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第4章 第6話 第三避難先

 澪は会議のあと、間宮の言葉が頭から離れなかった。


 反映すると、個人が見えてしまう。

 安全と秘匿。数えることと隠すこと。

 どちらも必要で、どちらも危うい。

 そんな曖昧な言い方で済ませるから、現場の確認が抜けるのだと澪は思った。

 けれど同時に、自分が会議室で間宮を追い詰めた場面も思い出す。

 相手が人に見えていない。

 直人の言葉は、予想以上に深く刺さっていた。


 翌日、澪は一人で支援センターへ向かった。光一には言わなかった。直人にも言わなかった。自分で聞くべきことだと思ったからだ。

 三枝は、予約なしで来た澪を責めなかった。談話室ではなく、庭に面したベンチへ案内した。

「千秋さんには会えません」

「分かっています」

 澪はすぐに答えた。

「今日は、わたしが聞きたいんです。第三避難先って、実際には何なんですか」

 三枝は庭の花壇を見た。

「言葉としては、家庭にも学校にも戻りにくい子のための一時滞在先です。ただ、現実にはもっと曖昧です。家庭に戻れるけれど戻りたくない子、学校にいると息ができない子、災害のときだけ事情が表に出てしまう子。そういう子たちが、いざというときに行ける場所」

「でも、避難図には書けない」

「書けば、その子の事情まで貼り出すことになります」

「書かなければ、見落とす」

「はい」

 三枝は否定しなかった。


 澪はその正直さに戸惑った。

「なら、どうすればいいんですか」

「正解はありません。だから、現場で何度も確認するしかない。誰が今日来ているか。誰が来られないか。誰が大きな音を嫌がるか。誰が一人で動けないか」

「それを、書類で管理できないんですか」

「書類で管理できる部分もあります。でも、書類にした瞬間、その子は項目になります」

 項目。


 澪は会議室で自分が求めた資料を思い出した。

 資料を出せ。人数を出せ。計画を出せ。

 それは必要なことだった。けれど、資料の向こうにいる人を見ないまま求めれば、暴力になる。

 三枝が言った。

「篠宮さんは、急いでいますね」

「急いでいるつもりは」

「ありますよ。悪いことではありません。誰かを守りたいとき、人は急ぎます。ただ、急ぐ人の足音が怖い子もいます」

 澪は返事をしなかった。


 帰ろうとしたとき、廊下の奥に千秋が立っていた。前回よりも顔色は落ち着いている。三枝が止めようとしたが、千秋は首を横に振った。

「この前、ありがとうございました」

 声は小さかった。

 澪は立ち止まり、頭を下げた。

「怖い思いをさせて、ごめんなさい」

「閉じ込めたのは、篠宮さんじゃないです」

「でも、廊下で大きな声を出した」

 千秋は少し考えた。

「声は、怖かったです。でも、怒ってくれたのは、少しうれしかったです」

 澪は顔を上げた。

「うれしかった?」

「誰も、怒らないから。ここでは、みんな優しいです。でも、優しいから、困ったことも小さい声になります」

 その言葉は、澪の中で別の場所に落ちた。


 大きな声は怖い。けれど、小さな声のままでは届かない。どちらか一方では足りない。

「千秋さんは、避難訓練のとき、どうして相談室にいたの」

 三枝が澪を見た。踏み込みすぎだという目だった。

 しかし千秋は答えた。

「相談室にいるように言われました。訓練の人数に入らないからって」

「誰に?」

「分かりません。前の日、机の上にメモがありました」

 澪の背筋が冷える。

「そのメモは?」

「捨てました。『あなたは対象外です』って書いてあったから」

 対象外。

 澪はその言葉を繰り返したくなかった。

 図書館の警告メモ、支援センターの対象外メモ。どちらも、紙だった。誰かが、直接言わずに紙で動かしている。


 その夜、澪は光一と直人を呼び出した。駅前の小さなファストフード店。人の声が多い場所なら、深刻になりすぎないと思った。けれど、話し始めると、結局テーブルの上だけ空気が沈む。

「千秋さんは、訓練対象外だとメモで指示されていた」

 澪が言うと、光一は目を細めた。

「誰かが意図的に人数から外した」

「そう」

「でも、そのメモはない」

「本人は捨てた。責めないで」

「責めない」

 光一はすぐに言った。


 直人がポテトを一本持ったまま、ノートを見る。

「図書館のメモは、点検者に読ませる場所。支援センターのメモは、千秋さん本人に読ませる場所。相手が違います」

「でも、『見ない』『数えない』方向は同じ」

 澪は言った。

「第三避難先を使う子たちを、実際の避難や点検から外している人がいる」

「目的は?」

 光一が尋ねる。

「施設を危険に見せるため。あるいは、危険を表に出すため」

「逆方向だな」

「どっちもあり得る」

 澪はノートに二つの矢印を書いた。

 一つは、隠すための操作。もう一つは、暴くための操作。

 同じ行為でも、目的が違えば意味が変わる。

「間宮さんが怪しい」

 澪は言った。


 光一が黙った。直人が顔を上げる。

「理由は?」

「支援対象者の名簿を持っている。現場の情報も知っている。会議で『現場は見落としていない』と言ったとき、言い方が強かった」

「それだけ?」

 光一が聞く。

「それだけじゃない。彼は、個人が見えてしまうと言った。つまり、個人を見えないようにする仕組みを誰より知っている」

「知っていることと、やったことは違う」

「分かってる」

 澪はそう言ったが、声には納得がなかった。

 直人が静かに言う。

「篠宮さん、間宮さんを疑うなら、間宮さんが何を守ろうとしているのかも考えたほうがいいと思います」

「守ろうとしている?」

「会議のとき、あの人、隠しているというより、出したら壊れるものを押さえているみたいでした」

 澪は返事をしなかった。

 直人の観察は、いつも少し遅れて効いてくる。


 店を出ると、夜の風が冷たかった。澪は駅前の横断歩道で、赤信号を見つめる。

 澪は資料の上に置いた手を離せなかった。誰かが決めるのを待つ空気だけが、会議室の机の上に残っていた。

 けれど、決めることと、決めつけることは違う。

 赤が青に変わっても、澪はすぐに渡れなかった。資料の角が、手の中で少し湿っていた。

 駅前の喫茶店では、閉店前の音楽が流れ始めていた。


 澪は冷めた紅茶に手をつけないまま、間宮の名前を見ていた。怪しい、という言葉は簡単だった。名簿を持っている。現場を知っている。会議で強く反応した。矢印はすべて同じ方向へ伸びているように見える。

 けれど、直人の言葉がその矢印の途中に引っかかっていた。

 守ろうとしている。

「守るために隠す人と、隠すために守るって言う人は、どう見分けるの」

 澪が聞くと、光一はしばらく答えなかった。

「見分けようとすると、だいたい急ぐ」

「じゃあ、どうするの」

「急いだ時に都合のいい証拠だけ拾ってないか見る」

 直人がノートをこちらへ向けた。

 そこには、間宮について二つの欄が作られていた。

 できること。

 守っているもの。

 澪は少しだけ悔しかった。自分が先に書くべき欄だったと思ってしまったからだ。

「直人くん、今日は先に進むね」

「篠宮さんが止まっているので」

「言い方」

「事実です」


 店を出ると、駅前の街灯が濡れた歩道に伸びていた。澪は信号待ちの間、間宮に送るメールを書き始めた。

『直接お聞きしたいことがあります。あなたが守ろうとしている情報と、現場に伝えないと危険になる情報を分けて教えてください』

 書いてから、強すぎると思った。

 消して、もう一度打つ。

『確認したいことがあります。出せない情報そのものではなく、出せない理由の種類を教えてください。個人情報、通学経路、家庭事情、施設側の都合。その分類だけでも必要です』

 今度は送信した。


 光一が画面を見ないまま言った。

「前よりましだな」

「褒め方が雑」

「雑に褒めた」

 直人が横断歩道の向こうで、青信号を見上げている。

「篠宮さん」

「何」

「青です」

 澪は一歩踏み出した。だが、すぐに戻りかけた直人の靴紐に気づいた。直人は何も言わずに結び直している。

 以前なら見落としたかもしれない。

 澪は渡らず、信号が点滅するのを見送った。

「渡れただろ」

 光一が言う。

「次でいい」

「それ、篠宮が言うと新鮮だな」

「うるさい」

 次の青で、三人は一緒に渡った。


 その夜、間宮から返信が来た。文面は短かった。

『分類だけなら可能です。ただし、分類だけでも誰かにとっては居場所の輪郭になります。明日、学校で話します』

 澪は画面を伏せた。

 輪郭。

 その言葉が、机の上に残った。見えなければ助けられない。見えすぎれば傷つける。

 どちらの紙にも、まだ名前は書かない。

 澪は直人のノートを借り、できることの欄と守っているものの欄の間に、細い線を一本だけ引いた。


 翌日の放課後、間宮は分類表を持ってきた。

 会議室の机に置かれた表には、名前の欄がなかった。代わりに、状況の欄がある。

 夜間に家庭へ戻れない可能性あり。

 災害時に保護者連絡が困難。

 学校への復帰支援中。

 施設依存度が高い。


 澪はその言葉を一つずつ読んだ。

 人の名前はないのに、人の影はある。

「これなら、現場で使えますか」

 間宮が聞く。

 澪は答えられず、三枝を見る。三枝は表を受け取り、しばらく黙っていた。

「使えます。ただ、この表だけだと、現場の人は『この子がそうかもしれない』と推測します」

「推測は避けられません」

 間宮の声は硬い。

 三枝は頷いた。

「だから、推測した時に一人で判断しない手順が必要です」

 澪はすぐにメモを取った。

 一人で判断しない。

 それは施設の話であり、自分たちの話でもあった。

 直人が横に小さく書き足す。

 確認先を二つ作る。


 光一は机の端を指で叩きながら、表の空白を見る。

「この分類、誰が更新するんですか」

 間宮が一瞬詰まった。

「教育支援課が」

「現場の変化に間に合いますか」

 その問いで、表の白さが急に目立った。

 澪は光一を見た。今日の問いは、彼が先だった。悔しさは少しあった。けれど、それよりも、表の空白へ別の線が引かれたことのほうが大きかった。

 三枝が言う。

「更新日を入れましょう。古い情報のまま動くのが、一番危ない」

 澪は頷き、分類表の右上に『更新日』と書いた。

 小さな欄だったが、その欄がない資料は、もう信用できない気がした。


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