第5話-断崖
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
お待たせしました、新しい一話へようこそ。
佐伯とキューピッドの二人は、ルール不明の異世界に閉じ込められてしまう。
水と油のように相容れない二人は、果たして無事に脱出することができるのか――?
「なあ……本当に、俺たちがどこにいるか分かってるのか?」
「安心しろ。どんな状況でも、帰る方向くらいは忘れねぇよ。」
少し前を歩いているキューピッドに向かって、佐伯は疲れた様子で声をかけた。さっきまでの一連の出来事のせいで、二人ともひどくボロボロだ。顔も髪も服もぐちゃぐちゃで、ずっと歩き続けているせいか、佐伯の足もすでに痛み始めている。
それでも、重たい足を無理やり引きずるようにして、彼はキューピッドの背中を追い続けた。
他に選択肢なんて、ないのだから。
「てか、俺たちどれくらい歩いてるんだよ?そもそもさ、歩きだけでローマに着くわけないだろ。まさか本気で歩いて行くとか言わねぇよな?」
「口閉じて体力温存しとけ。それと――奇跡でも祈ってろ。」
「くそっ……お前、一応神なんだろ?ちょっとくらい奇跡くれてもいいんじゃねぇのか?飛べねぇのかよ?」
「少なくとも、今は無理だな。」
「マジかよ……。なあ、もしこの世界で死んだらどうなるんだ?時間の流れって外と同じなのか?てか、なんで誰もいねぇんだよ……」
「うるせぇぞ、クソ凡人!いいから黙ってついて来い!俺はお前を置いていかねぇ……だから、これ以上イラつかせるな!」
キューピッドは苛立ちを隠さず、振り返って怒鳴りつけた。
「……ああ、悪いな。まだお前のこと信用してねぇからさ。お前ほんと――……いや、もういい……どうでもいい……」
張り詰めたままの感情をぶつけ返そうとしたが、疲労のせいか、佐伯はそれ以上言葉を続けるのをやめた。
ただ黙って、うつむいたまま。
自分の足元だけを見つめながら、一歩ずつ前へ進む。
終わりの見えない道を、ただひたすらに。
そんな沈黙がしばらく続いた後、キューピッドがふいに足を止めた。
だが、ずっと下を向いて歩いていた佐伯はそれに気づかず、そのまま背中にぶつかってしまう。
「いってぇ……!何だよ急に!」
「着いた。」
「着いた?マジでか?」
佐伯は信じられない様子で前に顔を出すが、目の前にあったのは――ただのコンビニだった。
もちろん営業している様子はなく、店内にも人の気配は一切ない。
「ここで少し休むぞ。」
そう淡々と言うと、キューピッドは地面に落ちていたレンガを拾い上げ、そのままショーウィンドウに向かって投げつけた。
ガシャン、と大きな音を立ててガラスが割れる。
そのまま何事もなかったかのように、中へと入っていった。
「何なんだよ……まあいいか……」
呆れつつも、佐伯も後を追って中へ入る。
二人は適当に店内を漁り始め、佐伯はすぐに食べ物と飲み物を手に取り、その場で開けてむさぼるように口へ運んだ。
まるで何日も何も食べていなかったかのように。
「妙な感じだな……だが、どうでもいい。ここじゃ法律なんて意味ねぇだろ。」
キューピッドは食料に加え、棚から酒を何本か取り出した。
「こんな状況で酒かよ……ほんとに――」
文句を言いかけたその時、キューピッドが絆創膏やティッシュ、鎮痛剤などを持ってきて、佐伯に差し出した。
「使え。」
「……ああ、サンキュ。」
素直に礼を言い、佐伯はそれを受け取って簡単な手当てを始める。
キューピッドはその隣に腰を下ろし、酒を口にした。
短い気まずい沈黙の後、先に口を開いたのは佐伯だった。
「なあ……さっきは、その……悪かった。色々、ほら……分かるだろ……」
「いや、俺も悪かった。」
食事と短い休息で、少しずつ、体力が戻ってくるのが分かった。
気づけば、さっきまでの張り詰めた感じも薄れていた。
「で……この世界、結局なんなんだよ?」
「詳しくは分からん。もう少し思い出す必要があるな。」
「……まあいい。今は一つだけ聞かせろ。」
佐伯はキューピッドの目を真っ直ぐ見つめる。
「お前のこと、信じていいのか?」
短い沈黙の後――キューピッドは酒の缶を一本、佐伯に放り投げた。
意味は分からなかったが、佐伯はそれを受け取り、缶を開けて一口飲む。
そしてすぐに、顔をしかめた。
「ぬるっ……。ってことは……答えは“ノー”ってことかよ?」
その言葉を聞いても、キューピッドは何も答えず――ただ、わずかに口元を歪めただけだった。
しばらく休憩を取った後、二人は必要そうな物資をいくつか持ち出し、店を後にした。
外へ出ると、道端にはシェア式の電動キックボードが何台か並んでいるのが目に入る。
「どうやら、お前の祈りが効いたみたいだな、凡人。」
「マジかよ……まあ歩くよりはマシだけど……いや、いいか。」
半信半疑のまま試してみると、問題なく起動した。
「よっしゃ!仕組みは分かんねぇけど、動けばいい!」
「人間も、全部が退屈ってわけじゃなさそうだな。」
二人はそのままキックボードに乗り込んだ。
「ちょっと待て……俺さっき酒飲んだんだけど?」
佐伯がふと気づいて言うと、キューピッドは意味ありげに眉を軽く上げるだけだった。
「……もういい!どうにでもなれ!行くぞローマ!」
少しだけ勢いを取り戻した二人は、そのままキックボードで再び進み始めた。
走り出すと、風が頬を撫で、さっきまでより少しだけ楽に感じられた。
「こんなとこでキックボードとか、悪くねぇな。てかさ、なんか体がフワフワしてる感じしねぇ?これ走ってるせいか、それとも酒のせいか……まあ、多分両方か。」
「……フワフワ、か。」
しばらく進んだ後、キューピッドの表情がふいに曇った。
「おい、その顔やめろよ……嫌な予感しかしねぇんだけど。」
「少しだけ思い出したことがある。見た目は似ているが、この世界は現実とは根本的に違う。」
「つまり――地図通りに大陸や海を越えたり、山を越えたりする必要はない。目的地は最初から“設定されている”。だから、どんなルートを通ろうが、最終的にはローマに辿り着くはずだ。」
「現実ほど複雑じゃない。理屈の上では……あのタコより先に到着することも可能だろう。しかも、さっきまでの道のりはやけに順調だった……」
「……それって、別に良くねぇか……?」
佐伯は思わず唾を飲み込む。
「だが、この世界があのタコの設計じゃなかったとしても……本当にそこまで都合よくできていると思うか?」
「つまり……どういうことだよ……?」
「おそらく――俺たちはすでに“次の段階”に入っている。」
「そして、その先がどうなるかは……誰にも分からない。」
「要するに……さっきまでが第一ステージで、今は次のステージに入ったってことか?」
「……お前の言い方はよく分からんが、まあそんなところだ。」
「で、危険って言うと――ん?地震か……?」
佐伯は突然、地面から激しい振動を感じ取った。
それと同時に――背後から、人と動物の入り混じったような音がかすかに聞こえてくる。
「お?やっと人が出てきたか……って、何だあれ……?」
振り返った瞬間――二人は言葉を失った。
背後の道路を埋め尽くすように、無数の戦車が迫ってきていた。
それぞれの戦車は馬に引かれ、荷台には一人か二人の戦士が乗っている。古代風の鎧をまとい、武器を握りしめ、手綱を振るって馬を駆り立てていた。
馬は嘶き、地面を叩きつけるように駆ける。
戦士も馬も、どれも異様なほど屈強で――どこか狂気じみていた。
轟音と共に、一直線にこちらへ迫ってくるその光景は、圧倒的な迫力を放っていた。
「何だよあれ……!古代ローマのグラディエーターかよ!?」
「……嫌な予感しかしないな。」
「いや、もしかしたらあいつら――」
「「「殺せえええ!!!」」」
「「「ぶっ殺せええええ!!!」」」
「おい凡人!これ、もっとスピード出ねぇのか!?」
「だから言っただろ最悪だって!くそがあああ!!ってか難易度上がりすぎだろこれ!!」
背後からは狂気じみた戦士たちが一斉に追いすがってくる。
キックボードのスピードを限界まで上げても、せいぜい時速二十キロ台。
あっという間に距離を詰められ――
気づけば、二人は戦車の群れに囲まれかけていた。
「どうすんだよこれ!?」
「知らん!奪うしかねぇだろ、あの戦車を!」
「チッ……!」
すぐ横に並んだ戦車が、突然体当たりを仕掛けてきた。
佐伯は咄嗟にハンドルを切り、ギリギリでそれを回避する。
続けざまに、別の戦車が横から突っ込んでくる。
佐伯はタイミングを見計らい、急ブレーキ。
その瞬間、相手はバランスを崩し、前方へと滑り出た。
前方に出た敵が振り返り、武器を振り上げたその瞬間――
横から酒瓶が飛来し、直撃。
敵はバランスを崩し、大きな隙を晒した。
佐伯が横を見ると、キューピッドが真剣な表情で小さく頷く。
それに応えるように、佐伯も息を止め――
そのままキックボードを蹴り出し、前方の戦車へと飛び込んだ。
戦車の荷台に飛び乗ると同時に、相手の股間を思い切り蹴り上げる。
そのまま一気に体を押し込み、敵を荷台から叩き落とした。
「ぎゃあああ!!」
落下した敵は、後続の戦車や佐伯のキックボードを巻き込みながら次々と倒れていく。
佐伯は揺れ続ける戦車の上で、必死にバランスを取った。
「で!?これどうやって操縦すんだよこのクソ乗り物!?」
佐伯は大声でキューピッドに叫ぶ。
「持ちこたえろ!」
キューピッドはキックボードのまま佐伯へと近づいていく。
だが、他の戦車も同時に彼へと迫り、武器を振り上げていた。
距離はまだわずかにある――その瞬間。
佐伯は必死に手を伸ばす。
「今だ、跳べ!!」
キューピッドは敵が攻撃に入る直前、そのタイミングを見極め――
思い切り跳躍。
同時に足元のキックボードを蹴り上げ、敵へと投げつけた。
キックボードが直撃し、敵は戦車から叩き落とされる。
その刹那――
キューピッドは空中で佐伯の手を掴んだ。
だが、体の半分はまだ外にあり、そのまま引きずられる形になる。
「引き上げろ!!早くしろ!!」
佐伯は全力で腕を引き、キューピッドを戦車の上へと引き上げる。
これで――二人は同じ戦車に立った。
だが、周囲にはまだ無数の敵が残っている。
「で、どうすんだ!?お前の能力であいつらまとめてラブラブにできねぇのかよ!?」
「この世界じゃ、力は自由に使えない……だが、方法はある。」
「手綱を握れ。お前が操縦しろ。」
「はぁ!?んなもん分かるわけねぇだろ!!」
「難しくない!お前が機体を動かすよりはずっと簡単だ!」
「……くそ、やるしかねぇか……!」
佐伯は足場を固め、両手で手綱を握る。
周囲の敵の動きを一瞬で観察し――
すぐに真似るようにして、戦車を操作し始めた。
最初はぎこちなかったが――すぐに慣れる。
まるで車を運転するかのように、感覚を掴み、
速度差と車体の動きを利用して、横から突っ込んでくる敵を次々と弾き飛ばす。
何台もの戦車がバランスを崩し、転倒していった。
「ははっ!ざまぁみろ!!こっちはF1だって乗ったことあるんだぞ!こんなオンボロ、扱えねぇわけねぇだろ!!くそったれローマじいじい!!」
「……それ、俺のこと言ってるのか?」
キューピッドが目を細める。
佐伯は慌てて誤魔化した。
「で……どうすんだ?このまま酒瓶投げ続けるか?」
キューピッドはライターで酒瓶に火をつけ、そのまま投げつける。
即席の火炎瓶が弾け、激しい火花を散らした。
「いや、数が多すぎる。もっと火力が必要だ。」
「……だが、手はある。少し時間を稼げ。持ちこたえろ。」
キューピッドは集中を始める。
手元と胸元――刻まれた薔薇の紋様が、淡く光を帯びていく。
「何する気だ……?」
「この世界は俺の力を制限している……だが、全てじゃない。」
「それに――ほとんどの人々は俺を誤解している。」
光は次第に形を成し――
黄金の弓へと変わる。
その弓は宝石と薔薇で装飾された、過剰なほどに華美なものだった。
キューピッドは薔薇を一本手に取り、それを矢として弓に番える。
弦を引き絞り――
敵の群れの中心へと狙いを定め――
放つ。
矢は光となって一直線に突き抜けた。
「俺が戦えねぇとでも思ってんのか――!!舐めんなよクソが!!」
次の瞬間――
薔薇が炸裂した。
まるで祝砲のような爆発が交差点一帯を吹き飛ばし、無数の花弁が四方へと舞い散る。
その花弁に触れた敵は、次々と二次爆発を引き起こした。
それはまるで祭典のような、異様に華やかな破壊だった。
立ち上る煙さえも、どこか歪んだハートの形を描く。
一瞬にして――敵の大半は壊滅した。
「おいおい!!そんなの隠してたのかよお前!!」
「切り札は簡単に見せるもんじゃない、若造。」
「それに正直言えば、俺は戦闘が得意なわけじゃない。この手も滅多に使わん。」
「……それに、この弓も技も、正直ダサいだろ?中二すぎる。千年以上生きてる身としては、もう少し地味で実用的な方が好みなんだ。」
「はぁ!?薔薇爆弾とか超カッコいいだろ!!それだけでヒーロー名いけるレベルだぞ!?」
その直後、背後から追ってきていた敵の戦車たちが、次々と減速し――やがて停止していった。
「止まった……?俺たち、逃げ切ったのか?」
「待て、前を見ろ!」
視線の先――本来なら続いているはずの道路が、途中で途切れていた。
その先には、巨大な断崖。
下は底の見えない闇が広がっている。
「クソッ……止まるか!?」
佐伯が手綱を引こうとしたその瞬間――
「やめろ!」
キューピッドが制止する。
「いや――突っ切るしかない!」
「忘れるな。ここはルールの分からない異世界だ。これは間違いなく“この段階の最後”だ。」
「向こうに辿り着かなきゃ、次には進めない!」
「それで次に行けるってか……でもよ、どう考えても無理だろこんなの!」
「選択肢はない!全力で賭けるしかない!」
「ここで一生足止め食らいたいのか!?」
「でも…この距離、遠すぎるだろ!どう考えても、気合いだけでどうにかなるレベルじゃ――」
「はああああ!!!」
キューピッドは苛立ちと呆れを混ぜたように白目を剥き、懐から酒瓶を一本取り出すと、そのまま強引に佐伯の口へと突っ込んだ。
「んぐっ――!?」
佐伯は慌てて押し返そうとするが、両手は戦車の操作で塞がっている。逃げ場もなく、そのまま一気に強い酒を流し込まれた。次の瞬間、頭が一気にぼやける。
視界の奥で、ほんの一瞬だけ――記憶がフラッシュする。
「「乾杯~」」
賑やかな集まりの中。少しだけきちんとした服を着た佐伯は、向かいに座る先輩を見つめていた。
綺麗に着飾ったその姿に、思わず見惚れてしまう。
軽くグラスを合わせ、二人は目を合わせて、柔らかく笑った。
「――ッ!」
パァンッ!
次の瞬間、キューピッドの強烈な平手打ちが頬に叩き込まれ、佐伯は一気に現実へと引き戻される。
「何すんだよテメェ!?」
「いいか、よく聞け!」
キューピッドは怒鳴る。
「嫌でも何でも、俺たちはもう同じ船に乗ってんだよ!一緒に死ぬか――それとも今みたいに頭がぶっ飛んでるうちに、全部振り切って突っ込むかだ!どっちを選ぶ!?」
「お、俺は……」
「何がしたい!?はっきり言え!!」
「ここから出たい!」
「もっと大きな声で!まだやり残してることは!?」
「このクソみたいな場所から出る!あのクソタコをぶっ倒す!それと――!」
佐伯は喉が裂けるほど叫ぶ。
「もう一度だけ、先輩に会いたいんだよ!!!」
「くそっ……先輩ぃぃぃ!!! あああああ!!!」
感情が爆発したまま、佐伯は叫びながら手綱を強く引き、戦車をさらに加速させる。
前方の馬たちは限界まで速度を上げ、戦車はまるでスポーツカーのような勢いで突き進む。
そして――崖が、迫る。
一瞬。
本当に最後の瞬間で、佐伯はタイミングを見極めた。
「行けぇぇぇ!!!」
馬を跳躍させる。
戦車はそのまま、凄まじい速度で宙へと投げ出され――
まるで空を翔ぶかのように、高く舞い上がった。
遠くから見れば、それは夕焼けを越えていく一台の戦車のようだった。
無重力に近い感覚の中、二人は必死に車体へしがみつきながら叫ぶ。
だが――
やがて、重力が支配を取り戻す。
戦車はゆっくりと、しかし確実に落下し始める。
前方の馬の重みで車体は前のめりになり、まるで急降下するジェットコースターのように角度を変えていく。
その先にあるのは――
底の見えない闇。
そして――
対岸には、まだ届かない。
「うわあああ!!!やっぱ無理だろこれぇぇぇ!!!」
佐伯は恐怖に叫ぶ。
「まだだ!終わってねぇ!」
キューピッドが叫ぶ。
「俺の指示を聞け!準備――」
戦車がわずかに前傾したその瞬間、キューピッドは弓に飾られていた薔薇を一本引き抜き、それを車体の後方へと押し込む。
同時に佐伯の腕を掴み、無理やり立たせる。
強風と不安定な足場の中、佐伯は必死にバランスを取る。
足が震えるのを抑え込みながら。
その間にも――
車体の下に仕込まれた薔薇が、明滅を始める。
「準備……」
一瞬の間。
「――跳べ!!!」
キューピッドが叫び、二人は同時に前方へ全力で駆け出し――
戦車から飛び出した。
直後。
背後で――
ドォンッ!!!
巨大な爆発が炸裂する。
薔薇が爆ぜ、その衝撃が二人の身体をさらに前方へと押し出す。
「うおおおお!!!」
空中で叫びながら、必死にもがく二人。
次の瞬間――
キューピッドの手が、崖の縁を掴んだ。
だが片手だけだ。
もう片方の手には――
下へと引きずられる佐伯の手が握られている。
二人はそのまま、宙吊りになる。
下を見れば、粉々に砕け散った戦車と馬が、闇の中へと消えていくのが見えた。
佐伯の背筋に冷たい汗が走る。
「離すな!!」
「わかってるってのぉぉ……!!!」
キューピッドは歯を食いしばり、片腕だけで必死に身体を引き上げる。
足場を探りながら踏み込み、どうにか半身を崖の上へと持ち上げた。
そこからさらに地面を這うようにして転がり、ようやく全身を引き上げる。
そのまま仰向けに倒れ込みながらも、掴んだままの手に力を込める。
「っ……!」
佐伯の体を、少しずつ、少しずつ引き上げていく。
――どれくらい時間が経ったのか。
ようやく、二人とも崖の上へと辿り着いた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
二人はその場に倒れ込み、大きく息を吐きながら荒い呼吸を繰り返す。
「せ、成功……した……」
「は……はは……」
顔を見合わせる。
張り詰めていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。
そして――
気づけば、二人とも笑っていた。
キューピッドはゆっくりと起き上がり、地面に寝転がったままの佐伯へ手を差し出す。
「若いの、立てるか?」
「当たり前だろ、ジジイ。そっちこそバテてんじゃねぇのか?」
佐伯もその手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
二人ともまだ息を整えながら、ふらつく足取りで崖の縁へと歩み寄る。
そして――下を覗き込む。
底の見えない闇。
「……で、酒はまだあんのか?」
「いや……軽量化のために、全部捨てた」
――その時。
足元のどこかが、わずかに震えた。
二人は顔を見合わせ――無言で少し距離を取る。
そして。
危機感でも酔いでもなく、別の欲求が勝った。
チャッ、とジッパーを下ろす音が重なる。
二人は並んで、深淵へと向かって――
「はぁぁぁ……」
その場で思い切り解放した。
「……ってことはさ、また次のステージってことか?」
「ああ、多分な」
「で、俺たち今また何も持ってない感じ?電動キックボードもなし?」
「その通りだ」
「しかも次に何が来るかもわからないし、タコがどこにいるかも不明、と」
「完璧だ」
「最高じゃねぇか……はぁ……」
佐伯は、用を足して全身がすっきりしたからなのか、それともこの世界に少し慣れてきた自分に気づいたからなのか、ただ肩をすくめて長く息を吐いた。
「でさ……あの先輩って、お前にとって本当に大事な人なんだな?」
まさかのタイミングで、今度はキューピッドの方から口を開き、佐伯は少し意外そうな表情を浮かべた。
「そりゃあな……だって、俺まだ忘れられてないし。わかるだろ?」
佐伯は自嘲気味に苦笑しながら答えた。
「お前たち……付き合ってたのか?それとも……?」
「いや……ほぼ一方的ってやつ。簡単に言えば、俺が好きで、向こうはそうじゃなかったってだけ。」
「そうか……」
キューピッドは小さくうなずいた。
「もしここから出られたら、お前は彼女に何をしたい?」
「さあな……ただ、できるならもう一度会いたい。それだけだよ……」
佐伯の表情は、自然と真剣でどこか寂しげなものに変わっていた。それを見たキューピッドは、何かを思い出したように目を細める。
「なんか……昔の俺を見てるみたいだな……」
キューピッドは小さく息を吐き、視線を落とした。
「へえ?ってことは……イケメン?人気者?天才ってこと?」
「俺はな……ただの人に惚れて、全部失ったことがある。」
キューピッドは顔を上げ、果てしなく広がる遠くを見つめた。
「……あ、悪い……」
急に空気が重くなり、佐伯は思わず謝る。
だがキューピッドは首を横に振った。
「お前には関係ない……いや、まあいい。いずれ話す機会があればな。」
そう言って、彼は背を向けて歩き出す。
「今は何言っても意味ねぇ。とにかく、さっさとここを抜ける方法を考えるぞ。行くぞ、佐伯。」
「おう……って、今名前呼んだよな?気のせいか?」
「さあな。」
キューピッドはポケットに手を突っ込んだまま前を歩いていく。
佐伯は少しだけ安心したように笑い、小走りでその背中を追いかけた。
ご覧いただきありがとうございました。楽しんでいただけたら嬉しいです。
こういうロードムービー風の物語を書くのは、たぶん今回が初めてで、やっぱりまだまだ改善できるところが多いなと感じています。
ともあれ、物語はいよいよ後半に入っていく予定です。
これからどんな冒険が待っているのか?二人の過去には一体何があったのか?そしてローマのコーヒーは本当に美味しいのか?(わからない、自分も行ったことないので笑)
ぜひ次の一話もお楽しみに。
それでは、Noah Novaでした。良い一日をお過ごしください。
そして皆さん、ゴールデンウィークも楽しんでください!




