第五十三話「羅針盤と、見え始めるもの」
宿に戻った。
マルティナさんが夕食を出してくれた。
五人で食べた。
コンパスを机の端に置いていた。
針がゆっくり動いていた。
マユミが見た。
「それ、まだ動いてるのか」
「そうですね」
「気持ち悪くないか」
「慣れました」
「早いな」
コリンが少し考えた。
「今夜、羅針盤を持ったまま眠ってみてください」
「なぜですか」
「スキルと道具が馴染むには、時間が必要だと師匠が言っていました。持ち主の近くに置くより、触れている方が早い」
「わかりました」
アーヴィンさんが黙って食べていた。
リアが口を開いた。
「守護の魔石、五人分足りていません」
「そうです」
「どうしますか」
「明日、市場かセリウスさんに確認します。追加で二つ手に入れば全員分になります」
「優先度は高いです」
「同意します」
コリンが少しうなずいた。
それだけで、話が決まった。
夜。
部屋に戻った。
羅針盤を手に持ったまま、ベッドに横になった。
針が、俺の方を向いていた。
天井を見た。
三層のことを考えた。
霧の中の戦闘。
ミストシェイドの動き。
コリンの結界とスキルが重なった感覚。
まだ四層と五層がある。
深く、なる。
目を閉じた。
翌朝。
目が覚めたとき、何かが違った。
最初は、わからなかった。
いつもと同じ天井だった。
いつもと同じ窓だった。
外から街の音が聞こえた。
起き上がった。
窓の外を見た。
街が動いていた。
人が歩いていた。
荷車が通った。
いつもと同じだった。
でも、違った。
人の輪郭が、少し、はっきりしていた。
いつもは、性別と体の状態がぼんやりわかる程度だった。
感情の機微が少し見えていた。
今は、違った。
輪郭の周りに、薄い色がついていた。
赤みがかった人間がいた。
青みがかった人間がいた。
黄色に近い人間もいた。
何を意味するのか、まだわからなかった。
でも、見えた。
俺は羅針盤を見た。
針が、静かに動いていた。
食堂に下りた。
マルティナさんがいた。
俺を見た。
薄い、暖かい色だった。
落ち着いた色だった。
いつも通りのマルティナさんが、そのまま色になっているようだった。
「どうした。顔が変だぞ」
「少し、スキルが変わったかもしれません」
「そうか」
「はい」
「飯を食え」
マルティナさんが皿を置いた。
「食いながら考えろ」
「はい」
座った。
食べながら考えた。
色の意味。
赤は感情が高ぶっているのか。
青は落ち着いているのか。
黄色は何だ。
まだわからなかった。
でも、見えている。
それは確かだった。
四人が下りてきた。
マユミが俺を見た。
「顔色が変だぞ」
「マルティナさんにも言われました」
「何かあったか」
「スキルが変わったかもしれません」
マユミが少し目を細めた。
「どう変わった」
「人に色が見えるようになりました。何を意味するかはまだわかりません」
マユミが少し間を置いた。
「俺は何色だ」
「少し、オレンジに近い赤です」
「それは何だ」
「わかりません。でも、悪い色じゃないと思います」
「なんで」
「マルティナさんは暖かい色でした」
マユミが少し黙った。
「……まあ、いいか」
リアが腕を組んだ。
「興味深いです。色の分類ができれば、索敵以上の情報になる」
「そうなるかもしれません」
「急いで分類してください」
「少し時間をください」
「効率が悪い」
「リアさん」
「わかりました。待ちます」
コリンが静かに聞いていた。
「セリウスさんに報告した方がいいですね」
「そうします。約束していました」
「今日行きますか」
「午前中に行きます。守護の魔石の件も合わせて確認します」
「一石二鳥ですね」
「そうです」
アーヴィンさんが俺を見た。
少し間があった。
「無理するな」
短く言った。
「はい」
「スキルが変わると、頭が追いつかないことがある」
「経験がありますか」
「ない。だが、想像はできる」
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
アーヴィンさんが黙って食べ始めた。
午前中、冒険者ギルドへ向かった。
一人で行くつもりだったが、マユミがついてきた。
「俺も行く」
「市場で魔石を探してもらえると助かりますが」
「セリウスさんのところ、先に行くぞ」
断れなかった。
二人で歩いた。
街を歩きながら、色を見た。
赤い人間が多かった。
元気のいい色だった。
青い人間は少なかった。
疲れているのか、落ち着いているのか。
黄色い人間が一人いた。
荷物を持った商人だった。
何か焦っているのか。
「どうした。きょろきょろして」
「色を見ていました」
「街の人間が全員色づいて見えるのか」
「ぼんやりとですが」
「それは、落ち着かないな」
「少し疲れます」
マユミが少し俺を見た。
「目を閉じることはできないのか」
「できますが、開けると見えます」
「慣れるまで、あまり見すぎるな」
「そうします」
俺は少し視線を足元に落とした。
マユミが少し頷いた。
それだけだった。
でも、助かった。
セリウスさんの部屋に通してもらった。
「来てくれましたね」
「報告があります。スキルに変化がありました」
セリウスさんが少し前に出た。
「座ってください。話を聞かせてください」
話した。
羅針盤を持ったまま眠ったこと。
翌朝、人に色が見えるようになったこと。
色の意味はまだわからないこと。
セリウスさんは黙って聞いた。
話し終えると、少し間があった。
「羅針盤を見せてもらえますか」
渡した。
セリウスさんが手に取った。
針が、セリウスさんの方を向かなかった。
「やはり、あなた専用ですね」
「はい」
「色の変化ですが」
セリウスさんが少し考えた。
「おそらく、感情や状態が色として見えるようになったのだと思います。第四段階に近い変化です」
「第四段階はステータス数値が見えると聞いていましたが」
「その手前の段階かもしれません。羅針盤が橋渡しをしている」
俺は少し間を置いた。
「色の意味を解読できれば、使えますか」
「十分すぎるほど使えます」
セリウスさんが羅針盤を俺に返した。
「引き続き、変化があれば教えてください」
「はい。それから、もう一つ」
「なんですか」
「守護の魔石が三つしかなく、五人分足りていません。追加で二つ手に入れられますか」
セリウスさんが少し考えた。
「市場では手に入りにくいです。ギルドの備品から融通できます。非公式ですが」
「助かります」
「少し待ってください」
セリウスさんが席を外した。
マユミが俺を見た。
「色、今俺は何色だ」
「さっきと同じです。オレンジに近い赤」
「ずっとその色か」
「今は少し明るくなりました」
「なんで」
「わかりません。でも、悪くない変化だと思います」
マユミが少し鼻を鳴らした。
「まあ、いいか」
セリウスさんが戻ってきた。
小石を二つ、持っていた。
「《守護の魔石》です。これで五人分になります」
「ありがとうございます」
「お代はいりません。あなたたちへの投資です」
俺は少し笑った。
「ありがとうございます」
ギルドを出た。
二つの魔石を手に持った。
マユミが隣を歩いた。
「セリウスさん、いい人だな」
「そうですね」
「なんか、ちゃんと見てくれてる感じがする」
「そうだと思います」
マユミが少し空を見た。
「お前のスキル、また変わったな」
「変わり続けています」
「最終的に何が見えるようになるんだ」
「まだわかりません」
「でも、見えるたびにここにいるんだろ」
「そのつもりです」
マユミが少し笑った。
「なら、いい」
街が動いていた。
色とりどりの人間が、それぞれの方向へ歩いていた。
俺には色が見えていた。
まだ意味はわからない。
でも、一つずつ、解読していく。
現場で図面を読むのと同じだ。
記号の意味を覚えれば、全体が見えてくる。
それだけでいい。
第五十三話「羅針盤と、見え始めるもの」 了




