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第八十七話「宿と、マルティナさんの飯」

 宿に着いた。


 扉を開けた。


 マルティナさんが食堂から出てきた。


 全員を見た。


「帰ったか」


「ただいま戻りました」


 マルティナさんが全員を見回した。


 一人ずつ確認するように。


 怪我はないか。

 消耗していないか。


 マユミ。

 リア。

 コリン。


 アーヴィンさんで、少し止まった。


 何も言わなかった。


 でも、目が少し違った。


 何かを見た顔だった。


 次に、俺を見た。


 俺も何も言わなかった。


 マルティナさんが頷いた。


「食え」


 それだけだった。



 食堂に入った。


 飯が並んでいた。


 いつもより少し豪華だった。


 肉があった。

 野菜の煮込みがあった。

 パンが多かった。


「すごいですね」


 コリンが言った。


「文句あるか」


「ありません。嬉しいです」


「食え」


 全員が座った。


 食べ始めた。


 うまかった。


 三泊四日の遠征の後の飯とは違った。


 今日は、一日しか出ていない。


 でも、体の疲れより、何かが抜けた感じがした。


 長い時間をかけて積み上がっていたものが、今日少し降りた。


 そのせいかもしれなかった。



 マユミが肉を食べながら言った。


「うまい」


「そうですね」


「マルティナさん、今日は気合が入ってるな」


「文句あるか」


「ない。最高だ」


 マルティナさんが鼻を鳴らした。


 コリンが野菜の煮込みをおかわりした。


「おかわりしていいですか」


「好きなだけ食え」


「ありがとうございます」


 リアが静かに食べていた。


 いつもより少し多く食べていた。


 コリンの横だった。


 自然にそうなっていた。


 アーヴィンさんが黙って食べていた。


 いつもと同じだった。


 でも、何かが違った。


 箸の動きが、少し違った。


 急いでいなかった。


 ゆっくり食べていた。


 味わっているような食べ方だった。


 俺はその色を確認した。


 深い青。


 落ち着いていた。


 ぼやけがほとんどなかった。


 今夜は、この色のまま眠れそうだった。



 食事が落ち着いてきた頃。


 マルティナさんが厨房から出てきた。


 アーヴィンさんの前に、小さな杯を置いた。


「飲め」


 酒だった。


 アーヴィンさんが少し止まった。


「俺だけか」


「今日は、お前だけだ」


 アーヴィンさんが杯を見た。


「なぜわかる」


「顔でわかる」


 マルティナさんが短く言った。


「何があったかは聞かない。でも、今日は飲め」


 アーヴィンさんが少し間を置いた。


「……ありがとう」


「礼はいらない。飲め」


 アーヴィンさんが杯を持った。


 飲んだ。


 何も言わなかった。


 マルティナさんが厨房に戻った。


 全員が静かになった。


 でも、重い静けさではなかった。


 温かい静けさだった。


 マユミが小声で俺に言った。


「マルティナさん、やっぱり全部わかってるな」


「そうですね」


「すごい人だ」


「そうですね」


「伊達に長くやっていない」


「俺が言った言葉ですよ」


「いい言葉だから使った」


 俺は少し笑った。



 食事が終わった。


 全員が部屋に戻り始めた。


 アーヴィンさんが立った。


 マルティナさんが厨房から出てきた。


 アーヴィンさんがマルティナさんを見た。


「うまかった」


 珍しかった。


 アーヴィンさんが飯の感想を言うのを、俺は初めて聞いた。


 マルティナさんが少し目を細めた。


「そうか」


「ありがとう」


「礼はいらない。明日も食え」


「ああ」


 アーヴィンさんが部屋へ向かった。


 マルティナさんが見送った。


 俺も立った。


「マルティナさん」


「なんだ」


「今日のこと、ありがとうございます」


「何の話だ」


「酒のことです」


「知らん」


 マルティナさんが厨房に戻った。


 俺は少し笑った。


 そういう人だった。


 全部わかっていて、全部やって、何も言わない。


 現場で言えば、一番頼りになる職人だった。



 部屋に戻った。


 羅針盤を取り出した。


 針を見た。


 静かだった。


 北東を向いていなかった。


 南西も向いていなかった。


 どこかを指していたわけではなかった。


 ただ、静かに揺れていた。


 落ち着いている針だった。


 俺はしばらく針を見ていた。


 今日、大きな段取りが一つ、完了した。


 鞘が戻った。

 アーヴィンさんの色が変わった。

 《沈黙の長剣》が完全になった。


 次の段取りが、いくつかある。


 ガデルへの《緋晶鋼》の相談。

 アーヴィンさんのBランク昇格。

 ミルヴァのパーティ加入。


 全部、見えていた。


 急がない。


 でも、止まらない。


 羅針盤を仕舞った。


 目を閉じた。


 今夜は、よく眠れそうだった。



第八十七話「宿と、マルティナさんの飯」 了


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