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 第262話 売らなかったもの

 誘惑に応じなかったことも、応じたことと同じくらい、意味を持つ。


 応じなかった選択は、誰も、見ていない場所で、一人で、決まる。


 ――誰も見ていない場所で、何を選ぶか。それが、その人間の、本当の輪郭になる。

 長影月、中旬。


 ミルヴァが、ヒコを、執務室に、呼んだ。


「報告がある」


 ミルヴァが、言った。


「あの男が、自分から、私のところに、来た」


「声をかけられた、新規移民の男ですか」


「ああ」


 ミルヴァが、答えた。


「断った。その報告に来た」


──────────────────────────────────────


「断った、というのは」


 ヒコが、確認した。


「金貨五十枚の話を、断った」


 ミルヴァが、続けた。


「理由は、一つだった」


「何ですか」


「ここで、生活したい。それだけだ」


 ミルヴァが、淡々と、言った。


 ヒコは、その言葉を、静かに、受け取った。


 金でも、脅しでもなかった。


「ここで、生きたい」


 その一言が、金貨五十枚を、上回った。


──────────────────────────────────────


「どう、処理しましたか」


 ヒコが、聞いた。


「相手の手口を、記録した」


 ミルヴァが、答えた。


「誰が、どのように、接触してきたか。何を、求めてきたか。全部、記録した」


「その男への、対応は」


「変えない」


 ミルヴァが、即答した。


「断ったことを、責めない。疑いもしない。ただ、記録した、それだけだ」


「なぜ、疑わないんですか」


「自分から、来た」


 ミルヴァが、短く言った。


「逃げるより、来る方が、ずっと、勇気がいる」


──────────────────────────────────────


 翌日、ガデルが、ヒコを、工房に、呼んだ。


「お前に、話しておくことがある」


 ガデルが、言った。


「うちの弟子に、声がかかった」


「穀物運びの、男ですか」


「ああ」


 ガデルが、頷いた。


「別の領地に、来ないか、という話だ。給金は、今の倍を出すと、言ってきたらしい」


「それで」


「断った」


 ガデルが、短く言った。


「理由は、聞きましたか」


「聞いた」


 ガデルが、工具を、磨きながら、言った。


「ここで、覚えたことは、一生、なくならない財産だからだ、と言っていた」


 ヒコは、その言葉を、静かに、噛みしめた。


──────────────────────────────────────


 夕方、評議会に、この二つの件が、共有された。


「ヴァルク男爵の手が、また、退けられました」


 ヒコが、言った。


「二件、続けて」


「人を、金で動かせると、思っていたんだろうな」


 ドガンが、言った。


「ただし、金で来た者も、金より大切なものを、見つけていた」


「……この領地は、人で支えられている」


 ヒコが、静かに、言った。


「それが、また確認できました」


 評議会の面々が、それぞれ、小さく、頷いた。


──────────────────────────────────────


「ただし」


 ミルヴァが、口を開いた。


「次は、もっと、巧妙に来るかもしれない」


「金では動かない、と分かれば」


 ヒコが、続けた。


「別の方法を、探す」


「そうだ」


 ミルヴァが、頷いた。


「ただし、今回は、大事なことが、分かった」


「何ですか」


「この領地の人間は、隠さずに、自分から、声を上げる」


 ミルヴァが、淡々と、言った。


「それが、一番の、防衛だ」


──────────────────────────────────────


 夜、ヒコは一人、施設の前に立った。


 《可視化》で、領地全体を確認した。


 星形要塞、外堀、稜堡。


 全部の色が、落ち着いていた。


 ヴァルクという、太く絡みつく筋が、また、わずかに、動きを止めていた。


 人の中に入ろうとした影が、退けられた。


 ただし、影は、消えてはいなかった。


──────────────────────────────────────


 その夜、ヒコは記録をつけた。


 新規移民の男、自らミルヴァへ報告。買収の誘いを断った。対応:手口を記録、本人への信頼は変えない。


 ガデルの弟子、引き抜きの誘いを断る。理由:「ここで、覚えたことが、財産」。


 ヒコ「この領地は、人で支えられている。それが、また確認できました」。


 ペンを置いた。


 売らなかったものが、あった。


 それは、金貨五十枚より、ずっと、重いものだった。


 信用は、そうやって、少しずつ、積み上がっていく。



 第262話 売らなかったもの 了

【次回予告】評議会が、結束を固めた。


──────────────────────────────────────


【領地収支・第262話時点】


・所持金:金貨1975枚(変動なし)


【発展進捗・第262話時点】


・防衛:122%(変動なし)

・食料:101%(変動なし)

・水 :100%(変動なし)

・住居:85%(変動なし)

・インフラ:103%(変動なし)

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