第七十話「夜の針と、アーヴィンの背中」
夜中に目が覚めた。
理由はわからなかった。
ただ、目が開いた。
羅針盤が、枕元にあった。
手に取った。
針が動いていた。
北東だった。
昨夜より、少し強かった。
俺は起き上がった。
窓の外を見た。
暗かった。
星が出ていた。
風はなかった。
廊下に、音があった。
静かだった。
でも、聞こえた。
足音だった。
一人分だった。
俺は扉を少し開けた。
廊下の端を、人影が歩いていた。
アーヴィンさんだった。
装備を着ていた。
剣を持っていた。
階段を下りていった。
俺は少し考えた。
追うか。
追わなかった。
でも、羅針盤を持って、窓の前に立った。
針を見た。
アーヴィンさんが宿を出た方向と、針の方向が、一致していた。
北東だった。
朝まで、眠れなかった。
羅針盤を手に持ったまま、椅子に座っていた。
針はしばらく北東を向いていた。
夜明け前に、少し揺れた。
戻ってきた、と思った。
廊下に足音があった。
静かな足音だった。
アーヴィンさんだった。
部屋の扉が閉まる音がした。
俺は羅針盤を仕舞った。
少し横になった。
眠れなかった。
でも、目を閉じた。
朝になった。
食堂に下りた。
アーヴィンさんがいた。
いつもと変わらなかった。
俺を見た。
「おはよう」
「おはようございます」
それだけだった。
色を確認した。
青白かった。
ぼやけていた。
でも、今朝は少し違った。
重さが、薄かった。
何かを、少し置いてきた色だった。
俺は何も言わなかった。
マルティナさんがパンを出した。
「食え」
「はい」
食べた。
全員が揃った。
ギルドへ向かった。
途中、アーヴィンさんが俺の横に来た。
並んで歩いた。
しばらく、何も言わなかった。
アーヴィンさんが口を開いた。
「昨夜、起きていたか」
俺は少し間を置いた。
「少し」
「見たか」
「廊下を歩いているのを、少し」
間があった。
「そうか」
アーヴィンさんが前を向いた。
「詮索しないのか」
「しません」
「なぜだ」
俺は少し考えた。
「言えるときに言えばいいと思っています」
アーヴィンさんが少し止まった。
歩き続けた。
「……俺が言った言葉だな」
「そうです」
間があった。
アーヴィンさんが静かに言った。
「行ってきた」
「はい」
「《霧裂きの穴》の近くだ」
「そうですか」
「入ってはいない。近くまで行っただけだ」
俺は頷いた。
「それだけか」
「はい」
「……なぜ行ったかは、聞かないのか」
「聞きません。でも」
俺は続けた。
「何かあれば、言ってください。段取りは組めます」
アーヴィンさんが少し俺を見た。
青白い色が、わずかに揺れた。
「わかった」
それだけだった。
二人で、歩いた。
ギルドに着いた。
マユミが掲示板の前にいた。
「遅い。何してたんだ」
「話をしていました」
「誰と」
「アーヴィンさんと」
マユミがアーヴィンさんを見た。
アーヴィンさんは何も言わなかった。
マユミが少し俺を見た。
何かを察した顔だった。
何も聞かなかった。
「依頼、決めるぞ」
「そうしましょう」
その日は護衛の依頼を受けた。
ゴルフの指名ではなく、別の商人だった。
行き先は北の村だった。
一日の道だった。
泊まりになった。
「初めての泊まり依頼ですね」
「そうか。野宿か」
「村に宿があるそうです。そちらを使います」
「わかった」
準備をして、出発した。
道中は長かった。
でも、問題はなかった。
リアが定期的に索敵を展開した。
コリンが全員の状態を確認した。
マユミが前を歩いた。
アーヴィンさんが後方を歩いた。
依頼人の商人は、五十代の女性だった。
名前はサラ。
口数が少なかった。
でも、しっかりした目をしていた。
「冒険者を雇うのは久しぶりです」
「何かありましたか」
「以前、信用できない者を雇いました。荷物を一部抜かれた」
「それは申し訳ありませんでした」
「あなたたちではないですが」
「今後はそういうことがないよう動きます」
サラが少し俺を見た。
「若いのに、落ち着いていますね」
「よく言われます」
「商人のような話し方だ」
「以前、少し別の仕事をしていました」
サラが頷いた。
「信用できそうだ」
「ありがとうございます」
夕方、村に着いた。
小さな宿があった。
部屋数は少なかった。
男女で分かれた。
男三人:ヒコ・アーヴィン・コリン。
女二人:マユミ・リア。
夕食を食堂で取った。
村の料理だった。
シンプルだった。
でも、うまかった。
コリンが隣でうまそうに食べていた。
「こういう料理、好きです」
「どういうところがですか」
「素材の味がする。余計なものが入っていない」
「師匠の料理に似ていますか」
コリンが少し考えた。
「師匠は料理が下手でした」
「そうですか」
「でも、味付けは丁寧でした。素材を殺さない、と言っていました」
「似ていますね」
「そうかもしれません」
コリンが少し笑った。
落ち着いた緑の色が、温かかった。
食事が終わった。
各自の部屋に戻った。
俺はアーヴィンさんと同じ部屋だった。
コリンも同室だった。
コリンがすぐに眠った。
疲れていたのかもしれない。
すぐに寝息が聞こえた。
俺とアーヴィンさんは、起きていた。
暗い部屋の中で、しばらく黙っていた。
アーヴィンさんが言った。
「眠れないのか」
「少し」
「昨夜のせいか」
「そうかもしれません」
間があった。
アーヴィンさんが低い声で言った。
「話す」
俺は黙って待った。
「《霧裂きの穴》の近くに、目印がある」
「目印、ですか」
「五年前に、俺が置いた」
俺は何も言わなかった。
「確認しに行った。まだあった」
「そうですか」
「鞘の在処を示すものだ」
俺は少し息を整えた。
やはり、知っていた。
「取りに行かないのですか」
「今は、行けない」
「なぜですか」
長い間があった。
「取りに行くということは、全部を認めることになる」
俺は黙って聞いた。
「パーティが壊滅した。仲間が死んだ。レインが消えた。鞘を外したのは、俺たちの選択だった」
アーヴィンさんの声が、低かった。
「それを認めた上で、取りに行く覚悟が、まだない」
俺は少し考えた。
「覚悟が、ない」
「ああ」
「でも、確認しには行けた」
「……そうだな」
アーヴィンさんが少し黙った。
「お前に見られていると思っていた。羅針盤が反応するだろうと」
「気づいていたんですか」
「スキルのことは知っている。あれが成長していることも、わかる」
俺は少し驚いた。
「それでも行ったんですか」
「行かなければ、ずっと行けない気がした」
静かな声だった。
アーヴィンさんが天井を見た。
「お前は、詮索しないな」
「しません」
「なぜだ」
「言えるときに言えばいいと思っているからです。でも」
俺は続けた。
「今夜、話してくれてよかったです」
間があった。
「……そうか」
アーヴィンさんが目を閉じた。
「段取りは、組めるか」
「組めます。情報が揃えば」
「まだ揃っていないか」
「もう少しです」
アーヴィンさんが静かに言った。
「待てるか」
「待てます。急ぎません」
間があった。
「……そうか」
それだけだった。
アーヴィンさんの色が、少し落ち着いた。
青白い色のぼやけが、少し薄くなった。
話したことで、少し楽になったのかもしれない。
俺も、少し楽になった。
コリンの寝息が聞こえていた。
外で虫が鳴いていた。
暗い部屋だった。
でも、悪くなかった。
目を閉じた。
今夜は、眠れそうだった。
第七十話「夜の針と、アーヴィンの背中」 了




