第二十二話「給料日と、借金完済と、月極の話」
十五日の朝。
目が覚めた。
今日だ。
特別なことは何もない。
ただ、今日、最初の給料が入る。
それだけだ。
でも、体が少し違った。
心拍が、いつもより少し速かった。
子供の体は正直だ。
食堂に降りた。
マユミがいた。
俺を見て、少し笑った。
「今日だな」
「今日です」
「顔に出てるぞ」
「出ていますか」
「うん。珍しい顔だ」
「どんな顔ですか」
「……わくわくしてる顔」
俺は少し黙った。
否定できなかった。
マルティナが朝食を出した。
今日はパンが大きかった。
それから、目玉焼きが一つついていた。
いつもはスープだけだ。
「今日は特別ですか」
「給料日だろ」
「マルティナさん、知っていたんですか」
「ドガンから聞いた」
ドガンが話したのか。
この街の人間は、顔が繋がっている。
「ありがとうございます」
「礼はいい。ちゃんと食え」
目玉焼きを食べた。
黄身が柔らかかった。
美味かった。
午前中にドガンの仕事をこなした。
終わったとき、ドガンが封筒を出した。
「初回分だ。月の十五日払いで、銀貨五枚。確認してくれ」
受け取った。
封を開けた。
銀貨が五枚、入っていた。
一枚ずつ確認した。
五枚。間違いない。
「確認しました。ありがとうございます」
「これからよろしく頼む」
「はい。よろしくお願いします」
ドガンは少し頷いた。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「最初にもらった給料で、何をするつもりだ」
俺は少し考えた。
「借金を返します」
「マルティナへの借金か」
「はい。今日、全部返せます」
ドガンはしばらく俺を見た。
「……来てからずっと、返すために動いてたんだな」
「そうですね。最初からそれだけを考えていました」
「他に使いたいものはなかったのか」
「装備を先週買いました。それで十分です」
ドガンは少し笑った。
「お前みたいな人間は、久しぶりに見た」
「どんな人間ですか」
「筋を通す人間だ」
俺は少し黙った。
「当たり前のことをしているだけです」
「当たり前ができない人間が多いんだよ、この世界では」
ドガンはそれだけ言って、仕事に戻った。
昼過ぎ、宿に戻った。
マルティナが食堂にいた。
昼の片付けをしていた。
「少しいいですか」
「うん」
俺は封筒を出した。
銀貨を五枚、テーブルに並べた。
「借金を返したいです。全部」
マルティナは手を止めた。
テーブルの銀貨を見た。
帳簿を出した。
数字を確認した。
「残りは五百七十八枚だ。銀貨五枚は五百枚分になる。残り七十八枚は」
「手持ちの銅貨で払います」
俺は袋から銅貨を出して数えた。
七十八枚。
テーブルに並べた。
「これで全部です」
マルティナはしばらく、銀貨と銅貨を見ていた。
帳簿のページを開いた。
一番上の数字から、ゆっくり線を引いた。
最初に立て替えた日の分。
次のページ。また線を引いた。
一枚ずつ、線を引いていった。
最後の一本を引いた。
静かだった。
「全部返したぞ」
マルティナが言った。
短かった。
でも重さがあった。
俺は少し黙った。
「……ありがとうございました」
言葉が出た。
「最初の夜、立て替えてくれて。銅貨七枚しか持っていなかった俺を、置いてくれて」
マルティナは何も言わなかった。
帳簿を閉じた。
俺を見た。
目尻に深い皺が寄った。
「いい仕事をしたな」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
しばらく沈黙があった。
マルティナが立ち上がろうとした。
そのとき、俺は聞いた。
「マルティナさん、少し相談があります」
「うん」
「宿代の話です」
マルティナは座り直した。
「来てから二ヶ月弱、毎日払いでお世話になってきました。借金も今日、全部お返しできました」
「そうだな」
「来月から管理職の給料が月銀貨十枚、銅貨換算で千枚入ります。安定した収入が続く見込みです」
「それで」
「月極にしていただけますか」
マルティナは少し間を置いた。
「月極、というのは」
「毎日払いをやめて、月単位で契約する方式です。先払いでお支払いします。借金を返した実績があります。信用していただけるなら、お願いしたいです」
マルティナはしばらく俺を見た。
黙っていた。
でも、目が動いた。
何かを確認するような目だった。
「なぜ月極にしたい」
「毎日払いより計画が立てやすくなります。それに——」
俺は少し考えた。
「この宿にいたいんです。できれば、長く。月極にすることで、俺がここに居続ける意思を示せると思って」
マルティナは動かなかった。
少し、長い沈黙があった。
帳簿の最後のページを、もう一度見た。
今引いたばかりの、最後の線を。
それから顔を上げた。
「月千枚でいい」
マルティナが言った。
「三食込みで、月銀貨十枚だ」
俺は少し計算した。
「今より五百枚安くなりますね」
「そうだ」
「いいんですか」
「いい」
「なぜですか」
マルティナは少し間を置いた。
「借りた金を、一枚残らず返した人間がいる。それがここにいたいと言っている。断る理由がない」
俺は少し黙った。
「……信用してもらえましたか」
「してる。だから月極にする」
短かった。
でも、それだけじゃない気がした。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。来月から月払いにする。月の一日に一ヶ月分を先払いしてくれ」
「わかりました」
マルティナは帳簿を開いて、新しいページに書き込んだ。
ヒコ。月極。銅貨千枚。三食込み。
それだけの記録だった。
でも、俺にとっては契約書と同じだった。
この宿に根を下ろす、という最初の形だった。
夕方、マユミに話した。
「月極にしてもらいました」
「月極?」
「毎日払いをやめて、月単位で契約しました。月銀貨十枚、三食込みです」
マユミはしばらく考えた。
「今より安くなるのか」
「月五百枚ほど安くなります」
「それは大きいな」
「マユミさんも月極にしてみますか。聞いてみましょうか」
マユミは少し考えた。
「……聞いてみる」
マルティナに声をかけた。
マルティナはマユミを見た。
「お前もか」
「条件は同じでいいか」
「同じでいい」
マユミはしばらく黙った。
「……俺も、長くここにいたい」
マルティナはしばらくマユミを見た。
マユミは視線を逸らさなかった。
「借金はないな」
「ない。毎日ちゃんと払ってきた」
「そうだな」
マルティナは少し頷いた。
「お前も同じ条件でいい。月千枚、三食込みだ。来月の一日に先払いしてくれ」
「わかった」
「先払いがあってこその月極だ。忘れるな」
「忘れない」
帳簿にもう一行追加された。
マユミ。月極。銅貨千枚。三食込み。
二人分の記録が並んだ。
夕食の時間。
今日はマルティナが少し奮発した料理を出した。
鶏肉の香草焼きと、野菜のスープと、焼きたてのパンだった。
「完済のお祝いだ」
マルティナが言った。
「ありがとうございます」
「月極のお祝いも兼ねてる」
「二つ重なりましたね」
「悪くないだろ」
三人で食べた。
鶏肉が美味かった。
焼きたてのパンが、外はかりっとして中は柔らかかった。
マユミが言った。
「今日は色々あったな」
「そうですね。給料が入って、借金を返して、月極にしてもらいました」
「一日でそれだけか」
「段取りが決まっていたので」
「現場仕込みか」
「そうです」
マユミは少し笑った。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「この宿に根を下ろす、という感じがするか」
俺は少し考えた。
「します」
「いつ頃から」
「マルティナさんに最初の夜、立て替えてもらったときから、かもしれません」
「それって、かなり最初じゃないか」
「そうですね」
マユミはしばらく俺を見た。
「……私も同じかもしれない。食堂で初めて目が合ったときから、なんか違う感じがしてた」
「どんな感じですか」
「普通の子供じゃないな、という感じ」
「失礼な感じですね」
「褒めてる」
マルティナが厨房から顔を出した。
「うるさいぞ、二人とも」
「すみません」
「でも、まあ」
マルティナは少し間を置いた。
「……賑やかなのは、悪くない」
それだけ言って、また引っ込んだ。
俺とマユミは顔を見合わせた。
それから、二人で笑った。
食堂に笑い声が広がった。
マルティナの笑い声も、厨房から少し聞こえた気がした。
部屋に戻った。
窓の外を見た。
夜のアーゼルタウン。
城壁の上の灯り。
今日、借金が完済した。
月極の契約をした。
この宿に、正式に根を下ろした。
転生してから、もうすぐ二ヶ月になる。
銅貨七枚から始まった。
借金があった。
装備もなかった。
コネもなかった。
今は、給料が入る仕事がある。
装備が揃った。
顔を思い浮かべられる人間が何人もいる。
マルティナとマユミと、この食堂がある。
叩き上げというのは、こういうことだ。
一日一日の積み重ねが、いつか形になる。
どんな世界でも、やることは同じだ。
ガッツが言っていた。
根を下ろすつもりがあるなら、顔を売っておいた方がいい。
最初にそう言われてから、二ヶ月が経った。
少しずつ、根が下りてきた気がする。
まだ浅い。
でも、確実にある。
目を閉じた。
第二十二話「給料日と、借金完済と、月極の話」 了




