第三十三話「帰還と、マルティナの飯」
アーゼルタウンの門が見えてきたのは、昼を少し過ぎたころだった。
二日ぶりだった。
たった二日なのに、街の輪郭が少しだけ懐かしく見えた。
マユミが言った。
「帰ってきた」
「そうですね」
「二日でこんなに懐かしいのか」
「外で寝ると、そうなりますよ」
「現場仕込みか」
「そうです」
アーヴィンは何も言わなかった。
でも、門を見る目が、少し柔らかかった。
スキルで確認した。
消耗、少し。
肩のせいだった。
それ以外は問題なかった。
門をくぐった。
街の匂いがした。
料理の匂いと、馬の匂いと、石畳の匂いが混ざっていた。
それが、アーゼルタウンの匂いだった。
「ドガンさんへの報告は明日にします。今日は休んでください」
「素材はどうする」
アーヴィンが聞いた。
「一緒に持っていきます。価値があるかどうかも含めて、ドガンさんに聞いてみます」
「わかった」
「肩、今夜もう一度薬草を当て直した方がいいと思います。マルティナさんに相談してみます」
「……そこまでしなくていい」
「しますよ」
アーヴィンが少し黙った。
「お前は、人に頼るのが得意だな」
「下手に自分でやるより、詳しい人に聞いた方が早いので」
「そういうものか」
「現場では一番大事なことです」
星の宿の扉を開けた。
マルティナさんがカウンターにいた。
俺たちを見た。
アーヴィンの肩を見た。
何も言わなかった。
「おかえり」
それだけ言った。
「ただいまです」
マユミが言った。
「ただいま戻りました」
俺も言った。
アーヴィンが少し間を置いた。
「……戻った」
マルティナさんが頷いた。
「飯は夕方だ。それまで休んでいろ」
俺が口を開いた。
「マルティナさん、アーヴィンさんの肩なんですが」
「見た」
「打撲で、皮膚は大丈夫なんですが」
「わかった」
それだけで終わった。
マルティナさんは台所の方に歩いていった。
部屋に戻った。
荷物を下ろした。
着ているものを替えた。
二日ぶりのまともな椅子に座った。
背もたれがあるだけで、違った。
しばらくして、マユミが部屋に来た。
「ヒコ」
「はい」
「アーヴィンの部屋にマルティナさんが入っていった」
「そうですか」
「何も言わずに、布と何かを持って」
「薬草か湿布の代わりになるものだと思います」
「頼んだのか」
「言いかけたら、すでに把握していました」
マユミが少し笑った。
「あの人、全部わかってるよな」
「そうです」
「怖いくらいだ」
「頼もしいと思っています」
「まあ、そうだな」
マユミが窓の外を見た。
「いい天気だな」
「そうですね」
「帰ってきてよかった」
「同感です」
夕食は宿の食堂だった。
テーブルに四人分並んでいた。
いつもの三品に、もう一品あった。
焼いた根菜の蜂蜜がけだった。
甘い匂いがした。
アーヴィンが椅子に座った。
その一品を見た。
少し止まった。
「これは」
マルティナさんが言った。
「肩に効く。食え」
「……俺の好物だ」
「そうか」
「なぜわかった」
マルティナさんは首を少し傾けた。
「顔を見ていればわかる」
それだけ言って、台所に戻った。
アーヴィンは一品を見たまま、少し動かなかった。
マユミが俺を見た。
俺はマユミを見た。
何も言わなかった。
言わない方がいい場面だった。
アーヴィンが一口食べた。
何も言わなかった。
でも、表情が少し変わった。
それで十分だった。
食事が進んだ。
マルティナさんが戻ってきた。
椅子を引いて、俺たちのテーブルの端に座った。
珍しかった。
いつもは食事中にそばにいることが少なかった。
「どうだった」
聞いた。
「大きい魔物と当たりました」
俺が言った。
「Cランクより上でした。今まで見たことのない種類で」
「倒したか」
「はい」
「怪我は」
「アーヴィンさんの肩だけです。それ以外はなかったです」
マルティナさんがアーヴィンを見た。
「痛むか」
「動く分には問題ない」
「無理をするな。明日は休め」
「報告がある」
「明後日でも消えない」
アーヴィンが少し黙った。
「……わかった」
マルティナさんが頷いた。
マユミが言った。
「マルティナさん、好物ってどうしてわかるんですか」
「長いこと宿をやっていると、わかるようになる」
「どこで見るんですか」
「目だ」
「目」
「食べ物を前にしたとき、人間の目は正直だ」
マユミが俺を見た。
「ヒコの好物もわかるか」
マルティナさんが俺を見た。
「根菜の煮込みだろう」
「正解です」
「だと思った。毎回、あれのときだけ最後に皿を持つ」
マユミが笑った。
「確かに」
「そんなに露骨でしたか」
「露骨だ」
マルティナさんが言った。
口元が少し動いた。
笑っているのかどうか、わからなかった。
でも、雰囲気が柔らかかった。
アーヴィンが言った。
「俺のは」
「さっきと同じ答えだ」
「いつからわかっていた」
「お前が星の宿に泊まり始めた初日だ」
アーヴィンが少し間を置いた。
「……一度も出してくれなかった」
「出すタイミングがなかった。今日が初めて合った」
「何と」
「帰ってきたことと、少し骨を折ったこと。両方あって初めて出す飯だ」
静かな言葉だった。
余計なことは何も言わなかった。
でも、全部入っていた。
アーヴィンが皿を見た。
もう一口食べた。
何も言わなかった。
でも、それで全部伝わった気がした。
食事が終わった。
マルティナさんが立った。
「体が資本だ。今夜は早く寝ろ」
「はい」
「アーヴィン、肩に当てた布は明朝替える。起きたら声をかけろ」
「……わかった」
「マユミ」
「何だ」
「お前も無理をするな。前衛は体を使い過ぎる」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃなくなってから言っても遅い。飯を残さず食え」
「残してないぞ」
「そうか。ならいい」
マルティナさんが台所に戻った。
食堂に三人が残った。
マユミが言った。
「飯をしっかり食えよ、ってよく言うよな、あの人」
「そうですね」
「なんかわかる気がする」
「どういうことですか」
「あの人、心配しているのに心配していると言わない。だから、飯の話になる」
俺は少し考えた。
「そうかもしれないですね」
「現場の人間みたいだな」
「言い得て妙です」
アーヴィンが立ち上がった。
「休む」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
マユミが言った。
アーヴィンが階段を上がった。
その背中を見ながら、マユミが言った。
「あいつ、今日は顔が違うな」
「そうですね」
「疲れているんだろうけど、なんか、軽い」
「肩を負って帰ってきたのに、軽い」
「おかしいよな」
「おかしくないと思います」
「なんで」
「誰かに世話をしてもらったからじゃないですか。何年ぶりかで」
マユミが少し黙った。
「そうか」
「一人で全部やってきた人間は、誰かにやってもらうことに慣れていません。でも、やってもらったとき、重さが取れることがある」
「マルティナさんの飯が効いたんだな」
「料理と、言葉と、両方だと思います」
マユミが窓の外を見た。
「あの人、すごいな」
「そうです」
「俺たちじゃ、あんな風にはできない」
「年数が違います」
「そうか」
マユミが立ち上がった。
「ヒコも休めよ」
「もう少ししてから」
「何かするのか」
「簡単に今回の行動を記録しておこうと思って。魔物の種類と場所と、スキルで感じた気配の重さを」
「まじめだな」
「記録は大事です。次に同じ場所に行くとき、ゼロから始めなくて済む」
「段取り八分か」
「そうです」
マユミがため息をついた。
「お前と一緒にいると、何でも仕事に見えてくる」
「すみません」
「謝るな。それがお前だから」
マユミが笑った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が遠くなった。
食堂に一人残った。
ろうそくの明かりで、紙に書き始めた。
日付、場所、気配の大きさ、戦闘の経過。
アーヴィンさんが言った「左側が弱い」という判断が、俺のスキルの情報から来ていたこと。
次に同じ種類に当たったとき、何を確認すればいいか。
書いていると、台所から音がした。
マルティナさんがまだ動いていた。
片づけをしているらしかった。
しばらくして、音が止んだ。
扉が少し開いた。
「まだいたのか」
「記録を書いていました。もう少しで終わります」
「そうか」
マルティナさんが入ってきた。
俺の向かいに座った。
「見せろ」
「え」
「どんなことを書いているか見たい」
紙を渡した。
マルティナさんが読んだ。
字が読めるんだな、と思った。
この世界では当然じゃないはずだった。
マルティナさんが紙を返した。
「丁寧だな」
「癖なので」
「前の仕事でも書いていたのか」
「毎日書いていました。何かあったとき、記録がないと話にならないので」
「そうか」
マルティナさんが少し間を置いた。
「アーヴィンの肩、大事ない」
「よかったです」
「骨には当たっていない。あと二日休めば動ける」
「本人に伝えます」
「もう伝えた」
「さすがです」
マルティナさんが俺を見た。
「お前は、あいつをうまく動かしているな」
「動かしているつもりはないです」
「そうか」
「隣にいるだけです」
「それが一番難しい」
マルティナさんが言った。
「命令するのは簡単だ。引っ張るのも、押すのもできる。でも、ただ隣にいるのは、そう簡単じゃない」
「なぜですか」
「自分を消せないからだ。隣にいるということは、自分も同じ場所にいるということだ。都合よくは消えられない」
俺は少し考えた。
「マルティナさんは、そういうことを誰かにしてもらったことがありますか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと思った。
マルティナさんは少し黙った。
「亡くなった人間に、してもらった」
静かな声だった。
「……すみません、聞きすぎました」
「いい。お前には話せる」
なぜか、は聞かなかった。
「その人が隣にいてくれたから、今のわたしがある。それだけだ」
「大事な人だったんですね」
「そうだ」
マルティナさんが立った。
「休め。体が資本だ」
「はい」
「明日、根菜の煮込みを出す」
「ありがとうございます」
「お世辞はいらない。食え、それだけでいい」
扉が閉まった。
食堂に一人になった。
ろうそくが揺れていた。
俺は残りを書き終えた。
紙をしまった。
椅子から立ち上がった。
窓の外、街が静かだった。
星が出ていた。
この宿に来てから、随分経った。
最初は見ず知らずの他人だった人たちが、今は全員この場所にいる。
マルティナさんが言っていた。
隣にいるのは、簡単じゃない。
でも、隣にいてくれる人間がいたから、今の自分がある。
俺は、誰かの隣にいられているだろうか。
わからなかった。
でも、いようとしていることは確かだった。
それで今は十分だ、と思った。
階段を上がった。
廊下が静かだった。
それぞれの扉の向こうで、それぞれが寝ていた。
俺は自分の部屋に入った。
ベッドに横になった。
天井を見た。
目を閉じた。
今日も、終わった。
第三十三話「帰還と、マルティナの飯」 了




