第4章 第7話 会議室の沈黙
間宮を疑うと決めてから、澪の動きは速かった。
市の公開資料、議会の議事録、施設改修予算、過去三年分の避難訓練報告。学校の図書準備室にこもり、端末の画面をいくつも開く。
光一は途中で止めなかった。ただ、澪がプリントアウトした資料を一枚ずつ読み、矛盾するところに小さな付箋を貼っていく。
直人は、澪の資料の横に別の表を作っていた。
そこには、被害や不備ではなく、「その場所にいた人」が書かれていた。
図書館――警告メモを書いた可能性のある利用者
支援センター――千秋
青葉の家――冬馬
澪はその表を見て、少し苛立った。
「今は人情の整理じゃなくて、構造を追ってるの」
「人情じゃないです。構造の中で、誰が動かされたかです」
直人は珍しく引かなかった。
「間宮さんを疑うなら、その人たちをどう動かしたかが必要です」
「分かってる」
澪は何度目かのその言葉を使った。
分かっている。そう言うたびに、実際には分かっていないものが増えていく気がした。
放課後、澪は間宮にメールを送った。地域学習連携プログラムの追加質問として、第三避難先に関する聞き取りをしたい。そう書いた。
返事は意外に早かった。
『学校の許可を得たうえであれば応じます。ただし個人情報に関する資料は提示できません。』
翌日、間宮は学校へ来た。
空き教室に、澪、光一、直人、教頭が同席する。間宮は薄いファイルだけを持っていた。
「聞きたいことは何ですか」
澪は正面から切り込んだ。
「図書館、支援センター、青葉の家。三つの施設で、見落とされた人や場所があります。あなたは、第三避難先の対象者と施設状況を把握している。なら、現場に正確な情報を出さなかった責任があります」
間宮は頷いた。
「責任はあります」
その返答に、澪は一瞬詰まった。
否定されると思っていた。反論されると思っていた。けれど、間宮は逃げなかった。
「ただし、情報を出さなかったのは私一人の判断ではありません」
「組織の判断ですか」
「はい」
「便利な言い方ですね」
澪の声が冷えた。
光一が横から言う。
「篠宮」
「だってそうでしょ。組織の判断と言えば、誰も責任を取らなくて済む」
「責任を取らないためではありません」
間宮は静かに言った。
「情報を出すことで、支援対象の生徒が地域で特定される危険があるからです」
「でも、出さなかったせいで危険な場所へ行く」
「だから、私たちは個別連絡で補っています」
「補えていないから事故が起きているんです」
澪の声が大きくなった。
直人がノートを閉じる音がした。澪は気づいていたが、止まれなかった。
「あなたは、現場は見落としていないと言いました。でも実際には、千秋さんは対象外にされていた。誰かがメモで指示していた。図書館には警告メモがあった。青葉の家では去年、冬馬くんが数えられていなかった。全部、あなたの管理している情報の周辺で起きている」
「それは事実です」
「なら、あなたが関わっている」
言った瞬間、教室の空気が変わった。
光一が立ち上がりかける。教頭が顔を上げる。直人が澪を見る。
間宮だけが、表情を変えなかった。
「私が何に関わっていると?」
「第三避難先を危険に見せるための操作です。施設を閉じさせるか、予算を動かすか、そのどちらかのために」
澪は言い切った。
言い切ってしまった。
間宮はしばらく沈黙したあと、ファイルから一枚の紙を取り出した。
「これは、昨日提出した改善要望書の写しです。私は第三避難先の施設点検を強化するよう、半年前から申請しています。予算を動かすためです。ですが、事故を起こす必要はありません」
紙には、半年前の日付があった。
図書館の照明落下より前。支援センターの訓練より前。青葉の家の非常口より前。
澪は紙を見つめた。
自分の推理が崩れる音がした。
「でも、あなたなら」
「篠宮」
光一の声が低く響いた。
今度は止める声だった。
澪は口を閉じた。
間宮はファイルを閉じる。
「疑われる理由は理解します。ですが、篠宮さん。あなたは今、私が何をしたかではなく、私ならできるという理由で責めています」
その言葉は、澪の胸をまっすぐ刺した。
澪は名前の欄を順に追った。声に出せば、誰かが傷つく。黙れば、別の誰かが取り残される。
ペン先が、一人の名字の前で止まった。
面談はそこで終わった。
間宮が教室を出ていったあと、澪は椅子に座ったまま動けなかった。
直人が小さく言う。
「篠宮さん、今のは失敗だと思います」
優しい言い方ではなかった。
澪は顔を上げる。
「分かってる」
「その言葉、今日は使わないほうがいいです」
直人はノートを胸に抱えた。
「分かってるなら、途中で止まれたはずです」
澪は言い返せなかった。
光一は窓の外を見ていた。
「光一は、何か言わないの」
「言うと、篠宮は俺に止められたことにするだろ」
「……ひどい」
「ひどいことを言ってる。でも、今は言う」
光一は澪を見た。
「篠宮は、自分で止まる練習をしたほうがいい」
澪の目に、熱が上がった。
悔しい。恥ずかしい。間違えたと分かっているのに、認めたくない。
先に出ると決めた自分が、最初にした大きなことは、誰かを根拠の薄いまま責めることだった。
その日、澪は誰より早く学校を出た。
廊下の窓に映る自分の顔が、知らない人のように見えた。
翌朝、澪は一番早く教室に来ていた。
机の上には、昨日の面談で使った資料が置いてある。間宮の発言、自分の質問、直人の指摘。光一の「自分で止まる練習」という言葉だけは、どこにも書かれていないのに、紙の間から何度も出てくる気がした。
チャイム前の教室は、まだ人が少ない。窓際の席に朝日が当たり、埃がゆっくり動いている。
澪は間宮へ送る謝罪文を書いた。
一通目は、長すぎた。自分がなぜ焦ったのかばかり説明している。
二通目は、短すぎた。事務的で、怒らせた事実だけを避けている。
三通目で、ようやく手が止まった。
『昨日の面談で、あなたが実行した証拠ではなく、あなたなら実行できるという理由で責めました。失礼でした。あらためて、分類資料について伺わせてください』
送信ボタンを押す前に、光一が教室に入ってきた。
「早いな」
「見ないで」
「見てない」
「見ようとした」
「してない」
いつものやり取りが喉まで出た。澪はスマホを伏せ、光一を見る。
「昨日、止めなかったね」
「止めたら怒っただろ」
「怒ったと思う」
「だから止めなかった」
「怒らせないため?」
光一は机に鞄を置いた。
「違う。止められたってことにされるのが嫌だった」
澪は少しだけ黙った。
その言い方は優しくない。けれど、昨日の自分には必要だった。
直人が遅れて教室に入ってきた。ノートを抱え、二人を見るなり少しだけ眉を上げる。
「謝罪文ですか」
「見てないのに当てないで」
「篠宮さんの顔が、昨日の面談後と似ています」
澪はスマホを差し出した。
「読む?」
直人は首を横に振った。
「送るかどうかは、篠宮さんが決めてください。僕が読むと、また人の目を借りたことになります」
光一が窓の外を見た。澪はその横顔を見ず、送信ボタンを押した。
音は鳴らなかった。
ただ、画面の上で紙飛行機の印が消えた。
昼休み、間宮から返信が届いた。
『謝罪は受け取ります。分類資料については、放課後に持参します』
澪はその文面を直人に見せなかった。見せたい気持ちはあった。うまくいったと確認してほしかった。けれど、スマホを伏せる。
「何か来たのか」
光一が聞く。
「来た」
「よかったな」
「まだよくない。資料を見てから」
光一は少しだけ笑った。
放課後、間宮は約束通り学校に来た。会議室の机に置かれた資料は、名前の欄が黒く塗られている。だが、分類だけは残っていた。通学困難、家庭事情、支援継続、施設依存。
澪は最初の質問を、昨日より遅く出した。
「この分類で、現場が動ける情報と、動けない情報を分けられますか」
間宮は頷いた。
直人のペンが、静かに走り始めた。
間宮との再面談が終わったあと、澪は廊下で一人になった。
光一と直人は先に教室へ戻っている。わざと一人にされたのかもしれないし、ただ資料を取りに行っただけかもしれない。どちらでもよかった。
窓の外では、校庭のラインを引き直す生徒が白い粉を撒いている。まっすぐ引いたつもりの線が、遠くから見ると少し曲がっている。引いた本人は気づかない。
澪はスマホを開き、昨日の謝罪文を読み返した。
短い文だった。足りない気もする。言い訳を足したい気もする。けれど、足せば足すほど、自分が楽になるための文章になりそうだった。
「篠宮さん」
直人が戻ってきた。
「雨宮くん、資料室です。呼びに来ました」
「直人くんは?」
「僕は、篠宮さんが一人で反省しすぎていないか見に来ました」
「何それ」
「昨日の続きです。失敗を自分だけのものにすると、次に見せてくれなくなるので」
澪は窓から視線を戻した。
直人はいつもより少し緊張した顔をしている。言い慣れないことを言っているのだと分かった。
「わたしが見せないと困る?」
「困ります。僕も、止めるのが遅れたので」
澪はスマホをしまった。
「じゃあ、あとで一緒に書く」
「何をですか」
「わたしが止まれなかったところと、直人くんが言えなかったところ」
直人は少し嫌そうな顔をしたが、逃げなかった。
「分かりました」
資料室へ向かう廊下で、澪は歩く速度をいつもより少し落とした。直人が横に並ぶまで待つ必要はなかった。
ただ、並べる余地を残した。




