第百三十四話「《無名の踏域》へ」
翌朝だった。
マルティナさんが朝食を出した。
塩スープだった。
硬めのパンと干し肉だった。
全員が黙って食べた。
食べ終わって立つとき、マルティナさんが言った。
「全員で帰ってこい」
いつもと同じ言葉だった。
でも、今日は少し違って聞こえた。
「はい」
扉を出た。
北東に向かった。
朝の空気だった。
街を出ると、道が細くなった。
森に入った。
昨日までと同じ獣道だった。
でも、全員の足が、少し重かった。
重いのは、俺だけじゃなかった。
羅針盤を確認した。
針が、北東を向いていた。
まっすぐだった。
揺れていなかった。
進んだ。
二時間ほど歩いた。
二股の木が見えた。
大きかった。
幹が二つに割れていた。
古い木だった。
その先に、道はなかった。
草と木と、暗がりだけがあった。
「ここからです」
全員が二股の木の前に立った。
ミルヴァが前方を確認した。
「気配がある。遠い。でも、動いている」
「グラズですか」
「わからない。ただ、気配の消し方が上手い。断片しか感じ取れない」
「羅針盤で確認します」
俺は羅針盤を使った。
北東の、かなり先に、かすかな反応があった。
普通の魔物とは違う感触だった。
輪郭がなかった。
あるのに、つかめなかった。
「います。ただ、はっきりしません。影の中にいるような感覚です」
「グラズだ」
ミルヴァが言った。
「影移動ができる。影の中にいる間は、感知が難しい」
「動いていますか」
「今は止まっている。でも、こちらに気づいている可能性がある」
俺は少し間を置いた。
「先に動かれる前に、位置を固定します」
「どうやって」
「俺が気配を追い続けます。動いたら声を出します。アーヴィンさんはその声を聞いて動いてください」
アーヴィンさんが頷いた。
「距離は」
「今は百五十メートルほどです。近づきながら確認します」
「動くか」
「動きます。ただし、全員が固まって動いてください。グラズは後衛を狙う可能性があります」
「わかった」
全員が固まった。
ミルヴァが先行した。
音がしなかった。
残り五人で続いた。
草を踏んだ。
枝をよけた。
道がなかった。
でも、進めた。
俺は羅針盤から目を離さなかった。
グラズの反応が、かすかに動いた。
「動きました。西に向かっています」
全員が止まった。
西。
俺たちの左側だった。
「回り込もうとしています」
「迎え撃つか」
マユミが言った。
「待ちます。アーヴィンさん、左側を見ていてください。俺が位置を伝えます」
「わかった」
反応が、西から南西に動いた。
後ろに回ろうとしていた。
「南西です。後ろに回ろうとしています」
アーヴィンさんが静かに動いた。
全員の後ろに回った。
南西を向いた。
《沈黙の長剣》を構えた。
音がしなかった。
反応が、止まった。
俺は羅針盤を見た。
グラズが止まっていた。
アーヴィンさんの方向を、向いていた。
静止していた。
長い沈黙だった。
どちらも動かなかった。
それから、反応が動いた。
速かった。
アーヴィンさんに向かっていた。
「来ます」
アーヴィンさんが動いた。
影が、地面を走った。
黒い影だった。
形がなかった。
でも、速かった。
アーヴィンさんが踏み込んだ。
《沈黙の長剣》が走った。
影が、裂けた。
叫び声のようなものがした。
形のない声だった。
影が、止まった。
それから、薄くなった。
消えた。
反応が、消えた。
静かになった。
「片付きました」
全員が集まった。
アーヴィンさんが剣を収めた。
「怪我は」
「ない」
「一撃でしたか」
「一撃だった」
ミルヴァが言った。
「影の中にいるとき以外は、脆い。出てきた瞬間を斬った」
「そのタイミングがわかったのはなぜですか」
「影が動く前に、わずかに密度が変わる。それが合図だ」
アーヴィンさんが言った。
俺は少し間を置いた。
「見えていたんですか」
「見えていた」
俺には見えなかった。
羅針盤でかろうじてつかんでいた。
アーヴィンさんには、別の感覚があった。
「さすがです」
「お前が位置を伝えてくれた。それがなければ、後ろに回られていた」
「お互い様です」
アーヴィンさんが少し前を向いた。
「行くか」
「はい」
さらに進んだ。
空気が変わった。
重くなった。
湿った空気だった。
霧が出始めた。
薄かった。
でも、確かにあった。
「霧が出ています」
「《無名の踏域》に入ったということか」
ミルヴァが言った。
「境界があったのかもしれません。羅針盤を確認します」
針が、揺れ始めた。
でも、方向は北東を保っていた。
「針は北東を向いています。霧の影響は受けていますが、方向はわかります」
「地形は」
「確認します」
俺は可視化で周囲を確認した。
色が見えた。
全員の色が見えた。
でも、その外側が、不安定だった。
地形の輪郭が、揺れていた。
「地形が変わっています。少しずつ動いています」
「見えるか」
「輪郭が揺れています。固定されていません」
リアが言った。
「索敵が、また乱れています」
「どの程度ですか」
「二十メートル先が限界です。それより先は不確かです」
「わかりました。二十メートルの範囲で確認しながら進みます。全員、間隔を保ってください」
「はい」
進んだ。
霧が濃くなった。
足元だけが見えた。
羅針盤を確認した。
針が揺れていた。
でも、北東を指していた。
全員の反応があった。
六つ、全員いた。
進んだ。
十分ほどして、地形が変わった。
来た道が、なくなっていた。
後ろを振り返った。
木が、並んでいた。
来た方向のはずが、違う場所になっていた。
「道が変わりました」
「戻れないか」
「今は戻れません。ただ、進めます」
「進む方向はわかるか」
「北東です。羅針盤が向いています」
「それを信じるか」
マユミが言った。
「信じます」
「根拠は」
「今まで、裏切られていません」
マユミが少し間を置いた。
「わかった。信じる」
進んだ。
霧の中を、羅針盤だけを頼りに進んだ。
三十分ほどして、開けた場所に出た。
霧が薄くなっていた。
広い空間だった。
石造りの構造物があった。
廃墟ではなかった。
使われていた。
明かりがついていた。
俺は羅針盤を確認した。
強い反応があった。
一つだった。
その反応は、構造物の中心にあった。
「います」
全員が静かになった。
「一つだけです」
「ベルガンか」
「おそらく」
ミルヴァが構造物を確認した。
「入口は一つ。別の出口は見当たらない」
「罠の可能性は」
「ある。ただし、外周の罠はグラズだった。それが消えた今、別の罠がある可能性は低い」
「根拠は」
「グラズがいる間は、罠は不要だ。グラズが全てを処理する設計だったはずだ」
「なるほど」
俺は全員を見た。
「入ります。ただし、全員で動きます。分断されないように、今日は固まって動きます」
「わかった」
「はい」
全員が入口に向かった。
入口の前に立った。
俺は羅針盤を確認した。
反応は、中にあった。
動いていなかった。
待っていた。
「待っています」
「知っているんだな、俺たちが来たことを」
マユミが言った。
「おそらく」
「それでも待っているのか」
「逃げない、ということだと思います」
アーヴィンさんが言った。
「それはそれで、やりやすい」
俺は少し間を置いた。
「入ります」
全員で、入口をくぐった。
第百三十四話「《無名の踏域》へ」了




