第三十話「第一幕の終わりと、次の章へ」
翌朝。
目が覚めた。
天井を見た。
染みが三つ。
いつもと同じだ。
でも、今朝は少し違う気がした。
重さが、違う。
何かが、軽くなっていた。
昨夜、話したからだろう。
五十年分の秘密を、一人の人間に話した。
全部話しても、空っぽにはならなかった。
むしろ、少し軽くなった。
人間というのは、不思議なものだ。
食堂に降りた。
マユミが先に来ていた。
珍しかった。
俺を見て、少し頷いた。
昨夜と同じ目だった。
でも、どこか軽くなっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
それだけだった。
昨夜のことを、何も言わなかった。
確認もしなかった。
でも、全部伝わっていた。
そういう空気だった。
マルティナが朝食を出した。
「今日は何かあるのか」
「アーヴィンさんから話があると言っていました」
「そうか」
マルティナはそれだけ言って、厨房に戻った。
アーヴィンが降りてきた。
席についた。
三人で朝食を食べた。
食べ終わった頃、アーヴィンが口を開いた。
「次の依頼について、少し話したい」
「どんな依頼ですか」
「アーゼルタウンの北、二日の距離に、Cランク相当の魔物が出たという報告がある。セリウスさんから非公式に情報が来た」
俺は少し考えた。
Cランク相当。
今の俺たちはDランクだ。
「難易度が高くないですか」
「高い。だが、条件がある」
「条件とは」
「俺が前衛として動く。お前のスキルで情報を出す。マユミが中衛でサポートする。この三人なら、対応できる」
マユミが腕を組んだ。
「アーヴィンが本気で動くのか」
「そうだ。様子を見る期間は終わった」
俺はマユミを見た。
マユミは少し考えた。
「報酬は」
「セリウスさんからの非公式依頼なので、正規の報酬ではない。ただ、ベルガンの件で動けるかどうかの確認を兼ねている」
「確認、というのは」
「その魔物の動きが、自然発生ではない可能性がある。人為的に誘導された形跡があると、セリウスさんは言っていた」
俺は頭の中で整理した。
魔物が人為的に誘導される。
誰が、何のために。
ベルガン。
魔族との繋がり。
「魔族が関係している可能性がありますか」
「ある。だから俺が動く」
静かな声だった。
でも、五年分の意志が込められていた。
マユミが俺を見た。
「どう思う」
俺は少し考えた。
段取りが組めるか。
情報がある。敵の規模がわかっている。アーヴィンが本気で動く。セリウスのバックアップがある。撤退条件を決めておけば、動ける。
「行きましょう」
「決まりだ」
アーヴィンが短く言った。
出発の前に、マルティナに話した。
「二日ほど、出ます」
「わかった」
「宿代は月極なので、問題ないですよね」
「問題ない。部屋はそのままにしておく」
「ありがとうございます」
「気をつけろ」
マルティナはそれだけ言った。
俺はマルティナを見た。
「マルティナさん」
「うん」
「来てから一ヶ月以上、ありがとうございました」
マルティナは少し間を置いた。
「何が」
「最初の夜、立て替えてくれて。ギルドに行けと言ってくれて。毎日、飯を出してくれて」
「当たり前のことをしただけだ」
「当たり前のことを、ちゃんとしてくれる人間が、一番大事です」
マルティナはしばらく俺を見た。
目尻に、深い皺が寄った。
「……いい子だよ、お前は」
「子供じゃないつもりですが」
「体は子供だろ」
「また言い返せませんでした」
マルティナは少し笑った。
「帰ってきたら、肉を出す」
「楽しみにしています」
「帰ってこなきゃ出せないからな」
「必ず帰ります」
マルティナはカウンターを拭きながら、一度だけ頷いた。
三人で宿を出た。
アーゼルタウンの朝だった。
城壁の門をくぐる前に、俺は一度振り返った。
石畳の通り。露店の準備を始める人たち。開き始めた店の扉。
来た日と同じ景色だった。
でも、見え方が全然違った。
来た日は、全部が知らない景色だった。
今日は、全部が自分の景色だった。
根を下ろした、ということだろう。
まだ浅いかもしれない。
でも、確かにある。
「何を見てるんだ」
マユミが言った。
「街を見ていました」
「感慨深そうだな」
「少し。来た日と、見え方が変わったので」
マユミはしばらく街を見た。
「俺も、変わった気がする」
「どう変わりましたか」
「ここが、帰る場所になった」
俺は少し止まった。
「マユミさんにとっても」
「ああ。最初は宿に泊まっているだけだった。でも今は、帰る場所だ」
アーヴィンが少し前を歩いていた。
でも、その言葉を聞いていたかもしれない。
背中が、少し違う気がした。
「行くぞ」
アーヴィンが言った。
「はい」
三人で門をくぐった。
街道が広がった。
風が来た。
俺は前を向いた。
段取りは組んである。
情報はある。
仲間がいる。
帰る場所がある。
現場に入るとき、いつも思うことがある。
どんな現場も、終わらない現場はない。
どんなに難しくても、段取りを組んで、一個ずつ潰せば、必ず終わる。
この世界でも、同じだ。
一日一日の積み重ねが、いつか全体を作る。
叩き上げというのは、そういうことだ。
歩き始めた。
第一幕「生存」 完
転生してから、ひと月以上が経った。
銅貨七枚から始まった。
借金があった。装備もなかった。コネもなかった。スキルは性別しかわからなかった。
今は——。
Dランクの冒険者になった。
商人ギルドの管理職として月銀貨十枚を稼いでいる。
借金は完済した。
宿に月極で根を下ろした。
マユミという相棒ができた。
アーヴィンという仲間ができた。
マルティナという居場所ができた。
スキルは感情の機微まで感じ取れるようになった。
でも、まだまだだ。
ベルガンの件は動いていない。
可視化持ちが狙われる謎はまだ解けていない。
アーヴィンの過去はまだ全部は語られていない。
マユミとの関係は、まだ途中だ。
段取りは、まだ組み直せる。
叩き上げというのは、こういうことだ。
一日一日の積み重ねが、いつか全体を作る。
どんな世界でも、やることは同じだ。
第二幕「成長」へ続く




