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第百二十八話「霧の中の判断」

 翌朝だった。


 朝食が出た。


 塩スープだった。


 硬めのパンと干し肉がついていた。


 依頼前の食事だった。


 全員が黙って食べた。


 食べ終わってから、立った。


「行きます」


 マルティナさんが全員を見た。


「全員で帰ってこい」


「はい」


 扉を出た。



 北東の森に向かった。


 昨日と同じ道だった。


 でも、空気が違った。


 重かった。


 湿っていた。


 森の入口まで来たとき、霧が出ていた。


 薄かった。


 でも、確かにあった。


 昨日はなかった。


「止まってください」


 全員が止まった。


 リアが目を閉じた。


 索敵魔法を展開していた。


 しばらくして、言った。


「索敵が、乱れています」


「どの程度ですか」


「前方五十メートルより先が、はっきりしません」


 俺は羅針盤を確認した。


 針が、揺れていた。


 いつもの揺れ方じゃなかった。


 細かく、不規則に揺れていた。


「霧が原因ですか」


「霧の中に、何かが混ざっています。自然の霧ではありません」


 ミルヴァが前に出た。


 森の端を見た。


「昨日と違う」


「何が違いますか」


「気配の数だ。昨日は少なかった。今日は、霧の中に複数ある」


「動いていますか」


「ゆっくり動いている。こちらに向かっているわけじゃない。でも、包むように動いている」


 包むように。


 俺は少し間を置いた。


「囲まれる前に入るか、入らないか」


 マユミが言った。


「どっちだ」


 俺は羅針盤を見た。


 針が揺れていた。


 でも、北東を向いていた。


 方向は変わっていなかった。


「入ります」


「根拠は」


「入らなければ、向こうのペースで包囲が完成します。入れば、少なくとも主導権の一部を持てる」


「リアの索敵が使えないのに、か」


「羅針盤があります。それと」


 俺はコリンを見た。


「コリンさん、結界の展開はできますか」


「はい。ただし、霧の中では範囲が狭くなります」


「狭くても構いません。全員が見える範囲を保てれば」


「やります」


「ミルヴァさんは先行をお願いします。ただし、今日は単独で深く入らないでください」


「わかった」


「アーヴィンさんとマユミさんは前衛。リアさんは後衛で魔法の準備を。俺は中央で羅針盤と全員の状態を確認します」


 全員が頷いた。


 森に入った。



 霧が濃くなった。


 十メートル先が見えなかった。


 いや、見えていた。


 でも、輪郭がぼやけていた。


 何かがズレて見えた。


 ミルヴァの背中が、一瞬、違う位置に見えた。


 俺は止まった。


「全員、声を出してください。自分の名前を」


「アーヴィン」


「マユミだ」


「リアです」


「コリンです」


「ミルヴァ」


 全員がいた。


 でも、声の位置と、見える位置が、少しズレていた。


「これは視覚への干渉です。声を基準に動いてください。見えている位置を信用しないでください」


「わかった」


「はい」


 俺は羅針盤を確認した。


 針が激しく揺れていた。


 でも、大きな流れは北東を向いていた。


 その北東の、近い位置に、強い反応があった。


 霧の発生源だった。


「北東、三十メートルに反応があります。霧の発生源だと思います」


「見えるか」


 マユミが前を見た。


「何も見えない」


「見えなくて正常です。視覚は信用しないでください」


「どうする」


「近づきます。ただし、全員の間隔を保ったまま」


 ゆっくり進んだ。


 霧がさらに濃くなった。


 足元だけが見えた。


 俺は羅針盤だけを見て歩いた。


 反応が、近くなった。


 二十メートル。


 十五メートル。


 十メートル。


 そこで、止まった。


 何かが、いた。


 見えなかった。


 でも、いた。


 羅針盤の針が、その方向で止まった。


 揺れなかった。


 ただ、そこを指していた。


 声がした。


 低かった。


 言葉ではなかった。


 でも、何かを言っていた。


 俺は羅針盤を握った。


 色が、見えた。


 霧の中に、色があった。


 灰色だった。


 でも、普通の灰色じゃなかった。


 何層にも重なっていた。


 外側は薄く、内側に向かうほど濃かった。


 中心に、核があった。


 小さかった。


 でも、そこから霧が広がっていた。


「見えました」


「何が」


「核があります。霧の発生源です。中心の、小さな点です」


「どこだ」


「正面、十メートル。少し上です」


 アーヴィンさんが動いた。


 音がしなかった。


 霧の中を、まっすぐ進んだ。


 その瞬間だった。


 霧が動いた。


 アーヴィンさんの姿が消えた。


 視覚が、完全に塗り替えられた。


 俺の正面に、アーヴィンさんが立っていた。


 でも、声の位置は後ろだった。


「惑わされないでください。アーヴィンさんは後ろにいます」


「わかってる」


 声は後ろから来た。


 正面に見えているアーヴィンさんは、幻だった。


 俺は正面の幻を無視した。


 羅針盤を確認した。


 核の位置は変わっていなかった。


 アーヴィンさんの反応も、後ろにあった。


「アーヴィンさん、今どこにいますか」


「お前の後ろ、三メートル」


「核は正面十メートル上にあります。視覚を無視して、俺の声を頼りに動いてください」


「わかった」


 気配が動いた。


 音がしなかった。


 俺は羅針盤で位置を確認しながら、アーヴィンさんの動きを声で誘導した。


「少し右です」


 気配が右に動いた。


「もう少し上です。対象は浮いています」


「どのくらい」


「一メートル半ほどです」


 間があった。


 それから、音がした。


 《沈黙の長剣》が走る音だった。


 静かだった。


 でも、確かに聞こえた。


 霧が、揺れた。


 核の反応が、乱れた。


 叫び声のようなものが聞こえた。


 言葉ではなかった。


 でも、苦しんでいた。


「リアさん、今です」


「はい」


 リアが詠唱した。


 短かった。


 風が走った。


 霧を、吹き飛ばすような風だった。


 俺は情報が一気に流れ込んでくるのを感じた。


 全員の位置。


 全員の色。


 核の輪郭。


 霧の密度。


 全部が、一度に来た。


 多すぎた。


 俺は一瞬、止まった。


 動けなかった。


 足が止まった。


 頭が、処理できなかった。


 その瞬間、背中に手が当たった。


 コリンだった。


「ヒコさん」


「はい」


「落ち着いてください。一つずつでいいです」


 コリンの色が、俺の中に入ってきた。


 落ち着いた緑だった。


 それだけで、少し楽になった。


 俺は一つだけ選んだ。


 核の位置だった。


「核は、まだ生きています。中心から五メートル北」


「追う」


 アーヴィンさんの気配が動いた。


 マユミも動いた。


 霧が薄くなっていた。


 リアの風が、霧を押していた。


 視界が、少しずつ戻ってきた。


 霧の中に、形が見えた。


 人型ではなかった。


 もやのような形だった。


 でも、輪郭があった。


 動いていた。


 逃げていた。


「逃がさないでください。北に向かっています」


「見えた」


 マユミが動いた。


 《緋閃の双刃》が光った。


 一瞬だった。


 霧の形が、止まった。


 核の反応が、消えた。


 霧が、急速に薄くなった。


 視界が戻った。


 全員が見えた。


 六人、全員いた。


 誰も欠けていなかった。


 霧が消えた場所に、何かが落ちていた。


 小さな石だった。


 黒かった。


 内側から、かすかに光っていた。


「これは」


 ミルヴァが拾った。


「魔核だ。上位種のものじゃない。でも、特殊な個体だ」


「名前は」


「霧統べる者ヴァルディス、と呼ばれている。珍しい」


 俺は少し間を置いた。


 霧統べる者ヴァルディス、か。


「向こうが動くのが、早くなっています」


「向こうも急いでいる、ということか」


 ミルヴァが言った。


「そうかもしれません。あるいは」


 俺は少し間を置いた。


「こちらが動いたから、動かされた」


「どういう意味だ」


「昨日、俺たちが現地確認に来ました。それで向こうの判断が変わった可能性があります」


「俺たちが誘導を崩しかけたから、早めに動いた」


「はい」


 マユミが言った。


「それは良いことか悪いことか」


「どちらでもあります」


 俺は全員を見た。


「全員、今の状態を確認してください」


「問題ない」


「無傷です」


「はい」


「問題はありません」


「あたしも」


 全員が応えた。


 誰も、欠けていなかった。


 俺は少し間を置いた。


 情報が一気に来たとき、止まった。


 コリンが支えてくれた。


 一人では無理だった。


 それが、はっきりわかった。


「コリンさん」


「はい」


「ありがとうございました」


「いえ」


 コリンが少し間を置いた。


「ヒコさんが止まるとは思っていませんでした。でも、止まると思ったときのために、隣にいました」


「わかっていたんですか」


「わかっていました」


 俺は少し間を置いた。


「助かりました」


「お互い様です」


 全員が森を出た。


 霧は完全に消えていた。


 空が見えた。


 晴れていた。


 今日は一つ、片付いた。


 でも、まだあった。


 足跡の道があった。


 奥の上位種がいた。


 地図にない場所に、何かがあった。


 全部、まだ残っていた。


 でも、今日は今日の分をやり切った。


 急がない。


 止まらない。


 それで十分だ。


 第百二十八話「霧の中の判断」了

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