第三十二話「Cランクの魔物と、アーヴィンの本気」
朝は早かった。
アーヴィンが見張りを終えて、俺を起こした。
空が白くなりかけていた。
「異常なし」
「ありがとうございます」
立ち上がって、周囲をスキルで確認した。
小さい気配がいくつか。
遠くに何もない。
問題なかった。
朝食は簡単に済ませた。
マルティナが持たせてくれた豆を水で戻して、塩で味をつけた。
それだけだった。
マユミが文句を言わなかった。
アーヴィンが黙って食べた。
野営の朝はこんなものだ、と俺は思った。
現場の朝も同じだった。
段取りが先、快適さは後。
それが叩き上げの順番だ。
出発して、三時間ほど歩いた。
道が細くなってきた。
低木が増えた。
足元が柔らかくなった。
川が近いのかもしれない。
「このあたりから先は、地図で確認した範囲の外になります」
「地図は持っているか」
アーヴィンが聞いた。
「ドガンさんに借りた古い地図があります。でも、このあたりは空白が多くて」
地図を広げた。
確かに、このあたりから先は描かれていなかった。
「誰も入らなかった場所だな」
「そう思います」
マユミが前を見た。
「じゃあ俺たちが最初か」
「かもしれません。ただ、それが問題なわけじゃないです。入れる道がある以上、誰かが通ったはずです」
「でも記録がない」
「記録を残せなかったのかもしれません」
少し重い言い方になった。
マユミが黙った。
アーヴィンが前を向いたまま言った。
「戻ってくれば、記録できる」
「そうですね」
「そのための準備をする。それだけだ」
短い言葉だった。
でも、的確だった。
俺はもう一度地図を折って、鞄にしまった。
昼過ぎ、目標の場所に着いた。
木々が開けた。
広い草地だった。
川が見えた。
水音がした。
穏やかな場所だった。
でも。
スキルで確認した瞬間、俺は足を止めた。
大きい。
今まで感じたことのない重さだった。
消耗なし。完全に元気。
生き物の気配というより、場所全体が何かで満たされているような感覚だった。
「アーヴィンさん」
声が少し低くなっていた。
「うん」
「これ、Cランク相当どころじゃないかもしれません」
アーヴィンが足を止めた。
少しの間、沈黙があった。
草地の奥、川沿いの茂みが揺れた。
風がないのに、揺れた。
アーヴィンが剣を抜いた。
「下がれ。二人とも」
声が、変わっていた。
今まで聞いたことのない声だった。
低くて、静かで、でも止まらない何かがあった。
マユミが即座に動いた。
俺も後退した。
段取りを考えながら、足を動かした。
情報係は後衛にいる。それが段取りだ。
茂みから出てきた。
でかかった。
熊に似ていた。
でも、熊じゃなかった。
四本腕だった。
前の二本が地面についていて、後ろの二本が人間の腕のように前に向いていた。
頭が大きかった。
目が赤かった。
消耗なし。
完全に元気。
スキルに映る気配の重さが、今まで見たどの魔物とも違った。
「何ですか、あれ」
マユミが小声で聞いた。
「見たことないです」
俺は答えた。
アーヴィンが前に出た。
その動きが、違った。
歩き方が違った。
今まで見てきたアーヴィンの動きは、どこか力を抑えていた。
でも今は、違った。
全部出している、という感じがした。
俺はスキルを集中した。
アーヴィンの状態を確認した。
消耗なし。
感情の機微がぼんやり見えた。
怖くない。
緊張もない。
ただ、静かな何かがあった。
集中、と呼ぶにはもっと深い何かだった。
魔物が鳴いた。
低い音だった。
地面が少し震えた気がした。
アーヴィンは動かなかった。
剣を構えたまま、待った。
俺は息を飲んで見ていた。
現場でも同じだった。
本当に経験のある人間は、慌てない。
問題が来る前に、来た後の動きを決めている。
アーヴィンは、全部見えていた。
俺には見えていないものが、あの人には見えていた。
魔物が動いた。
速かった。
でかい体に似合わない速さだった。
前の二本腕が地面を蹴った。
距離が一瞬で詰まった。
アーヴィンが、横に動いた。
紙一重だった。
でも、焦りがなかった。
最初からそこに来ると知っていたような動きだった。
剣が光った。
横に薙いだ。
魔物の前腕に当たった。
金属のような音がした。
斬れていなかった。
硬い。
「皮膚が硬い」
マユミが呟いた。
「わかってます」
俺はスキルを集中し続けた。
消耗なし。
まだ元気。
一撃では、効いていない。
アーヴィンが下がった。
間合いを取った。
魔物が止まった。
二者の間に、静止があった。
アーヴィンが剣の持ち方を変えた。
両手持ちになった。
それまでは片手で持っていた。
「アーヴィンさん」
俺は声をかけた。
「うん」
「胴体の左側、他より気配が薄いです」
感覚的な話だった。
スキルで「数値」が見えるわけじゃない。
でも、左側が、他と違う気がした。
「わかった」
アーヴィンは言った。
疑わなかった。
即座に動きに織り込んだ。
俺はそれだけで、この人を信頼できると思った。
魔物が再び動いた。
今度は後ろの二本腕も使った。
前腕で地面を蹴りながら、後腕を振った。
リーチが長かった。
アーヴィンが屈んだ。
後腕が頭上を通った。
そのまま踏み込んだ。
速かった。
俺が追えないくらい速かった。
剣が、魔物の左側に入った。
今度は音が違った。
肉の音がした。
魔物が鳴いた。
今度は高かった。
痛みの音だった。
でも、倒れなかった。
体を回した。
アーヴィンを弾いた。
アーヴィンが吹っ飛んだ。
「アーヴィン!」
マユミが走りかけた。
「待ってください」
俺はマユミの腕を掴んだ。
「スキルで確認します。一秒」
集中した。
アーヴィンの状態を見た。
消耗、少し。
でも。
動ける。
「問題ありません。今は動かないでください」
「でも」
「アーヴィンさんが下がれと言った理由があります。まだそこにいてください」
マユミが足を止めた。
唇を噛んでいた。
俺も同じ気持ちだった。
でも、段取りを崩したら、全員が危なくなる。
それが現場の鉄則だった。
アーヴィンが立った。
すぐに立った。
肩を押さえていたが、足はしっかりしていた。
魔物と向き直った。
スキルで見ると、魔物の消耗が少し増えていた。
「傷は入っています。消耗が出てきました」
俺は声を出した。
「どのくらいだ」
「元気を十とすると、今は八か九くらいの感覚です。ただし、正確ではありません」
「十分だ」
アーヴィンが言った。
剣を構え直した。
「もう一本、同じところを狙う。そこに引きつけられるか」
俺に聞いていた。
「引きつける、というのは」
「正面から声を出す。少しだけでいい。一瞬、俺の方を向かせてくれ」
マユミが俺を見た。
俺は少し考えた。
距離はある。
魔物の動きを見ると、俺がいる場所まで来るには時間がかかる。
アーヴィンが動く一瞬を作るだけでいい。
「わかりました。合図をください」
「今から三秒後」
「はい」
俺は息を吸った。
一。
二。
三。
「こっちです」
声を出した。
思ったより落ち着いた声が出た。
魔物が振り返った。
一瞬だった。
でも、その一瞬にアーヴィンが動いた。
速かった。
さっきより速かった。
肩の痛みを無視しているのか、それとも本当に関係ないのか、わからなかった。
剣が、左側に入った。
深く入った。
今度は魔物が崩れた。
前腕の力が抜けた。
膝をついた。
鳴かなかった。
ただ、崩れた。
静止があった。
草地に風が来た。
川の音がした。
魔物が動かなくなった。
アーヴィンが剣を下ろした。
俺はスキルで確認した。
消耗が上がっていた。
「アーヴィンさん、肩は」
「大丈夫だ」
「確認させてください」
近づいた。
肩を見た。
打撲で赤くなっていた。
皮膚は破れていなかった。
「骨は大丈夫そうです。でも、今日の野営は動かさない方がいいと思います」
「そうする」
マユミが走ってきた。
アーヴィンの前で止まった。
少し間があった。
「すごかった」
それだけ言った。
アーヴィンは少し黙った。
「……お前の出した声のおかげだ。二人が動いてくれたから、倒せた」
「俺は声を出しただけです」
俺が言った。
「十分だ」
アーヴィンが言った。
そこで終わった。
でも、それで十分だった。
魔物を確認した。
体の一部に価値がある素材が含まれているかもしれなかった。
でも、今は道具がない。
解体できない。
「持ち帰れる部分があれば、という話ですが」
「爪が使えるかもしれない」
アーヴィンが言った。
「硬い素材として売れるものがある。このくらいの魔物なら、素材商に持っていけば買い取ってくれる」
「爪だけでも、いくらになりますか」
「銀貨二〜三枚はするかもしれない。ただし、状態次第だ」
俺はドガンに教えてもらった知識を引っ張り出した。
Cランク以上の魔物素材は、商人ギルドを通すと割増になることがある。
「帰ったら、ドガンさんに聞いてみます」
「そうしろ」
アーヴィンが短剣を出して、慎重に爪を外し始めた。
マユミが手伝った。
俺はスキルで周囲を確認し続けた。
小さい気配が遠くに集まってきていた。
魔物の匂いに反応しているのかもしれない。
「十五分くらいで切り上げた方がいいと思います。小さい気配が集まってきています」
「わかった。これだけ取れれば十分だ」
アーヴィンが立ち上がった。
手に爪が四本あった。
「行こう」
俺たちは元来た道を戻った。
野営地に戻ったのは、夕方前だった。
アーヴィンの肩に湿布の代わりに薬草を当てた。
マユミが包帯を巻いた。
手際がよかった。
「慣れていますね」
「冒険者だから」
マユミが言った。
「ヒコも自分でできるようにしろよ」
「覚えます」
「教えてやる。今夜」
「ありがとうございます」
アーヴィンが火を見ていた。
口が少し動いた。
「……二人は、いいコンビだな」
「え」
マユミが手を止めた。
アーヴィンは続けた。
「声を出す判断が早かった。戦闘中に、正しい判断を迷わずした」
「現場仕込みなので」
俺が言った。
「そういうところだよ、お前は」
マユミが笑った。
アーヴィンも、口の端が少し動いた。
夜、焚き火を囲んだ。
昨日と同じ場所だった。
でも、少し違う夜だった。
同じ火を見ていても、昨日より何かが近い気がした。
マユミが言った。
「アーヴィン、今日の動き。見たことなかった」
「昔の癖が出た」
「Aランクのときの動きか」
「それより前だ」
少し間があった。
「俺が初めて剣を持ったのは、十二のときだった。師匠が厳しい人間でな。型から全部叩き直された。その頃の動きが出た」
「師匠か。どんな人だったんですか」
俺が聞いた。
「無口な人間だった。でも、剣のことだけは話した。間合いと、タイミングと、重心の話を何度も聞かされた」
「今日の動きを見て、その話が伝わっているのがわかりました」
「そうか」
アーヴィンは焚き火を見た。
「師匠は、今はいない」
「……そうでしたか」
「俺がAランクになる前に死んだ。病気だった。だから、Aランクになったことを伝えられなかった」
静かな声だった。
でも、重さがあった。
「伝えたかったですね」
「ああ」
短く言った。
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
焚き火が揺れた。
マユミが黙っていた。
三人分の沈黙があった。
悪い沈黙じゃなかった。
少しして、アーヴィンが言った。
「今日、助かった」
俺とマユミを見た。
「声を出してくれなければ、もう一手必要だった。それだけ時間が延びれば、どこかで怪我が増えた」
「でも、判断はアーヴィンさんがしていました。俺たちは言われた通りに動いただけです」
「それが難しい」
「え」
「言われた通りに動くのは、簡単に見えるが難しい。信頼がなければできない。お前たちは俺を信頼して動いた。それが今日の結果につながった」
マユミが俺を見た。
俺はマユミを見た。
アーヴィンが続けた。
「五年間、一人で動いてきた。それは信頼しなくていいからだった。自分だけで判断して、自分だけで動いた。でも今日わかった」
「何が」
「俺の判断より、三人の判断の方が正確だった。声を出すタイミングも、左側が弱いという情報も、お前たちがいなければなかった。俺一人では、あの魔物に今日の半分の傷しか与えられなかったかもしれない」
俺は少し考えた。
現場でも同じだった。
一人の判断より、チームの判断の方が精度が高い。
それは長年の現場で骨に染みていることだった。
「アーヴィンさん」
「うん」
「これから、もっとそういう場面が増えると思います。その度に教えてください。どこが届かなかったか、何があれば動きやすかったか」
「教える、か」
「現場では、そういう話が一番大事なんです。うまくいった後の振り返りの方が、失敗したときより勉強になることがある」
「……わかった。そうする」
アーヴィンが頷いた。
マユミが言った。
「俺もだ。言ってくれ」
「ああ」
焚き火が静かに燃えていた。
川の音がした。
虫の声がした。
三人が、同じ火を見ていた。
今日、何かが変わった気がした。
戦いの話じゃない。
チームの話だ。
三人が、今日初めてチームとして動いた。
そういう夜だった。
見張りの順番を決めた。
昨日と同じ順番にした。
アーヴィンが立った。
俺が横になった。
マユミが言った。
「ヒコ」
「はい」
「明日、帰るとき。アーゼルタウンに戻ったら、マルティナさんに土産を買おう」
「何がいいですか」
「あの人の好きなものって何だろうな」
「聞いたことないですね」
「そういうとこだよ、俺たちは」
マユミがため息をついた。
「帰ったら聞きましょう」
「直接聞くか。お前は現場直撃主義だな」
「段取り八分ですが、段取りできないことは直接聞くのが一番です」
「はいはい」
マユミが目を閉じた。
少ししてから言った。
「今日、いい日だったな」
「そうですね」
「怖かったけど」
「俺もです」
「でも、怖かった方が、後で楽しい気がする」
俺は少し笑った。
「現場でも言われていました。ヒヤッとした現場ほど、打ち上げが盛り上がると」
「打ち上げ、いつかやろう」
「帰ったらマルティナさんの飯で十分じゃないですか」
「それもそうだな」
マユミが笑った。
それから、静かになった。
寝入ったらしかった。
俺は空を見た。
星が出ていた。
昨日と同じ星だった。
でも、今夜の方が明るく見えた。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃないかもしれない。
アーヴィンが遠くで静かに立っていた。
その背中を見ながら、俺は思った。
今日、あの人は本気を出した。
五年間しまっていたものを、出した。
誰かのために出した。
それが何を意味するのか、アーヴィンさん本人はまだわかっていないかもしれない。
でも、俺にはわかった。
あの人は、戻ってきている。
レインさんを失った場所から、少しずつ戻ってきている。
急がなくていい。
俺たちは急がせない。
ただ、隣にいる。
それが、今の俺たちにできることだった。
目を閉じた。
火の匂いがした。
川の匂いがした。
こっちの世界でも叩き上げでいくんだよなあ。
そう思いながら、眠った。
第三十二話「Cランクの魔物と、アーヴィンの本気」 了




