第六十一話「セリウスさんと、羅針盤の話」
翌朝、皆より少し早く起きた。
食堂でマルティナさんと目が合った。
「早いな」
「少し寄り道があります」
マルティナさんが黙ってパンを出した。
「食ってから行け」
「はい」
食べた。
いつもと同じ味だった。
ギルドへ向かう前に、執務室の扉を叩いた。
「どうぞ」
セリウスさんの声だった。
入った。
セリウスさんが書類から顔を上げた。
「来てくれましたね。座ってください」
座った。
「スキルに変化がありました。報告します」
「聞かせてください」
セリウスさんが書類を脇に置いた。
姿勢が変わった。
聞く態勢だった。
「羅針盤を入手してから、人に色が見えるようになりました。しばらく様子を見ていましたが、色の意味がだいたいわかってきました」
「色、ですか」
「感情や状態を示しているようです。安定しているとき、消耗しているとき、何かを考えているとき。人によって色が違います」
セリウスさんが静かに聞いていた。
「羅針盤との連動だと思います。スキルとの連動での第2段階に移行していると判断しています」
「なるほど」
セリウスさんが少し考えた。
「色は、誰にでも見えますか」
「パーティの全員と、マルティナさん。街の人間も、近くにいれば見えます」
「精度は」
「安定しています。ただ、一人だけぼやけています」
セリウスさんの目が少し動いた。
「アーヴィンさんです」
間があった。
「《沈黙の長剣》の影響だと思っていました。でも昨日、剣に触れていないときも同じ状態でした」
「……そうですか」
セリウスさんが少し目を伏せた。
「羅針盤が、アーヴィンさんの内側に反応していました。帰り道のことです」
「内側、というのは」
「うまく言えません。感情よりも、もう少し深いところです。重さがありました」
セリウスさんが静かに頷いた。
何かを知っている顔だった。
でも、今日は話さないと決めている顔でもあった。
俺も聞かなかった。
聞く時期ではない。
「報告は以上です」
「ありがとうございます」
セリウスさんが少し間を置いた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「アーヴィンさんには、伝えましたか」
「伝えていません」
「なぜですか」
俺は少し考えた。
「時期があります。今は、気づいていることを示すだけで十分だと思いました」
セリウスさんが少し目を細めた。
「現場仕込みですね」
「よく言われます」
セリウスさんが少し笑った。
「引き続き、変化があれば教えてください」
「はい」
立った。
扉に向かった。
「一つだけ」
セリウスさんが言った。
振り返った。
「羅針盤が深いところに反応しているなら、負荷に気をつけてください。見えすぎることで、迷うことがあります」
「わかっています」
「無理をしないでください」
俺は頷いた。
扉を閉めた。
廊下を歩いた。
セリウスさんはアーヴィンさんのことを知っている。
どこまで知っているかはわからない。
でも、何かがある。
五年前のことが、まだ終わっていない。
俺には、今はどうしようもない。
できることをする。
見える範囲で、動く。
それだけだ。
掲示板の前で、マユミが待っていた。
「遅い」
「少し寄り道をしていました」
「セリウスか」
「はい」
「スキルのことか」
「そうです」
マユミが掲示板を見た。
「何か変わったのか」
「少しずつ変わっています」
「ふうん」
マユミが一枚の依頼票を指した。
「これ、どうだ」
護衛依頼だった。
対象:商人一名・荷馬車二台。
行き先:街の南、二時間の村。
日帰り可能。
報酬:銀貨四枚。
「悪くないですね」
「昨日の採取より楽そうだし、報酬も近い」
「荷馬車があると移動が遅くなります。でも日帰りできる距離なら問題ありません」
「受けるか」
「皆さんに確認してから」
コリンが入ってきた。
「おはようございます。今日の依頼はもう決まりそうですか」
「護衛を検討しています」
コリンが票を覗いた。
「日帰りですね。問題ないと思います」
リアが入ってきた。
掲示板を一瞥した。
「護衛ですか」
「候補です」
「荷馬車の速度が制約になりますが、許容範囲です。日帰りなら合理的な選択だと思います」
「そうですね」
アーヴィンさんが最後に入ってきた。
全員の顔を見た。
「決まったか」
「今日は護衛にします。荷馬車の護衛で、南の村まで日帰りです」
アーヴィンさんが頷いた。
「問題ない」
受付で依頼を受けた。
依頼人の商人は、四十代の男だった。
名前はゴルフ。
がっしりした体格で、目が細かった。
「五人か。多いな」
「荷馬車が二台あります。問題ありますか」
「問題はない。むしろ安心だ」
ゴルフが荷馬車を見た。
「積み荷は布と陶器だ。壊れ物がある。道中、揺らしすぎないでくれ」
「了解です。ペースはゴルフさんに合わせます」
「助かる」
出発した。
道は整備されていた。
荷馬車の速度は遅かった。
でも、天気がよかった。
悪くない道中だった。
マユミとコリンが馬車の横を歩いた。
リアが少し前に出て周囲を確認していた。
アーヴィンさんが後方を歩いた。
俺はゴルフの横を歩いた。
「何度もこの道を使っているんですか」
「月に二度ほどな。この村は布の注文が多い」
「馴染みの村ですね」
「まあな。顔を知っている村人が多い」
ゴルフが手綱を緩めた。
「冒険者に護衛を頼むのはいつも緊張する」
「なぜですか」
「当たり外れがあるんだ。強くても、話が通じない者がいる」
「そうですか」
「お前たちは話が通じそうだ」
「段取りを大事にしているので」
ゴルフが少し笑った。
「商人みたいなことを言う冒険者だな」
「以前、商人ギルドで少し働いていました」
「どうりでな」
俺は前を向いた。
リアが歩いていた。
澄んだ青の色。
今日は安定していた。
索敵しながら歩いている。
歩調が少し速い。
本人は意識していないだろう。
効率的に動こうとすると、自然とそうなる。
コリンがマユミに何か話しかけていた。
マユミが少し笑った。
後方のアーヴィンさん。
青白い色。
今日は昨日よりわずかに薄かった。
良くなっている、とは言い切れない。
でも、悪化はしていない。
俺は前を向いた。
空が広かった。
村に着いた。
小さな村だった。
家が十数軒。
広場に井戸があった。
村人が出てきた。
ゴルフを見て、顔をほころばせた。
「来たか、来たか」
「待たせたな。布は全部持ってきた」
「助かる。今月は祭りがあってな」
荷下ろしが始まった。
俺たちは荷馬車の周囲で待機した。
マユミが村を見回した。
「のどかだな」
「こういう村が一番大事です。食料と布の流通を支えている」
「詳しいな」
「商人ギルドで少し学びました」
コリンが横に来た。
「村の人、元気そうですね。怪我人もいなさそうです」
「確認したんですか」
「習慣です」
リアが戻ってきた。
「村の外周を確認しました。魔物の痕跡はありません。問題はありません」
「ありがとうございます」
「頼まれていませんでしたが、合理的な行動だと判断しました」
「助かります」
リアが少し目を逸らした。
青の色が、わずかに揺れた。
荷下ろしが終わった。
ゴルフが俺を呼んだ。
「助かった。帰りも頼む」
「はい。準備ができたら出発しましょう」
「少し待ってくれ。村長が礼をしたいと言っている」
「お気遣いなく」
「まあそう言うな」
村長が出てきた。
七十代の小柄な老人だった。
「遠いところ、ありがとうございます」
「仕事ですので」
「若いのに、落ち着いていますね」
「現場仕込みなので」
村長が少し笑った。
「ゴルフさんがいつも世話になっている。あなたたちのような冒険者が増えると、村も助かります」
「ありがとうございます」
村長が懐から小さな袋を出した。
「大したものではありませんが」
「受け取れません」
「遠慮しないでください。子どもたちが喜ぶと思って用意したものです。若い方々に」
袋を受け取った。
中を見た。
干した果物だった。
「ありがとうございます」
「気をつけて帰ってください」
村長が頭を下げた。
俺も頭を下げた。
帰り道。
荷馬車は軽くなっていた。
行きより少し速かった。
コリンが隣を歩いた。
「果物、もらいましたね」
「村長から。皆さんで食べましょう」
「嬉しいですね」
コリンが少し笑った。
「こういう依頼、好きです」
「なぜですか」
「誰かの役に立っているのが、直接わかるので」
俺は少し考えた。
「現場の醍醐味ですね」
「そうかもしれません」
アーヴィンさんが後方を歩いていた。
俺は振り返らずに確認した。
青白い色。
今日は、朝より少し落ち着いていた。
村の空気が良かったのかもしれない。
あるいは、依頼を淡々とこなすことで、何かが整ったのかもしれない。
わからない。
でも、悪くない色だった。
街に戻った。
ゴルフが俺に報酬を渡した。
「また頼む」
「はい。声をかけてください」
「頼りになる。次も指名していいか」
「ギルドを通してもらえれば」
「わかった」
ゴルフが馬車を引いて去った。
マユミが俺の横に来た。
「指名、もらったな」
「ありがたいことです」
「常連ができると楽だよな」
「信頼関係があると、仕事がしやすくなります」
「商人ギルドでも同じだったか」
「同じです。どこでも変わりません」
マユミが少し笑った。
俺も笑った。
今日の依頼も、終わった。
段取り通りだった。
それで十分だ。
第六十一話「セリウスさんと、羅針盤の話」 了




