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第百二十二話「羅針盤が、逆を指した」

 数日後の夜だった。


 部屋に一人でいた。


 羅針盤を手に持っていた。


 いつもの確認だった。


 針が、東を向いていた。


 拠点がある方向だった。


 いつも通りだった。


 次の瞬間だった。


 針が、動いた。


 ゆっくりと、逆を向いた。


 西だった。


 俺は少し止まった。


 拠点は東のはずだった。


 なぜ、逆を向いた。


 針が、また動いた。


 今度は、止まらなかった。


 ゆっくりと、回り続けた。


 一周した。


 また一周した。


 止まった。


 北を向いていた。


 北には、何もなかった。


 でも、針は止まっていた。


 羅針盤を、じっと見た。


 何かを感じた。


 声ではなかった。


 圧でもなかった。


 気配に近かった。


 でも、生きている人間の気配ではなかった。


 何かが、語りかけようとしていた。


 でも、言葉にならなかった。


 俺は少し間を置いた。


「誰かいますか」


 声に出した。


 部屋が静かだった。


 答えはなかった。


 でも、針が少し動いた。


 一瞬だけ、東を向いた。


 また北に戻った。


 東と北を、交互に示していた。


 何かを伝えようとしていた。


 でも、まだ言葉にならなかった。


 羅針盤を握ったまま、横になった。


 目を閉じた。


 眠れなかった。


 何かが、近くにいる感じがした。


 敵ではなかった。


 でも、知らない何かだった。


 そのまま、朝になった。



 翌朝だった。


 朝食を終えてから、セリウスさんのところに向かった。


 今日は一人だった。


「昨夜、羅針盤が逆を指しました」


 セリウスさんが少し止まった。


「逆、というのは」


「東を向いていたのに、突然逆を向きました。その後、回り続けて北で止まりました。東と北を交互に示していました」


「何かを感じましたか」


「気配のようなものを感じました。生きている人間ではありませんでした。でも、語りかけようとしている感じがしました」


 セリウスさんが少し前を向いた。


 長い沈黙があった。


「セリウスさん」


「はい」


「心当たりがありますか」


 セリウスさんが少し間を置いた。


「一つ、話さなければならないことがあります」


「はい」


「羅針盤について、俺が知っていることを話します」


 俺は椅子に座り直した。


「あの羅針盤は、ただの道具ではありません」


「知っています。スキルと連動しています」


「それだけではありません」


 セリウスさんが静かに言った。


「あの羅針盤には、以前に持ち主がいました」


 俺は少し止まった。


「以前の持ち主、というのは」


「レインです」


 静かになった。


 部屋が、しんとした。


「レインが、あの羅針盤を持っていた、ということですか」


「そうです。レインが消える前、あの羅針盤はレインのものでした」


「でも、俺は《霧裂きの穴》の三層で拾いました」


「はい。レインが消えたとき、あの場所に羅針盤が残されていました。誰かが拾うまで、ずっとそこにあったのだと思います」


「セリウスさんは、知っていたんですか」


「レインが羅針盤を持っていたことは、知っていました」


「なぜ、今まで話さなかったんですか」


 セリウスさんが少し間を置いた。


「あなたがその羅針盤を拾い、スキルと連動し始めたとき、話すべきかどうか迷いました。でも、まだ段階が早いと思った。今日のように、羅針盤が動き始めたタイミングで話すべきだと、待っていました」


「そうですか」


「遅くなりました。申し訳ありません」


 俺は羅針盤を見た。


 いつもと変わらない見た目だった。


 古びたコンパス型だった。


 でも、今は違う重さがあった。


「レインも、同じように使っていたんですか」


「そうです。レインの可視化スキルと連動して、羅針盤は動いていました」


「スキルが成長するほど、羅針盤も成長していたということですか」


「そうです。レインの段階まで成長していた羅針盤が、今あなたのもとにある」


「だから、成長が早かったんですか」


「一つの理由として、そうかもしれません」


 俺は少し間を置いた。


「昨夜の気配は、レインですか」


 セリウスさんが少し目を細めた。


「断言はできません。ただ、可能性はあります」


「なぜ今になって」


「スキルが第四段階に近づいたことで、羅針盤の感度が上がった可能性があります。以前は届かなかったものが、届くようになった」


「レインは、どこにいるんですか」


「わかりません。消えた場所は《霧裂きの穴》の近くでした。でも、今どこにいるかは、俺にもわかりません」


「生きていますか」


 セリウスさんが少し間を置いた。


「わかりません。ただ」


「ただ」


「消えた、というのは、死んだとは限りません。レインの場合は特に」


「どういう意味ですか」


「レインも可視化を持っていました。スキルの性質上、ただ消えるだけでは終わらない可能性があります」


「羅針盤に残っている、ということですか」


「可能性の話です。ただ、昨夜あなたが感じた気配が、それである可能性は否定できません」


 俺は羅針盤を握った。


 針が、少し動いた。


 北を向いた。


 また東を向いた。


 交互だった。


「北と東を示しています」


「今もですか」


「はい」


 セリウスさんが少し前を向いた。


「北は、レインが最後にいた場所の方向です」


「《霧裂きの穴》ですか」


「はい。東は、仲介業者の拠点がある方向です」


「両方を示している」


「そうですね」


 俺は少し考えた。


「レインが、何かを伝えようとしている、ということですか」


「可能性があります。ただ、まだ言葉にならない段階です」


「第四段階に移行すれば、届くようになりますか」


「わかりません。ただ、スキルが成長するほど、羅針盤との連動が深まります。いずれは、はっきりするかもしれない」


「いずれは」


「急ぎません」


 セリウスさんがまた、俺の口癖を使った。


 今回は、違う感じがした。


 励ましに近かった。


「わかりました」


 俺は羅針盤をしまった。


「一つお願いがあります」


「なんですか」


「アーヴィンさんに、話してもいいですか」


 セリウスさんが少し間を置いた。


「はい。話してください」


「わかりました」


「ただ、全員に話すかどうかは、あなたが判断してください」


「はい」


 部屋を出た。


 廊下を歩いた。


 頭の中が、静かだった。


 レインが羅針盤の以前の持ち主だった。


 昨夜の気配は、レインかもしれなかった。


 北と東を示している。


 《霧裂きの穴》と、仲介業者の拠点。


 繋がっていた。


 全部が、繋がっていた。


 俺は歩きながら、羅針盤を確認した。


 針が、静かに止まっていた。


 北を向いていた。


 待っていた。


 何かを、待っていた。


 俺も、待つ。


 でも、止まらない。


 それが、現場仕込みだった。



 宿に戻った。


 アーヴィンさんを探した。


 食堂にいた。


「少し、いいですか」


 アーヴィンさんが俺を見た。


「なんだ」


「羅針盤のことで、話があります」


 アーヴィンさんが少し止まった。


「聞く」


 二人で食堂の隅に座った。


 俺は話した。


 羅針盤の以前の持ち主がレインだったこと。


 セリウスさんから聞いたこと。


 昨夜、気配を感じたこと。


 北と東を示していること。


 全部話した。


 アーヴィンさんが静かに聞いていた。


 途中で何も言わなかった。


 最後まで聞いた。


 長い沈黙があった。


「レインが、その羅針盤を持っていたと」


「はい。セリウスさんから聞きました。知っていましたか」


 アーヴィンさんが少し間を置いた。


「知っていた。レインがいつも持ち歩いていた。」


「そうですか」


「お前が《霧裂きの穴》で拾ったとき、少し驚いた」


「驚いた、というのは」


「レインのものが、お前のところに渡った。それが、偶然には思えなかった」


 アーヴィンさんが少し前を向いた。


「お前が持ってくれて、よかった」


「そうですか」


「レインが消えたとき、俺には何もできなかった。でも」


 アーヴィンさんが少し間を置いた。


「今は、お前がいる」


 俺は少し間を置いた。


「繋がっていると思います。羅針盤が示しているものが、レインの消えた場所と仲介業者の拠点、両方です」


「両方を解決すれば、レインのことも動くかもしれない」


「そう思います」


「段取りを組む」


「はい」


「お前が組め」


「はい。組みます」


 アーヴィンさんが少し前を向いた。


 深い青が、落ち着いていた。


 でも、その中に、静かな熱があった。


 五年間、抱えてきたものが、少し形になった色だった。


 俺は羅針盤を確認した。


 針が、北を向いていた。


 静かに、待っていた。


 まだ、言葉にならなかった。


 でも、確かにそこにいた。


 急がない。


 でも、見続ける。


 それが、現場仕込みだ。



第百二十二話「羅針盤が、逆を指した」 了


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