第七十六話「朝と、動き始めたもの」
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めた。
羅針盤を確認した。
針は落ち着いていた。
廊下に出た。
宿の朝は静かだった。
階段へ向かった。
コリンの部屋の前を通った。
扉が開いた。
リアが出てきた。
俺と目が合った。
一瞬だった。
リアが少し固まった。
澄んだ青の色が、一瞬だけ鮮やかに揺れた。
「……おはようございます」
「おはようございます」
それだけだった。
俺は歩き続けた。
振り返らなかった。
何も言わなかった。
段取りには、関係なかった。
食堂に下りた。
マルティナさんがいた。
俺を見た。
何も言わなかった。
パンとスープを出した。
「食え」
「ありがとうございます」
座って食べた。
しばらくして、リアが下りてきた。
いつもと変わらない顔だった。
俺の向かいに座った。
マルティナさんが飯を出した。
「食え」
「……はい」
リアが食べ始めた。
少し間があった。
「見ましたか」
リアが静かに言った。
「何をですか」
「廊下で」
「廊下を歩いていたら、リアさんが出てきました。それだけです」
間があった。
「……そうですか」
「そうです」
リアが少し前を向いた。
「誰かに言いますか」
「言いません。俺が見たことは、俺が見たことです」
リアが少し黙った。
青の色が、静かに落ち着いていった。
「……わかりました」
「コリンさんは元気そうですか」
「……はい」
「それならいいです」
リアがスープを飲んだ。
俺もパンを食べた。
しばらく、二人で静かに食べた。
マルティナさんが厨房から声をかけた。
「おかわりあるぞ」
「いただきます」
リアが少し目を細めた。
それだけだった。
コリンが下りてきた。
俺を見た。
少し、目が止まった。
俺は何も言わなかった。
コリンが座った。
マルティナさんが飯を出した。
「食え」
「ありがとうございます」
コリンが食べ始めた。
少し間があった。
「ヒコさん」
「なんですか」
「今朝、廊下で」
「コリンさん」
「はい」
「飯を食べてください」
コリンが少し止まった。
「……わかりました」
食べた。
俺も食べた。
マルティナさんが厨房から出てきた。
三人を見た。
何も言わなかった。
戻った。
全部わかっている顔だった。
マユミが下りてきた。
全員の顔を見た。
「なんか静かだな」
「朝ですから」
「そうか」
マユミが座った。
飯を食べながら、リアを見た。
「リア、顔色いいな」
「……そうですか」
「なんかあったか」
「ありません」
「そうか」
マユミがパンをちぎった。
それ以上は聞かなかった。
マユミは、聞かない方がいいことを知っている。
俺はそう思っていた。
アーヴィンさんが最後に下りてきた。
全員が揃った。
マルティナさんが出てきた。
全員を見た。
「今日も行くんだろ」
「はい」
「食え。しっかり」
「はい」
全員が食べた。
静かな朝だった。
でも、悪くない静けさだった。
ギルドへ向かった。
道中、コリンが俺の横に来た。
小声で言った。
「ヒコさん、昨日のことを」
「コリンさん」
「はい」
「昨日のことは昨日のことです。今日の段取りを考えましょう」
コリンが少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
「礼は不要です」
コリンが少し前を向いた。
落ち着いた緑の色が、穏やかだった。
少し、明るかった。
ギルドに着いた。
掲示板を確認した。
マユミが一枚を指した。
「これ、どうだ」
討伐依頼だった。
対象:オーガ一体。
場所:街の南西の丘。
報酬:銀貨十五枚。
「オーガですか」
「でかいやつだ。でも、一体だ」
「Cランク指定ですね」
「俺たちで十分だろ」
リアが来た。
「索敵で位置を把握できます。一体なら対応可能です」
「アーヴィンさんはどうですか」
アーヴィンさんが票を見た。
「問題ない」
「コリンさん」
「大型の魔物は被弾リスクが高いです。結界を厚めに張ります」
「わかりました。受けましょう」
受付で依頼を受けた。
南西の丘へ向かった。
一時間ほどの道だった。
道中、マユミが少し速く歩いた。
「やっと、こういうのが来た」
「そうですね」
「オーガか。久しぶりだ」
「以前に戦ったことがありますか」
「一回だけ。Dランクのときに、逃げた」
「今日は逃げませんか」
「逃げない」
マユミが短剣を少し持ち直した。
「試してみたい」
「何をですか」
「装備が変わってから、大型を相手にしたことがない。どこまで動けるか」
「無茶はしないでください」
「わかってる。でも、限界を知らないと段取りが組めないだろ」
俺は少し驚いた。
「段取り、という言葉を使いましたね」
「うるさい」
マユミが前を向いた。
オレンジに近い赤の色が、鮮やかだった。
いい色だった。
丘に着いた。
リアが索敵を展開した。
「反応、一体。丘の中腹。動いています」
「大きさは」
「索敵からは判断できません。ただ、地面の振動が大きい。かなりの体格です」
「アーヴィンさんが先行して位置を確認します。全員、指示があるまで動かないでください」
「わかった」
アーヴィンさんが丘を登った。
音がなかった。
しばらくして、戻ってきた。
「三メートルを超えている。岩を持っている」
「遠距離攻撃がありますか」
「投げる可能性がある」
「わかりました」
俺は少し考えた。
「リアさんは遠距離から風魔法で動きを止めてください。マユミさんは足元を狙います。アーヴィンさんは背後から接近。コリンさんは結界を全員に展開。俺は全体を見ます」
「問題はありません」
「わかった」
「行く」
「わかりました」
全員が動いた。
オーガは大きかった。
三メートルを超えていた。
肌が灰色だった。
目が小さかった。
腕が太かった。
岩を持っていた。
リアが先に動いた。
詠唱が速かった。
風の魔法が走った。
オーガの腕に絡んだ。
岩が落ちた。
「今です」
アーヴィンさんが背後から入った。
音がなかった。
オーガが気づいたとき、剣がすでに届いていた。
大きく、よろめいた。
マユミが走った。
低かった。
足元に入った。
速かった。
右足の腱を狙った。
オーガが倒れかけた。
「コリンさん、結界を厚く」
「張っています」
オーガが倒れながら腕を振った。
広範囲だった。
マユミが跳んだ。
ギリギリだった。
「マユミさん」
「問題ない」
着地した。
すぐに動いた。
オーガが立とうとした。
リアが追加で魔法を撃った。
肩を押さえた。
アーヴィンさんが入った。
一撃だった。
静かだった。
終わった。
全員が無傷だった。
コリンが確認した。
「怪我はありませんか」
「ない」
「問題はありません」
「俺も」
「俺もありません」
「よかったです」
マユミが息を吐いた。
「速かった」
「そうですね」
「ギリギリだったけど」
「腕の一撃は、想定より範囲が広かったです」
「見えてたけど、間に合うかどうかわからなかった」
マユミが短剣を見た。
「跳べた。新しい装備だったから跳べた」
「そうですね」
「前の装備だったら、たぶん間に合わなかった」
マユミが少し笑った。
「ガデル、いい仕事するな」
「そうですね」
「今度、礼を言いに行く」
「一緒に行きましょう」
「ああ」
リアが言った。
「今日の戦闘、データが取れました」
「どういうことですか」
「大型魔物に対する索敵精度と魔法の有効範囲を確認できました。次に活かせます」
「合理的ですね」
「そうです」
リアが少し前を向いた。
「……マユミさんの動きが、以前と別人でした」
「そうですか」
「あの速さで足元に入れるとは、想定していませんでした。索敵の想定を修正します」
マユミが少し目を丸くした。
「リアに褒められた」
「褒めていません。事実を言っています」
「一緒だろ」
「違います」
マユミが笑った。
リアが少し顔を逸らした。
青の色が揺れた。
ギルドに戻った。
討伐を報告した。
「オーガの討伐、確認しました。全員無傷ですか」
「はい」
受付が少し目を丸くした。
「オーガを全員無傷で、ですか」
「段取りを組みました」
「……さすがですね」
報酬を受け取った。
銀貨十五枚。
一人あたり銀貨三枚。
今月で一番の報酬だった。
宿に戻った。
夕食の前、マユミが俺に言った。
「やっぱ、こういうのがいいな」
「そうですか」
「張り合いがある」
「限界は確認できましたか」
「まだまだ先がある。それがわかった」
「いい収穫ですね」
「ああ」
マユミが少し俺を見た。
「お前、今日の指示よかったぞ」
「段取りですから」
「うるさい」
マユミが歩き始めた。
俺もついていった。
今日も、段取りは合っていた。
それぞれが、少し先へ進んだ。
見えないところで、確実に。
第七十六話「朝と、動き始めたもの」 了




