第4章 第8話 名前を出した夜
間宮を責めた翌日、澪は学校で目立たないように過ごした。
けれど、目立たないようにするほど、周囲の視線は気になる。直人は朝の挨拶をしただけで、詳しい話をしなかった。光一も必要以上に近づかない。
それが配慮だと分かっているから、余計につらかった。
昼休み、澪は図書室の奥の席に座っていた。
そこへ、千秋が来た。
支援センターの利用者が学校の図書室へ来ることは珍しい。三枝に付き添われているわけでもない。千秋は入口で少し迷い、澪を見つけると、ゆっくり近づいてきた。
「篠宮さん」
「千秋さん。どうしたの」
「聞きました。間宮さんのこと」
澪の胸が冷える。
「誰から」
「センターで。先生たちが話してました」
澪は顔を伏せたくなった。
自分が教室で言い切った言葉は、もう外へ出ている。間宮がやったのではないか。そんな疑いは、本人だけでなく、彼が関わる場所全体を揺らす。
「ごめんなさい」
澪は言った。
千秋は首を横に振った。
「謝ってほしくて来たんじゃないです」
「じゃあ」
「間宮さん、悪い人じゃないです。でも、怖い人です」
澪は顔を上げた。
「怖い?」
「やさしいことを、紙で決めるから」
千秋はそれ以上うまく言葉にできないようだった。澪は黙って待った。
「支援センターに来る時間とか、避難のときの動き方とか、相談室を使うかどうかとか。間宮さんは、全部を守るために整理してくれます。でも、整理されると、わたしはその通りにしないといけない気がする」
「対象外のメモは?」
「間宮さんの字じゃないと思います。でも、ああいう言葉が来たとき、逆らえなかったのは、いつも紙で動いていたからかもしれません」
澪はノートを開いた。
間宮は犯人ではない。だが、仕組みの中心にはいる。
仕組みそのものが、誰かを動かす文体を持っている。
「千秋さん。対象外のメモを見たとき、誰かに相談しようと思わなかった?」
「思いました。でも、わたしが対象外なら、相談するのも違うのかなって」
澪は胸が詰まった。
言葉は人を動かす。書類の言葉も、メモの言葉も、誰かの声より強くなることがある。
その日の夕方、澪は間宮へ謝罪のメールを書いた。
何度も消して、書き直す。
『昨日は、根拠が不十分なまま、あなたが事故に関わっていると断定する発言をしました。申し訳ありませんでした。』
そこまで書いて、手が止まる。
申し訳ないと思っている。けれど、同時に聞きたいこともある。謝罪と質問を同じメールに入れるのは都合がよすぎるかもしれない。澪は悩んだ末、謝罪だけを送った。
返事は夜に来た。
『謝罪は受け取ります。あなたが疑問を持ったこと自体は、間違いではありません。ただし、疑問と断定の間には距離があります。そこを大切にしてください。』
澪は画面を見つめた。
怒られるより、ずっと痛かった。
翌日、直人が澪にノートを渡した。
「何これ」
「僕が見た篠宮さんです」
ページには、これまでの澪の発言が時系列で書かれていた。
照明のとき――報告書を先に求めた。
支援センター――怒りが場所を怖くした。
青葉の家――冬馬の理由より危険性を先に言った。
会議――資料を求める言葉が相手を追い詰めた。
間宮面談――できることを、やったこととして扱った。
澪はページを閉じたくなった。
「ひどいノート」
「すみません」
「でも、必要なノート」
直人は少しだけ驚いた顔をした。
澪はページを戻し、一行ずつ読み直した。
「わたし、光一の真似をしてるつもりだったのかな」
「真似というより、雨宮くんの強そうなところだけ持っていこうとしていた感じです」
「本当にひどいこと言うね」
「言う役が必要かなと思って」
澪は小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
そこへ光一が来た。
「何の話?」
「直人くんに、わたしの失敗一覧をもらってた」
「見たい」
「見せない」
澪はノートを胸に抱えた。
光一が少しだけ笑う。
その笑い方が、以前より遠慮しているように見えた。
「光一」
「何」
「わたし、先に立つの、下手だね」
「下手だな」
即答だった。
澪はむっとしたが、少し救われた。
「でも、立つなとは言わないの?」
「言わない。俺が言えることじゃない」
「経験者だから?」
「失敗者だから」
光一は窓の外を見た。
「先に立つと、正しさが風よけになる。自分は誰かを守ってると思える。でも、後ろにいる人の声が聞こえなくなる」
澪は直人のノートを見た。
そこには、聞こえなくなった声が書かれていた。
その夜、澪はもう一通、間宮にメールを書いた。
『質問があります。第三避難先の情報を、個人を守りながら現場に伝える方法はありますか。わたしは、それを知りたいです。』
送信ボタンを押すまでに、時間がかかった。
けれど、押したあと、胸の中で何かが少しだけ動いた。
澪は先に歩き出した。だが階段の前で止まり、手すりの向こうを確かめる。
澪は振り返った。直人がノートを閉じ、光一が小さく頷いたのを見てから、もう一度前を向いた。
澪はその言葉を、直人のノートの最後に書き足した。
間宮からの返信は、翌日の昼に届いた。
『現場に渡せる情報は、名前ではなく手順にすべきだと思います。対象者を示すのではなく、どんな状況ならどこへ連絡するかを共有する。完全ではありませんが、最初の形にはなります』
澪はスマホの画面を閉じ、職員室前の廊下で立ち止まった。
手順なら、名前を出さずに済む。だが、名前を出さない手順は、困っている人の顔をまた薄くしてしまうかもしれない。
職員室から出てきた三枝が、澪に気づいた。
「篠宮さん。千秋さんから、伝言を預かっています」
澪の背中が固くなる。
「何ですか」
「『また来るかは分からない。でも、次に来たとき大きい声はやめて』とのことです」
澪は、思わず息を吐いた。
怒られるより、ずっと痛かった。
「分かりました」
「それから」
三枝は少しだけ表情を和らげる。
「『でも、閉じ込められたことをなかったことにしないで』とも」
澪は頷いた。
廊下の端で、光一と直人が待っている。直人はノートを開いていない。光一はポケットに手を入れ、二人分の距離を残して立っていた。
澪は二人のところへ戻る。
「千秋さん、また来るか分からないって」
「そうか」
「でも、なかったことにしないでって」
光一は短く頷いた。
直人が、そこで初めてノートを開いた。
「篠宮さん、今のは書いていいですか」
「名前は書かないで」
「はい」
直人は、名前の代わりに『相談室の子』と書きかけて、手を止めた。
「これも、少し雑ですね」
「雑だね」
澪は言った。
「じゃあ、どう書く?」
直人は悩んだ末に、こう書いた。
閉じ込められたことを、なかったことにしない人。
澪はその文字を見て、すぐには何も言えなかった。
放課後、三人は旧南部研修所の地図を広げた。新施設案の中心になる建物だ。図面には改修予定の部屋が色分けされている。学習スペース、相談室、活動室、地域交流室。
きれいな色だった。
きれいすぎて、誰がそこまで来られないのかが見えない。
「ここ、バス停から遠い」
直人が言う。
「坂もある」
光一が地図の等高線を指でなぞった。
澪は、間宮へ送る次の質問を書いた。
『手順案に、移動できない人の確認を入れてください。建物の安全だけでは足りません』
送信する前に、澪は一度だけ直人を見る。
「今、確認してもらおうとしたでしょ」
直人が言った。
「した」
「しないんですか」
「するか迷ってる」
「迷ってからなら、いいと思います」
澪はスマホを直人に渡した。
直人は文面を読み、誤字だけを一つ直して返した。
光一がそれを見て笑う。
「共同作業っぽくなったな」
「からかわないで」
「からかってる」
澪は送信ボタンを押した。今度は、一人で押したという感じはしなかった。
旧南部研修所の図面には、手書きの修正がいくつも残っていた。
倉庫だった部屋に『相談』、宿泊室だった部屋に『学習』、食堂だった場所に『交流』。名前を変えるだけで、中身まで変わるように見える。だが、窓の位置も、階段の狭さも、坂道も、紙の上ではあまり変わらない。
澪は蛍光ペンを置いた。
「きれいすぎる」
「何が」
光一が聞く。
「図面。困ってる人がどこで止まるかが、どこにもない」
直人がバス停から建物までの道を別紙に描き始めた。坂、歩道の狭いところ、街灯のない区間。図面の外側が、少しずつ紙の中へ入ってくる。
「建物の中だけ見てた」
澪は言った。
「ここに来るまでがあるのに」
「それは施設課も見落とすかもな」
光一が言う。
「建物を作る部署だから」
「でも、使う人は建物から始まらない」
澪はその言葉をメモした。
使う人は、建物から始まらない。
少し標語みたいで嫌だったので、線を引いて消す。代わりに、バス停、坂、入口、受付、相談室の順に矢印を書いた。
そこへ三枝から電話が入った。
『千秋さんから、旧南部研修所は遠いと言われました。理由は、坂です』
澪は直人の描いた道を見た。
線の上に、千秋の声が重なる。名前は書かない。けれど、坂は残す。
電話を切ったあと、澪は図面の端に大きく書いた。
建物の外を先に見る。
光一はそれを見て、何も言わなかった。その沈黙が、今日は少しだけ助かった。




