第三幕「選択」第百二十六話「始まり」
翌日だった。
朝食が出た。
干し肉のスープだった。
黒パンがついていた。
普通の日の食事だった。
誰も余計なことを言わなかった。
食べ終わってから、羅針盤を確認した。
東の反応は、昨日よりさらに薄くなっていた。
北の反応が、かすかにあった。
いつもと同じだった。
でも、一瞬だけ針が逆を向いた。
南だった。
すぐに戻った。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいではなかった。
何かが変わり始めていた。
「セリウスさんから呼ばれています」
コリンが言った。
「わかりました」
全員で向かった。
ギルドのマスター室だった。
セリウスさんが、椅子に座っていた。
いつもの穏やかな顔だった。
でも、少し違った。
色が、重かった。
「来てくれましたか」
「はい」
セリウスさんが全員を見た。
一人ずつ確認するように見た。
「本部から、連絡が来ました」
室内が静かになった。
「魔族側が、動き始めました」
誰も、声を出さなかった。
「対象は」
「あなたたちのパーティです」
長い沈黙があった。
アーヴィンさんが少し前を向いた。
マユミが俺を見た。
リアが目を閉じた。
コリンが静かに息を吸った。
ミルヴァが腕を組んだ。
俺は少し間を置いた。
「具体的には」
「東の拠点が制圧されました。それが魔族本体に伝わった。昨夜の時点で動きが確認されています」
「場所は」
「今は特定できていません。ただ、方向はわかっています」
セリウスさんが机の上に地図を広げた。
北だった。
羅針盤と、同じ方向だった。
「北ですか」
「はい。《霧裂きの穴》の方角です」
俺は羅針盤を取り出した。
針が、北を向いていた。
さっき一瞬逆を向いた方向の、逆だった。
南から何かが来る。
北に何かがある。
朝の違和感が、つながった。
「ヒコさん」
セリウスさんが俺を見た。
「その羅針盤は、今どちらを向いていますか」
「北です」
「そうですか」
セリウスさんが少し間を置いた。
「レインも、北を向いていました。あの子が消える前の夜」
室内が静かになった。
アーヴィンさんが、少し目を細めた。
でも、何も言わなかった。
「セリウスさん」
「はい」
「魔族側は、何を狙っていますか」
セリウスさんが少し前を向いた。
「可視化スキルです」
「俺を消すということですか」
「消す、だけではないかもしれません」
「どういう意味ですか」
「過去に可視化を持っていた者たちは、全員Bランク以上になる前に消えました。あなたは今、Bランクです」
「はい」
「消えた理由が、Bランク到達だったとすれば」
俺は少し間を置いた。
「狙う理由が、今の俺にはある」
「そういうことです」
セリウスさんが静かに言った。
「ただ、今回は少し違います」
「違う点は」
「あなたには、パーティがいます」
俺は少し間を置いた。
それだけだった。
でも、それが全部だった。
「セリウスさん」
「はい」
「待っていれば、向こうが動いてきますか」
「可能性は高いです」
「向こうが動くまでの間、こちらはどうしますか」
セリウスさんが少し俺を見た。
「どういう意味ですか」
「待つのか、動くのか、ということです」
セリウスさんが少し沈黙した。
「それは、あなたたちが決めることです」
俺は全員を見た。
マユミが目を合わせた。
アーヴィンさんが静かに頷いた。
リアが小さく言った。
「合理的な判断をするべきです」
コリンが言った。
「どちらにも、リスクがあります」
ミルヴァが言った。
「待てば、向こうのペースになる」
俺は少し間を置いた。
「待ちません」
全員が俺を見た。
「動きます」
セリウスさんが静かに言った。
「そうですか」
「待って守れるなら、待ちます。でも、向こうが動いているなら、こちらも動く方が段取りが組みやすい」
「根拠は」
「現場では、受け身でいると後手に回ります。先に状況を確認して、動ける範囲を広げておく方が、対処できることが増えます」
セリウスさんが少し間を置いた。
「なるほど」
「ただし、急ぎません」
「急がない」
「はい。段取りを先に組みます。情報を集めて、装備を確認して、全員の状態を整えてから動きます」
「その間に動かれたら」
「そのときは、そのときの判断をします」
セリウスさんが少し間を置いた。
それから、静かに笑った。
「急ぎません、ですか」
「はい」
「あなたがその言葉を使うのを、初めて聞いたわけではありません」
「そうですか」
「レインも、よく言っていました」
室内が静かになった。
羅針盤の針が、かすかに揺れた。
北を、向いていた。
「セリウスさん」
「はい」
「レインは、今もそこにいますか」
セリウスさんが少し間を置いた。
「わかりません。ただ」
「ただ」
「その羅針盤が北を向いている間は、まだ繋がっているのだと、俺は思っています」
俺は羅針盤を見た。
針は、静かに北を指していた。
動かなかった。
でも、確かにそこにあった。
「わかりました」
俺は立ち上がった。
「まず、情報を集めます。北の方角で何が起きているか。魔族の動きの規模と方向。それが揃ってから、次の段取りを組みます」
「情報の収集ルートは」
「ミルヴァさんにお願いします」
ミルヴァが頷いた。
「旧ルートを使う。半日あればある程度は出る」
「コリンさんとリアさんは、装備の点検と補給の確認をお願いします」
「はい」
「問題はありません」
「アーヴィンさんは」
アーヴィンさんが少し前を向いた。
「わかった」
それだけだった。
でも、意味はわかった。
「マユミさんは」
「俺も動く」
「ありがとうございます」
俺はセリウスさんを見た。
「本部との連絡は、続けてください。動きがあれば教えてください」
「わかりました」
セリウスさんが少し間を置いた。
「ヒコさん」
「はい」
「始まります」
「はい」
俺は少し間を置いた。
「わかっています。でも、段取りは変わりません」
セリウスさんが静かに頷いた。
「気をつけて」
「はい」
全員で部屋を出た。
廊下に出た。
全員が揃っていた。
マユミが俺の隣を歩いた。
「怖いか」
「怖いです」
「そうか」
「でも、動く方が楽です」
「どういう意味だ」
「待っている間の方が、余計なことを考えます」
マユミが少し笑った。
「それはそうだな」
「段取りが決まれば、動けます」
「お前はいつもそうだな」
「現場仕込みなので」
マユミが少し前を向いた。
「俺も動く。前は俺が守る」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
全員が外に出た。
空は晴れていた。
でも、どこか重かった。
北の方角を見た。
《霧裂きの穴》がある方向だった。
レインがいる方向だった。
魔族が動いている方向だった。
全部、同じ方角だった。
羅針盤を確認した。
針は北を向いていた。
まっすぐに、北だった。
急がない。
でも、止まらない。
第三幕「選択」第百二十六話「始まり」 了




