第四十一話「写しの朝と、動き出す段取り」
翌朝。
夜明け前から起きていた。
窓の外はまだ暗かった。
星が出ていた。
街の音が、何もなかった。
机に向かった。
記録帳を開いた。
三ヶ月分の在庫記録。
日付、品目、数量、入出の別、担当の印。
全部、自分で書いたものだ。
ペンを取った。
写しを作る。
三部。
ドガンさん用。セリウスさん用。手元用。
丁寧に、一字ずつ。
急がない。
崩れた字では証拠にならない。
段取り八分。最初が一番大事だ。
灯りが小さかった。
書いていると、目が痛くなった。
それでも書いた。
夜が、少しずつ、白んでいった。
扉を叩く音がした。
三回、静かに。
「はい」と答えると、扉が開いた。
アーヴィンさんだった。
いつもより早い。
俺を見た。
机の上を見た。
記録帳と、並んだ紙を見た。
「写しか」
「そうです」
アーヴィンさんが部屋に入ってきた。
椅子を引いた。
向かいに座った。
「手伝う」
少し驚いた。
「字は書けますか」
「書ける」
「ありがとうございます」
記録帳を真ん中に置いた。
どこからどこまでを写すか、簡単に説明した。
不一致の箇所には印をつけると伝えた。
アーヴィンさんは黙って聞いた。
うなずいた。
ペンを取った。
二人で、並んで書いた。
朝の静かな時間だった。
アーヴィンさんの字は整っていた。
武骨だが、読みやすい。
一字一字、押しつけるように書く。
ゆっくり、確実に。
似ているな、と思った。
仕事の仕方が。
途中で、一度だけ話が出た。
「レインの字は下手だった」
顔を上げずに言った。
「そうですか」
「読み返すたびに解読した。面倒だった」
口元が、少し動いた。
俺も顔を上げなかった。
「でも、たくさん書く人でしたか」
「よく書いた。メモ魔だった。見えたものを全部残しておきたかったんだろう」
「そうですか」
ペンを動かし続けた。
アーヴィンさんも続けた。
それだけだった。
それで十分だった。
三部、書き終わった。
日付を確認した。
数字を見直した。
不一致の箇所に、端で印をつけた。先月一回、二ヶ月前一回、三ヶ月前二回。全部夜間、同じ三棟。
ずれはなかった。
「助かりました」
「ああ」
アーヴィンさんが立った。
背を伸ばした。それだけだった。
食堂に下りると、マルティナさんがいた。
朝の仕込みをしていた。
俺たちを見た。
何も言わなかった。
パンとスープを二人分、置いた。
「食え」
「ありがとうございます」
二人で食った。
マルティナさんは何も聞かなかった。
いつもそうだ。
余計なことを言わない。
でも、全部わかっている。
そういう人だ。
マユミが下りてきたのは、それから少しして。
俺とアーヴィンさんを交互に見た。
「なんで二人してこんな朝早いんだ」
「仕事がありました」
「アーヴィンも?」
「手伝った」
マユミが首を傾けた。
深く聞かなかった。
椅子に座って、スープを取った。
「まあいいや」
こういうところが、マユミらしかった。
リアが下りてきたのは一番最後だった。
四人分のテーブル。
全員揃った。
「朝からよく食べますね、ヒコさん」
「頭を使いました」
「効率が悪い。使う前に食べるべきです」
「そうですね。次からそうします」
リアが少し何か言いたそうな顔をした。
でも、何も言わなかった。
マルティナさんがお代わりを出してくれた。
午前中に動くことにした。
ドガンさんのところへ。
それからセリウスさんのところへ。
段取りはある。
ドガンさんには在庫記録の話をする。
証拠として、権限移行前の記録がここにある。それだけでいい。
セリウスさんには、ドガンさんに渡したことを伝える。
両方に持っておいてもらう。
どちらかが動けなくなったとき、もう一方が残る。
現場の危機管理と同じだ。
アーヴィンさんが一緒に来ると言った。
「俺も行く」
「商人ギルドですよ」
「わかってる」
マユミも来ると言った。
「あたしも行く」
「記録の提出だけですよ」
「だから行く」
リアは少し間を置いた。
「……効率が悪い移動ですが、まあいいです」
四人で行くことになった。
俺は少し笑った。
段取りは一人で組んだ。
でも、動くのは四人だ。
現場が一番偉い。
そして、現場は人間で動く。
商人ギルドの執務室。
ドアを叩いた。
「来たか。座れ」
いつも通りだった。
三人は廊下で待ってもらった。
俺一人で入った。
記録帳の写しを机に置いた。
「三ヶ月分です。日付と品目と数量、全部入っています。不一致の箇所は端に印をつけました」
ドガンさんが受け取った。
めくった。
黙って読んだ。
俺は待った。
「四箇所か」
「はい。夜間のみです。搬入があったとされる日と重なっています」
「印の意味は」
「不一致が大きい日です。同じ三棟。同じ時間帯」
ドガンさんがまた黙った。
ページをめくる音だけがした。
「写しだな」
「はい。もう一部、冒険者ギルドのセリウスさんに渡します。手元にも一部あります」
ドガンさんが顔を上げた。
「なぜセリウスに」
「ベルガンさんが動いたとき、どちらかが止められる可能性があります。両方に持っておいてもらった方が安全です」
少し間があった。
「段取り、か」
「現場仕込みなので」
ドガンさんが写しを閉じた。
引き出しに入れた。
鍵をかけた。
「ヒコ」
「はい」
「日常を変えるな」
「変えません」
「記録も続けろ」
「続けます」
「わかった」
それだけだった。
立ち上がった。
「一つだけ確認させてください」
「なんだ」
「記録の件、ドガンさんとセリウスさん以外には話さない方がいいですか」
ドガンさんが俺を見た。
「しばらくはそうしろ。こっちで動きを見る」
「わかりました」
扉を出た。
廊下でアーヴィンさんが壁に背をつけて立っていた。
マユミが隣でそわそわしていた。
リアは少し離れたところで腕を組んでいた。
「終わりました」
「問題なかったか」
「はい」
マユミが俺を見た。
「ドガンさん、何か言ってたか」
「日常を変えるな、と」
「……そっか」
マユミが少し黙った。
それ以上は言わなかった。
冒険者ギルドへ向かった。
四人で並んで歩いた。
街は動いていた。
荷車が通った。
市場の声が聞こえた。
いつも通りの朝だった。
アーヴィンさんが少し先を歩いていた。
俺はその背中を見た。
昨夜のことを思い出した。
「ランクアップの件、考える」
その言葉が、今朝の写しの手伝いに繋がっているかどうかは、わからない。
でも、アーヴィンさんは来た。
それだけでいい。
現場では、動いた人間が正しい。
理由は後からついてくる。
セリウスさんは、すぐに通してくれた。
応接室に四人で入った。
「来てくれましたね」
いつもの穏やかな声だった。
写しを渡した。
「昨夜からの記録です。ドガンさんにも一部渡しました」
セリウスさんが受け取った。
静かに開いた。
読む速度が速かった。
ひとしきり読んで、顔を上げた。
「ご苦労様でした」
「写し作成はアーヴィンさんが手伝ってくれました」
セリウスさんがアーヴィンさんを見た。
アーヴィンさんが少し目を動かした。
「そうですか」
セリウスさんが少し間を置いた。
「よかった」
短く言った。
アーヴィンさんへの言葉なのか、全部への言葉なのかはわからなかった。
「この記録は、こちらで保管します。もし状況が変わったときは、また連絡します」
「わかりました」
「それから」
「はい」
「今のところ、スキルに変化はありますか」
「今のところはないです」
「何かあれば、すぐ来てください」
「はい」
セリウスさんがマユミを見た。
「マユミさん、護衛をよろしくお願いします」
マユミが少し背筋を伸ばした。
「まかせといて」
セリウスさんがリアを見た。
「リアさん、索敵の二段構え、引き続きお願いします」
「効率的な配置だと思っています」
セリウスさんが少し笑った。
「心強いですね」
帰り道。
四人で並んで歩いた。
来たときと同じ道だった。
でも、少し軽かった。
記録は二か所に渡った。
段取りが、一つ進んだ。
マユミが俺の隣に来た。
「なあ」
「なんですか」
「全部、うまくいきそうか」
俺は少し考えた。
「わかりません」
「正直だな」
「でも、やることはやりました」
「そっか」
マユミが前を向いた。
「なら、いいか」
アーヴィンさんが先を歩いていた。
リアがその隣を、少し距離を置いて歩いていた。
四人分の足音が、石畳を鳴らした。
空が青かった。
風が少しあった。
いい現場日和だ、と思った。
こっちの世界でも、仕事は段取りで動く。
一つずつ、積み上げていく。
それだけでいい。
第四十一話「写しの朝と、動き出す段取り」 了




