる。
息を呑む音が、わずかに震えた。
「……そのために……お前の力が必要だ……」
“それ”は、ゆっくりと触手を持ち上げる。
「……お前の力で……我らを導け……神界へ……」
ぬるりとした動きで、その触手がキューピッドへと差し出された。
キューピッドはわずかに顔をしかめる。
嫌悪と、警戒と、判断の迷い。
「……どう思う?」
佐伯が低く問う。
「……さあな……」
キューピッドは小さく首を傾げる。
「……何か……妙だ……」
その一言で、場の空気がわずかに引き締まる。
――その時。
「……ところで……キューピッド……」
“それ”が、唐突に言葉を挟んだ。
「……その隣にいる……それは……何だ……?」
わずかに、視線のようなものが佐伯へ向く。
「……愚かで……醜い……凡人……か……?」
「……は?」
佐伯の眉が、ぴくりと動く。
「……それとも……」
一拍。
「……お前の……所有物か……?」
さらに間を置いて――
「……あるいは……」
ノイズ混じりの声が、わずかに歪む。
「……男娼……の類か……?」
空気が、一瞬で凍りつく。
「……不要だろう……そんなものは……」
触手が、ゆっくりと揺れる。
「……もっと……上等な代替など……いくらでも用意できる……」
「……今、なんつった……?」
低い声。
だが、その奥で何かが切れた音がした。
佐伯の視線が、ゆっくりと“それ”を捉える。
「……ふ……」
“それ”は、わずかに歪んだ声を漏らす。
「……見ろ……その様を……」
「……取るに足らぬ凡人が……」
ノイズが混ざる。
「……自由や幸福などという……幻想を……求めている……」
触手が、ゆらりと揺れる。
「……それは……神の領域だ……」
一拍。
「……お前たちは……ただ……」
「……無意味で……取るに足らぬ……人生を……消費していればいい……」
そして――
「……誰にも……愛されることもなく……」
空気が、凍る。
「……誰にも……必要とされることもなく……」
「やめろ!」
キューピッドが叫ぶ。
だが――
「……殺す」
遅かった。
佐伯の声には、もう感情の整理がなかった。
衝動だけが、残っている。
次の瞬間――
火力が、解き放たれた。
ミサイル。レーザー。エネルギー弾。
あらゆる攻撃が、一斉に“それ”へと叩き込まれる。
だが――
すべて、弾かれる。
触手が幾重にも重なり、防壁のようにそれらを受け止めていた。
爆発が広がる。
煙が上がる。
だが、“それ”は微動だにしない。
「……チッ」
佐伯は舌打ちすると、すぐに踵を返した。
そのまま駆け出す。
機体のコックピットへ。
直接、叩く。
「待て!気をつけろ!」
キューピッドの叫びが響く。
――だが、遅い。
佐伯がコックピットへと身を乗り出した、その瞬間。
触手が――来た。
一瞬で間合いを詰め、複数の黒い触手が同時に襲いかかる。
腕を、脚を、胴を――絡め取る。
「――ッ!」
声にならない。
口元まで塞がれ、叫びすら許されない。
半ば機体の中へと入りかけていた体が、そのまま強引に引き剥がされる。
抵抗する間もない。
力が違いすぎる。
そのまま――
引きずられる。
「……やめろ……!」
キューピッドが手を伸ばす。
だが、その前で――
“それ”の胸元に揺れていた異形の装飾が、光を放った。
低く唸るような振動。
空間が歪む。
渦が、開く。
黒く、深く、底の見えない穴。
吸い込まれる。
風ではない。
引力でもない。
何か別の――抗えない“力”。
佐伯の体が、そのまま宙へと引き上げられる。
もがく。
抗う。
だが――
届かない。
「――ッ……!」
次の瞬間、視界が反転した。
そのまま、闇の中へと叩き込まれる。
「……くそっ……!」
キューピッドが手を伸ばす。
その指先に、わずかに光が宿る。
何かを――発動しようとした、その瞬間。
触手が来た。
一本ではない。
二本、三本、さらにその先。
一気に間合いを詰め、全身へと絡みつく。
「……ッ、離せ!」
力で振り払おうとする。
だが、びくともしない。
圧倒的な拘束力。
逃げ場が、ない。
「……何のつもりだ……!」
歯を食いしばりながら、キューピッドが睨みつける。
「……我は……かつて……神々に恐れられ……」
“それ”の声が、空間を震わせる。
「……古き神としての力を理由に……この世界へと……追放された……」
触手が、さらに締め上げる。
「……許せると思うか……?」
ノイズが、強くなる。
「……あの連中を……」
「……もう一度……恐怖に染め上げてやる……」
歪んだ笑いのようなものが混じる。
「……神界は……本来……我のものだ……」
間。
「……それが……運命だった……」
空気が軋む。
「……だが……お前は……従わないらしい……」
触手が、ゆっくりと持ち上がる。
「……ならば……時間の無駄だ……」
低く、重く。
「……連れていく……」
「……っ……」
キューピッドが顔を歪める。
「……そして……お前には……一つだけ……役割を与える……」
触手が、さらに絡みつく。
「……我が望む者すべてを……」
一拍。
「……“我のもの”にしろ……」
「……ふざけるな……お前……!」
キューピッドが叫ぶ。
だが――
「……ッ!」
その体が、強引に引き寄せられる。
抵抗する間もなく。
渦へと。
引きずり込まれる。
視界が歪む。
音が崩れる。
そのまま――
闇の中へ。
渦は、ゆっくりと収束していく。
歪んでいた空間が元に戻り、静寂が戻ってきた。
胸元の装飾もまた、何事もなかったかのように光を失っていく。
――だが。
「……ああ……」
“それ”は、低く唸る。
まるで――力が満ちていくのを、確かめるように。
次の瞬間。
咆哮。
同時に、無数の触手が一斉に広がった。
制御などない。
ただ、破壊。
周囲の建物を、街路樹を、残骸を――無造作に叩き潰していく。
その一撃一撃は、まるで回転する刃のように鋭く、
触れたものすべてを容易く切り裂いた。
ソロプレイヤーの機体も、例外ではない。
横殴りの衝撃で弾き飛ばされ、遠くへと転がる。
さらに――
触手がなぞる軌跡には、黒い残滓が残った。
じわりと滲む、異質なエネルギー。
それはまるで、この世界そのものを侵食していくかのように広がっていく。
「……いいだろう」
“それ”が、静かに言う。
「……帰ろう……」
わずかに歪んだ声。
「……我らの……居場所へ……」
============================================
まぶしい光に、意識が引き戻される。
佐伯はゆっくりと目を開けた。
――アスファルトの上。
自分が道路に倒れていることに、数秒遅れて気づく。
ゆっくりと上体を起こす。
体が、うまく言うことをきかない。
「……っ」
咳がこぼれる。
頭が、まだはっきりしない。
「……なんだ……今の……」
かすれた声で呟く。
「……チッ……ここは……どこだ……」
近くから声がした。
視線を向けると、キューピッドが地面に座り込み、片手で頭を押さえている。
「……おい、大丈夫か……?」
「……問題ない……それより……」
キューピッドはゆっくりと顔を上げる。
「……ここがどこか……分かるか?」
「……ここって……」
佐伯は周囲を見回す。
見覚えがある。
確かに――さっきまで戦っていた、あの大通りだ。
「……あのタコ野郎は……?」
眉をひそめる。
「逃げたのか……?」
「……違う」
キューピッドが、静かに否定する。
「……ここは……さっきの“現実”じゃない」
一拍。
「……よく見ろ」
その言葉に、佐伯は改めて周囲を観察する。
――違和感。
確かに、場所は同じだ。
だが――
何かが、決定的におかしい。
戦闘の痕跡が、ない。
瓦礫も、破壊も、何もかもが消えている。
ソロプレイヤーの機体も――見当たらない。
そして――
「……誰も……いない……?」
ぽつりと、呟く。
通りには、人の気配が一切なかった。
いや――それだけではない。
虫の声も、風の音も、何もない。
世界そのものが、息をしていないかのような静けさ。
その不自然すぎる“無音”が、じわじわと神経を蝕んでくる。
佐伯は思わず肩を震わせた。
「……最後に覚えてるのは?」
キューピッドが低く問う。
「……ああ?戦闘に入ろうとして――」
佐伯は頭を押さえながら、記憶を辿る。
「……あの気持ち悪い渦に引きずり込まれて……くそ……まさか……」
「……だろうな」
キューピッドは小さく頷く。
「……あの中だ。ここは」
「マジかよ……頭痛ぇ……」
佐伯は顔をしかめる。
「……で、あのタコ、本当に知らねぇのか?今の状況、何か分かんねぇのかよ」
「……考えている」
キューピッドは腕を組み、わずかに視線を上げる。
「……確か……古い遺物の類で……」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「……人を別の層の世界に引きずり込むものがあったはずだ……完全に同じではない、歪んだ世界……」
一拍。
「……ただ、詳細は覚えていない」
肩をすくめる。
「……歴史の授業は、だいたいサボっていた」
「ふざけんなよ!」
佐伯が思わず声を荒げる。
「こういう時に頼りにならねぇでどうすんだよ!下半身ばっか使ってんじゃねぇ!」
「黙れ!」
キューピッドも即座に言い返す。
「我らは数万年単位の歴史を背負っている!人間の数千年程度と同列に語るな!」
「はっ、神様ってのは何でもできるもんじゃねぇのかよ」
佐伯は吐き捨てる。
「……まあいい。で、脱出方法は?」
「……推測だが」
キューピッドは一度目を閉じ、言葉を選ぶ。
「……この世界には核があるはずだ。構造を維持している“中心”だ」
ゆっくりと目を開く。
「……それを破壊すれば、この空間は崩壊する。俺たちも外に出られる……はずだ」
「……“はず”ってなんだよ……」
佐伯の顔が引きつる。
「……おい、マジで……」
一拍。
「……もう終わりじゃねぇか、俺たち……」
佐伯は絶望したように叫んだ。
「てめぇ今、俺のせいにしてんのか!?俺は今、必死に二人ともここから脱出する方法を考えてんだよ!だから大人しく手伝うか、黙ってろ!」
キューピッドも次第に苛立ちを募らせ、ついに佐伯と言い争いを始めた。
「そもそもあいつ、最初からお前を狙ってただろ!それなのに巻き添えで俺まで引きずり込まれてんだよ、ふざけんな!」
「は?正義のスーパーヒーロー様じゃなかったのか?そもそもお前がいきなり攻撃仕掛けたせいで、向こうも本気になったんだろうが!」
「だってあいつ、俺のこと男娼とか言いやがったんだぞ!?それに、仮に大人しくしてたってどうせ戦いになってただろ!」
「未知の相手に対して、状況も読まずに先制攻撃!まさかお前がそんな馬鹿な真似するとはな!」
「そうだよ、俺はただの凡人だよ!お前ら神様みたいに完璧じゃねぇし、ミスもする!…ああ、そういえば言ってたよな?お前もやらかして人間界に落とされたって!つまりどういうことか分かるか?俺たちは同レベルなんだよ!お前も“ただの凡人”だ!」
「……っ」
「しかも今度はそのまま神界に連れ戻されるって?よかったなぁ、願い通りじゃねぇかよ!」
怒りはさらに加速し、二人は互いに距離を詰めていく。
「下がれ、凡人!これ以上近づくな!」
「全部お前の仕組んだことなんじゃねぇのか?仲間を呼んで自分を回収させて、ついでに俺も連れていくつもりだったんだろ!人間を支配するための情報でも持ち帰る気か!?」
「違う!ふざけたこと言うな、黙れ!」
「だったらどうする!?神様だからって何でも許されると思ってんのか!?顔がいいだけのクズ野郎が!信じるかよ、そんなやつ!」
佐伯は次第に理性を失い、キューピッドの頬をぐいっとつねった。
「てめぇのそのイケメン面、ぶっ壊してやろうか!?」
「その汚い手で触るな!」
キューピッドは苛立ちを露わにし、佐伯の手を払いのける。
「この下等な人間が!」
「やんのか!?」
「やめておけ。今のお前には、隠れる機体もないだろう」
「はっ、怖ぇよ。お前こそ、人の感情いじる以外に何ができるんだよ?」
「感情を弄ぶ、だと?じゃあ聞くが――自分を好きでもない女を好きにさせようとするのは、弄ぶことじゃないのか?」
「……っ」
佐伯は言葉に詰まる。
「諦めろ。あの女はお前のことなんて――」
その瞬間。
ドンッ――!
佐伯の頭突きが、真正面からキューピッドの鼻を捉えた。
「っ……!?」
キューピッドは信じられないといった表情で鼻を押さえ、佐伯を睨みつける。
「てめぇ…よくも…この俺に手を出したな…!」
「俺にはなぁ……名前があるんだよッ!!」
佐伯は完全にブチ切れ、叫びながらそのまま飛びかかった。
二人はそのままもつれ合うように殴り合いに突入する。
佐伯は感情のままに拳を振り回し、キューピッドは距離を取ろうとしながら顔を押さえて制止しようとする。
だが佐伯はその手に噛みついた。
「っ…!?」
キューピッドが思わず手を引いた隙に、佐伯はさらに股間を蹴り上げる。
「ぐああああッ!!」
怒りが爆発したキューピッドも応戦し、二人はそのまま取っ組み合いになる。
殴る、蹴る、引っ張る、押し倒そうとする――
完全に理性のない乱闘だった。
しばらく拮抗した後――
ドンッ!
キューピッドが力任せに佐伯を突き飛ばした。
「もういい加減にしろ!!」
佐伯は地面に倒れ込み、荒く息を吐きながらもなお起き上がろうとする。
「いい加減にしろ!お前がその女のことで壊れかけてるのは、分かってるだろ!!」
その一言で、佐伯の動きが止まった。
「……は?」
「お前のスマホ、見たんだよ!もういい、諦めろ!あの女は――結婚するんだろ!!」
佐伯の動きが止まった。
やがて、力なく両手を下ろし、そのまま俯いたまま動かなくなる。
ようやく訪れた沈黙。
荒れ切っていた空気が、嘘のように静まり返った。
しばらくの間――
ただ、重たい沈黙だけが流れる。
そして。
ゆっくりと、佐伯が顔を上げた。
「……分かってるよ……」
声はかすれていた。
「そんなの……分かってるに決まってるだろ……」
その目はわずかに潤み、今にも崩れそうだった。
「それでも……」
言葉が詰まる。
喉の奥から無理やり絞り出すように、続ける。
「分かってても……やめられないんだよ……!」
拳を握りしめる。
「本当はダメだって分かってる……こんなの間違ってるって……!」
呼吸が乱れる。
「でも……チャンスがあるなら……もしかしたらって思ったら……」
声が震えた。
「俺は……諦めきれないんだよ……!」
そして――
「好きなんだよ……!」
——その瞬間。
何かが、完全に切れた。
佐伯はその場に崩れるように膝をつき、うつむいた。
力なく肩が落ちる。
まるで何かに縋るように――
祈るように。
だが、返ってくるのは。
ただの静寂だけだった。
世界は、何も答えてくれない。
キューピッドはその姿を見つめたまま、わずかに目を伏せる。
――何かを思い出したように。
やがて、軽く息を吐き、身なりを整えると、ゆっくりと立ち上がった。
「……悪いが、感傷に浸ってる時間はない」
いつもの少し冷めた口調に戻る。
「俺たちがあの章魚に“放り出された”ってことは――あいつはもう神界に向かってる可能性が高い」
「下手すりゃ、もう暴れ始めてるかもしれない」
佐伯は何も言わない。
ただ、うつむいたまま。
「場所も分からない以上、やることは一つだ」
キューピッドは淡々と続ける。
「この世界の“核”を見つけて破壊する。それでここは崩壊するはずだ。そうすれば、外に出られる」
一瞬、間が空く。
「……たぶんな」
「たぶんかよ……」
佐伯は力なく呟いた。
それでも――
「……じゃあ、どこに行けばいいんだよ……」
声には、まだ力が戻っていない。
キューピッドは少しだけ振り返る。
「行き先は決まってる」
そして、静かに言った。
「……あいつと同じ目的地、俺の故郷だ――ローマ」
キューピッドはそれ以上振り返らず、そのまま歩き出す。
「来るか来ないかは好きにしろ。だが俺は行く」
足取りは迷いがなかった。
その背中を、佐伯はしばらく見つめていた。
やがて――
ゆっくりと空を見上げる。
果てのない空。
何もない、ただの空虚。
「……最悪だな……」
乾いた笑いが漏れる。
「わけ分かんねぇ世界に閉じ込められて……ローマ行かなきゃいけなくて……」
「下手したら死ぬし……一生ここかもしれねぇし……」
少し間を置いて。
「……機体もねぇし……」
そして最後に。
「……先輩、もうすぐ結婚だしな……」
少し、間が空く。
「……あと、数日だっけか……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「はは……」
笑った。
空に向かって。
壊れたみたいに。
「……ははは……」だがその笑いも、すぐに消えた。
表情は、完全に死んでいた。
もう何も残っていないような顔。
しばらく立ち尽くしたあと――
佐伯はゆっくりと立ち上がる。
そして。
重たい足取りで、ふらつきながら。
キューピッドの後を追った。
ご覧いただきありがとうございます。いかがでしたでしょうか。
今回は、佐伯とキューピッドの口論がより自然に見えるよう意識して書いてみましたが、うまく伝わっていれば嬉しいです。
さて、いよいよ物語は本格的に主線であるロードムービーへと突入しました。
二人は無事にこの状況を突破できるのか。
佐伯は先輩への想いとどう向き合うのか。
そして、キューピッドにはまだ何か隠していることがあるのか――。
ぜひ、次の一話もお楽しみに。
それでは、
Noah Novaでした。
どうか良い一日をお過ごしください。




