第百四話「三層の霧と、声」
三層の霧は、深かった。
一歩進むごとに、白くなった。
視界が二メートルを切った。
足音が、吸われた。
自分の足が地面に触れている感覚はあった。
でも、音がなかった。
方向感覚が、少しずつ狂い始めた。
コリンが言った。
「結界、維持しています」
「ありがとうございます」
全員の色が流れ込んでいた。
六つの色が、はっきり感じられた。
これがなければ、もう位置を見失っていた。
羅針盤を確認した。
針が、真っ直ぐ下を向いていた。
オルディスは、まだ下の層にいる。
でも、何かが近かった。
針の動き方が、少し違った。
震えていた。
五十メートルほど進んだところだった。
止まった。
感じた。
声ではなかった。
でも、何かが語りかけていた。
頭の中に、直接来る感じだった。
言葉ではなかった。
圧だった。
「全員、止まってください」
全員が止まった。
静かになった。
霧だけがあった。
ミルヴァが小声で言った。
「何かあるか」
「わかりません。ただ、羅針盤の反応が変わっています」
針を見た。
震えが大きくなっていた。
下だけではなかった。
周囲にも、反応があった。
「周囲に何かいます。数は」
リアが言った。
「索敵に引っかかりません」
「霧に同化しているんだと思います」
アーヴィンさんが静かに言った。
「右前方」
全員が止まった。
霧が、少し動いた。
形になりかけた。
なりかけて、消えた。
マユミが手を剣にかけた。
「分身か」
「可能性があります。まだ抜かないでください」
「わかった」
俺は羅針盤を見た。
針が、右前方を向いた。
次に、左後方を向いた。
また、正面を向いた。
動きすぎていた。
読めなかった。
これが、霧の中での情報過多だった。
セリウスさんが言っていた。
見えすぎることで、迷う。
深呼吸をした。
一つずつ、確認する。
急ぎません。
「羅針盤の反応が多すぎます。リアさん、霧の流れを確認できますか」
「やってみます」
リアが小さく風魔法を使った。
霧が、わずかに動いた。
流れができた。
一か所だけ、動かなかった。
「正面、十メートル先。霧の流れが止まっています」
「そこが本体ですか」
「断言はできません。ただ、他と違います」
俺は羅針盤を正面に向けた。
針が、少し強く反応した。
「そこだと思います。ただ、まだ動かないでください」
「なぜだ」
マユミが言った。
「まだ段取りが整っていないからです」
マユミが少し間を置いた。
「わかった」
その瞬間だった。
霧刃が来た。
音がなかった。
見えなかった。
アーヴィンさんが動いた。
《沈黙の長剣》で受けた。
火花が散った。
静かな火花だった。
音がしなかった。
「来ました」
「わかってる」
アーヴィンさんが剣を構えた。
霧の中で、気配が動いた。
複数だった。
「分身を展開しています。落ち着いてください」
コリンが言った。
「結界、限界ではありません。まだ保てます」
「ありがとうございます」
俺は頭の中で整理した。
本体は正面十メートル。
分身が複数、周囲を動いている。
霧刃は不可視。
アーヴィンさんが正面を抑えている。
ミルヴァはまだ動いていない。
マユミが待っている。
リアが霧を読んでいる。
コリンが結界を維持している。
全員が、役割を持っていた。
段取りを組む。
「リアさん、分身の位置を絞れますか」
「やります」
リアが風魔法を流した。
霧が動いた。
いくつかの形が、浮かんで消えた。
「左に二体、右後方に一体。正面の反応が一番強い」
「本体は正面で確定します」
「はい」
「アーヴィンさんは正面を抑え続けてください。ミルヴァさん」
「わかってる」
ミルヴァが消えた。
音がしなかった。
霧の中に溶けた。
「マユミは側面で待機。本体が露出したときに動いてください」
「わかった」
「コリンさんは結界の維持を最優先。リアさんは霧の制御を続けてください」
「はい」
「了解です」
段取りが、整った。
霧の中で、また何かが動いた。
圧が来た。
頭の中に、直接来る感じだった。
今度は、少し違った。
言葉に近かった。
聞こえた。
一言だった。
―― 見えるか。
俺は少し止まった。
羅針盤を握った。
針が震えていた。
でも、向きははっきりしていた。
正面だった。
「見えています」
小声で言った。
全員が俺を見た。
マユミが言った。
「何か言ったか」
「はい。オルディスが、語りかけてきました」
静かになった。
アーヴィンさんが正面を見たまま言った。
「何と言った」
「見えるか、と」
アーヴィンさんが少し間を置いた。
「答えたのか」
「はい」
「何と」
「見えています、と」
アーヴィンさんが静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
でも、アーヴィンさんの色が少し変わった。
深い青が、鋭くなった。
覚悟が増した色だった。
霧が、また動いた。
今度は大きかった。
四層から来るはずの霧が、三層全体を押し上げるように動いた。
視界が、一メートルを切った。
コリンが言った。
「結界、負荷が上がっています」
「わかりました。撤退の判断をします」
全員が俺を見た。
俺は羅針盤を確認した。
針は正面を向いていた。
ぶれていなかった。
全員の色が、流れ込んでいた。
六つ、全部あった。
誰も、欠けていなかった。
撤退するか。
いや、違う。
今ここで引いたら、また来ることになる。
次は今日より条件が悪くなるかもしれない。
段取りは、整っていた。
全員が、役割を持っていた。
ここで組む。
「撤退しません。このまま段取りを進めます」
マユミが言った。
「そうか」
「はい。コリンさん、あとどのくらい保てますか」
「十分は問題ありません」
「十分あれば十分です。急ぎません。でも、動きます」
「了解です」
リアが言った。
「霧の流れを大きく動かします。一瞬だけ視界が開きます」
「そのタイミングで本体を確認します」
「はい。合図をします」
「お願いします」
霧の中で、全員が静かに構えた。
オルディスが、また動いた。
霧が揺れた。
リアが言った。
「今です」
風魔法が走った。
霧が、一瞬だけ割れた。
正面に、それがいた。
形があった。
霧でできた体だった。
でも、胸に、核があった。
光っていた。
暗い光だった。
「本体確認。胸部に核があります」
全員が動いた。
アーヴィンさんが踏み込んだ。
ミルヴァが、霧の向こうから現れた。
マユミが側面から走った。
三方向から、同時だった。
次の瞬間、霧が戻った。
また白くなった。
でも、全員の位置は感じていた。
六つの色が、全部あった。
衝撃音がした。
霧の中で、何かが軋んだ。
オルディスが、動いた。
第百四話「三層の霧と、声」 了




