第百二十七話「ズレ」
翌朝だった。
ミルヴァが戻った。
夜明け前に出て、朝には帰っていた。
朝食の途中だった。
マルティナさんが椅子を一つ追加した。
何も言わなかった。
ミルヴァが座った。
「情報が出た」
「聞かせてください」
全員が手を止めた。
「魔族の動きは北東だ。複数の気配がある。ただ、はっきりしない」
「はっきりしないというのは」
「動いているのか、待機しているのか、判断がつかない。いつもと違う」
「いつもと違う点は」
「動きが、遅い」
俺は少し間を置いた。
「遅い」
「そうだ。こういう動きの時は、大抵急いでいる。今回は違う。じわじわ動いている」
「誘導ですか」
「わからない。ただ」
ミルヴァが少し間を置いた。
「地図と、合わない」
室内が静かになった。
「どういうことですか」
「旧ルートの情報屋が持っている地図と、実際の気配の位置が、少しズレている」
「どの程度ズレていますか」
「誤差の範囲内、と言えなくもない。でも」
「でも」
「あたしの感覚では、誤差じゃない」
俺は地図を広げた。
ミルヴァが指で示した。
北東の、森の入口付近だった。
地図上では、開けた道が続いていた。
でも、ミルヴァの言う気配の位置は、少し西にズレていた。
地図では、そこは密林だった。
道がなかった。
「ここに気配があるということですか」
「そうだ」
「道がない場所に」
「ない場所に、ある」
俺はもう一度地図を確認した。
リアが少し前に出た。
「その地図は、いつのものですか」
「三年前のものです」
リアが少し間を置いた。
「三年で地形は変わりません。ただ、道は変わります」
「道が変わる」
「獣道が閉じることはあります。また、人為的に塞ぐことも」
俺は少し考えた。
地図が古い。
それだけのことかもしれなかった。
でも、ミルヴァが「誤差じゃない」と言った。
ミルヴァの感覚を、俺は信用していた。
「ミルヴァさん」
「なんだ」
「この地図、他に気になる点はありますか」
ミルヴァが地図をしばらく見た。
指で何度かなぞった。
「ここと、ここ」
二点を示した。
どちらも、北東の森の中だった。
「この二点は、地図上では何がありますか」
「川と、古い見張り台だ」
「実際は」
「川は、少し北にある。見張り台は、跡すら残っていない可能性がある」
俺は三点を結んだ。
川の位置。
見張り台の位置。
気配の位置。
全部、同じ方向にズレていた。
西に、少しずつ。
「これは」
俺は少し間を置いた。
「地図そのものが、書き換えられています」
全員が俺を見た。
「意図的に、ですか」
コリンが言った。
「はい。誤差や経年変化ではなく、全体的に同じ方向にズレている。自然にはこうならない」
「誰が」
「わかりません。ただ、この地図を信じて北東に動けば、実際の位置からズレた場所に行くことになります」
「罠ですか」
「罠、というより」
俺は少し間を置いた。
「準備だと思います。この地図を使う人間が、ズレた場所に誘導されるように、前もって仕込んである」
室内が静かになった。
アーヴィンさんが言った。
「いつから」
「わかりません。ただ、三年前以前には仕込まれていた可能性があります」
「三年前というのは」
「リアさんとコリンさんの師匠が消えた時期と、重なります」
リアが少し目を細めた。
コリンが静かに息を吸った。
どちらも、何も言わなかった。
でも、色が変わった。
俺は地図を畳んだ。
「この地図は使いません」
「では、どうする」
「現地で確認します。羅針盤と、リアさんの索敵を組み合わせて、実際の地形を把握してから動きます」
「時間がかかる」
「かかります。でも、ズレた地図で動くよりは確実です」
ミルヴァが少し間を置いた。
「それでいこう」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「現地確認中に動かれる可能性がある」
「そのための段取りが必要です」
俺は全員を見た。
「確認しながら動きます。リアさんが索敵して、前方の安全を確認してから進む。ミルヴァさんが先行して、気配を拾う。俺が羅針盤で全体の位置を把握する」
「はい」
「問題はありません」
「わかった」
「アーヴィンさんとマユミさんは前衛。コリンさんは後方支援と結界の準備をお願いします」
「はい」
「行くか」
マユミが立ち上がった。
「急ぎません」
「わかってる」
「でも、今日中に現地の地形を把握したいです」
「動けばいい」
全員が立った。
マルティナさんが全員を見た。
一言だった。
「全員で帰ってこい」
「はい」
扉を出た。
北東の森に向かった。
半日の距離だった。
道中は静かだった。
ミルヴァが先行した。
音がしなかった。
俺は羅針盤を確認しながら歩いた。
北東の反応が、少しずつ強くなっていた。
でも、地図上の位置とは違った。
やはり、西にズレていた。
「ヒコさん」
リアが言った。
「はい」
「前方、二百メートルに反応があります」
「動いていますか」
「静止しています。ただ」
「ただ」
「一つだけです」
俺は少し間を置いた。
「一つだけ、静止している」
「はい」
「群れではない」
「そのようです」
ミルヴァが戻ってきた。
「一匹いる。グレイウルフだ。ただ、動かない」
「怪我をしていますか」
「いや、健康そうだ」
「なぜ動かない」
「わからない。だから戻った」
俺は少し間を置いた。
健康なグレイウルフが、単独で静止している。
この森の魔物は群れで動く。
単独で動かないのは、おかしかった。
「見張りですか」
コリンが言った。
「見張り、というより」
俺は羅針盤を確認した。
グレイウルフの方向に、かすかな反応があった。
でも、その奥にも反応があった。
グレイウルフよりも、強い反応だった。
「奥に何かいます」
「何だ」
「わかりません。ただ、グレイウルフよりも強い反応です」
「上位種か」
「可能性があります」
アーヴィンさんが少し前を向いた。
マユミが双剣に手をかけた。
「どうする」
マユミが俺を見た。
俺は少し間を置いた。
「迂回します」
「戦わないのか」
「今日は地形の把握が目的です。戦闘は目的じゃない」
「でも、いずれ当たる」
「当たるときに、ちゃんと備えて当たります。今日は情報を取る」
マユミが少し間を置いた。
「わかった」
「ミルヴァさん、迂回ルートを確認してください」
「もう見てある」
「さすがです」
「当然だ」
ミルヴァが先に動いた。
全員が続いた。
グレイウルフから大きく西に回った。
森の中を進んだ。
地図では、密林のはずだった。
でも、実際は違った。
獣道があった。
細かったが、続いていた。
歩ける道だった。
「地図と違いますね」
コリンが言った。
「はい。地図では通れない場所です」
「誰かが使っている道ですか」
「最近、使われている痕跡があります」
ミルヴァが地面を確認した。
「獣道じゃない。人間の足跡だ」
俺は少し間を置いた。
「魔族ですか」
「わからない。ただ、靴を履いている」
「魔族も靴を履きますか」
「上位の個体は履く」
俺は羅針盤を確認した。
足跡の方向に、かすかな反応があった。
弱かった。
でも、あった。
「先に誰かがいます。ただ、気配は弱い。隠れている可能性があります」
「追いますか」
リアが言った。
「今日は追いません。位置だけ確認します」
「はい」
俺は羅針盤で方向と距離を把握した。
北東の、森の奥だった。
地図上では、何もない場所だった。
でも、そこに何かがあった。
確かに、あった。
日が傾く前に引き返した。
全員が無事だった。
戦闘はなかった。
でも、わかったことがあった。
帰り道、俺は整理した。
地図がズレている。意図的に。
グレイウルフが単独で静止していた。見張り、あるいは誘導。
奥に上位種がいる。
人間の足跡がある道がある。
地図にない場所に、何かがある。
全部つながっていた。
でも、まだ全体の絵が見えなかった。
もう一段、情報が必要だった。
「ヒコ」
マユミが隣を歩いていた。
「はい」
「何が見えた」
「準備されています」
「俺たちを待ってるってことか」
「待っている、というより」
俺は少し間を置いた。
「誘導している、という方が近いかもしれません」
「どこへ」
「まだわかりません。でも、どこかへ引っ張ろうとしている」
「乗るか」
「乗り方を決めてから、乗ります」
マユミが少し間を置いた。
「乗り方を決める、か」
「こちらが把握した上で動けば、向こうの想定を外せます」
「そういうもんか」
「現場ではよくあります。段取りを知っている方が、相手の段取りを崩せる」
マユミが少し前を向いた。
「お前、現場の話になると生き生きするな」
「そうですか」
「そうだ」
俺は少し間を置いた。
「五十年分ですから」
マユミが少し笑った。
「そうか」
街が見えてきた。
全員が揃っていた。
今日は何もわからないまま終わらなかった。
ズレがあるとわかった。
それで十分だった。
次の段取りが、組める。
急がない。
でも、止まらない。
第百二十七話「ズレ」了




