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第4章 第5話 避難図のない廊下

 校内に戻ると、澪は放課後の教室で市の施設配置図を広げた。


 図書館、不登校支援センター、青葉の家。三つの点を赤ペンで結ぶ。その線は学校を囲むように伸び、市役所の教育支援課へ向かっている。


 光一は隣の席で黙って見ていた。直人は少し離れた机に座り、これまでの記録を時系列に並べている。

「共通点は三つ」

 澪は言った。

「第一に、どれも市教育委員会の管理または連携施設。第二に、避難・支援・学習の名目で生徒を受け入れる。第三に、確認済みの扱いになっている場所で実際の確認漏れが起きている」

「第四に」

 直人が言った。

「その確認漏れで困るのは、いつも声が小さい人です」

 澪は赤ペンを止めた。

 声が小さい人。

 図書館の警告メモ。支援センターの千秋。青葉の家の冬馬。

「そう。だから、誰かがその人たちを見えなくしている」

「誰か、ですか」

「制度かもしれない。でも制度だけじゃ、照明は落ちないし、相談室の丸もつかないし、非常口に木片も挟まらない」

 澪は声を強めた。

「実際に手を動かしている人がいる」

 光一が視線を上げる。

「手を動かしている人は、一人とは限らない」

「また保留?」

「分けてるだけだ。落ちた照明、閉じた相談室、開かなかった非常口。それぞれ原因は違う。ただ、同じ方向に転がっている」

「その方向を作っている人がいる」

「かもしれない」

 澪は息を吐いた。

 光一の慎重さが、今日はもどかしい。以前なら、その慎重さに苛立ちながらも頼っていた。今は違う。自分が先に立つと決めた以上、光一の保留に引き戻されたくない。


 その夜、市の教育支援課から連絡が入った。

 翌日、学校で「地域安全連絡会」が開かれるという。図書館、支援センター、青葉の家、学校、市教委の担当者が集まり、連続した設備不備について情報共有を行う。澪たちにも、生徒代表として出席してほしいとのことだった。

 澪は即答した。

「行きます」

 光一が言う前に、決めた。


 翌日の会議室は、いつもの教室よりも空気が硬かった。長机が四角く並び、名札が置かれている。市教委施設課の稲森、教育支援課の間宮、図書館の館長代理、支援センターの三枝、青葉の家の成瀬、学校側から教頭と担任。澪、光一、直人は末席に座った。

 会議は、最初から責任の置き場所を探していた。

 図書館は点検業者の不備を示し、支援センターは訓練手順の見直しを述べ、青葉の家は生徒のいたずらを報告する。誰も嘘はついていない。けれど、誰も全体を見ていない。

 澪は手を挙げた。

「質問してもいいですか」

 教頭が少し驚いた顔をしたが、稲森が頷いた。

「どうぞ」

「三つの施設は、いずれも第三避難先に指定されていますか」

 空気が動いた。

 稲森は表情を変えない。間宮は手元の資料を見た。三枝だけが、困ったように澪を見る。

「その呼称は現在、正式には使っていません」

 稲森が答える。

「正式な呼称ではなくても、制度上の分類は残っていますね」

「一時滞在支援施設、という分類です」

「そこに避難する生徒の人数は、毎年確認されていますか」

「対象者の個人情報に関わりますので」

「人数だけです」

 澪の声は止まらなかった。

「施設が安全かどうか確認するには、そこを使う人数が必要です。なのに、図書館でも支援センターでも青葉の家でも、そこにいる人が確認から漏れていました。施設の問題ではなく、最初からその人たちを数えていないのではありませんか」


 会議室が静まった。

 光一がこちらを見る気配がした。直人のペンも止まった。

 澪は、勝ったような感覚を覚えた。

 沈黙は、相手が答えられない証拠に見えた。

 だが稲森は、淡々と言った。

「人数は確認しています。ただし、個人が特定されないよう、学校別ではなく地区別集計です」

「では、施設ごとの収容計画は?」

「年度ごとに作成しています」

「見せてください」

「非公開資料です」

「非公開だから、現場が見落とすんです」

 澪は立ち上がりかけた。

 その瞬間、間宮が小さく言った。

「現場は、見落としていません」

 全員の視線が間宮へ向く。


 若い職員だった。落ち着いた顔をしているが、手元の資料を握る指に力が入っている。

「少なくとも、支援センターの利用者名簿は更新されています。図書館の学習席利用者も、青葉の家の受け入れ予定者も、教育支援課では把握しています」

「では、なぜ現場の避難図に反映されていないんですか」

「反映すると、個人が見えてしまうからです」

 澪は言葉に詰まった。

 間宮は続ける。

「この子は支援対象だ、この子は家庭に戻れない、この子は学校ではなく第三の場所へ行く。避難図にそれを落とし込めば、安全になります。でも同時に、誰がどこへ逃げるべき子なのかが見えてしまう」

「だから、見えないまま危なくしていいんですか」

「いいとは言っていません」

 間宮の声が少しだけ揺れた。

 澪はその揺れを見逃した。

「だったら、資料を出してください。出せないなら、隠しているのと同じです」

 光一が低く言った。

「篠宮、座れ」

「嫌」

「今は座れ」

 その声は強かった。


 澪は一瞬、怒りで顔が熱くなった。けれど、会議室の視線が自分に集まっていることに気づく。自分が問い詰めている相手は、市教委だけではない。支援センターに来る子どもたちの情報を守ろうとしている人たちでもある。

 澪は、ゆっくり座った。

 会議は結論を出さずに終わった。

 廊下に出たとき、直人が言った。

「篠宮さん、今日は少し、怖かったです」

 澪は立ち止まった。

「わたしが?」

「はい」

 直人は逃げずに答えた。

「正しいことを言っているのに、相手が人に見えていない感じがしました」

 澪は何も言えなかった。

 光一は黙っている。

 その沈黙が、さっきまでよりずっと重かった。


 会議室を出たあと、廊下の空気はひどく乾いていた。

 壁には、次の会議で使う予定の掲示物が立てかけられている。防災、教育支援、地域連携。どれも丸い文字で書かれているのに、今の澪には薄い板のように冷たく見えた。

 間宮は書類を抱えて、窓際に立っていた。

 澪は声をかけようとして、一度やめる。

 光一は先に行かない。直人もノートを閉じたまま待っている。

 澪は深く息を吸った。

「間宮さん」

 間宮が振り返る。

「さっきは、言い方が強すぎました」

 謝罪というより、事実確認のような声になった。けれど、言い直さなかった。

 間宮は少しだけ目を細める。

「資料を出せ、と言われること自体は当然です。私も、本来はそうあるべきだと思っています」

「出せない理由は、個人情報だけですか」

「だけ、ではありません」

 間宮は廊下の向こうを見た。

「現場の職員は、名前を知らなくても顔を知っています。顔を知っている人が、避難図の意味を読めてしまうことがある。図に載せないことで守っているつもりが、逆に動けなくなることもある。どちらも起こります」

 澪はすぐに反論しなかった。

「では、どうすればいいんですか」

「それを決める会議です」

 間宮の声は疲れていた。

「ただ、会議で決めるには、現場で何が起きているかを誰かが持ってこないといけない。持ってきた人は、たいてい責められます」

 その言葉は、澪に向けられているようで、間宮自身に向けられているようでもあった。


 帰りの電車で、澪は吊り革につかまりながら、窓に映る三人を見た。光一は隣に立ち、直人は少し離れてノートを開いている。揺れる車内で字を書く直人の手元は危なっかしいが、字は意外に乱れない。

「さっきの、怖かったです」

 直人がもう一度言った。

 澪は窓に映る直人を見た。

「聞いた」

「一回で足りるとは思っていません」

「直人くん、性格悪い」

「篠宮さんに呼ばれた理由は、たぶんそこです」

 光一が小さく笑った。澪はその笑いに腹を立てようとして、やめた。


 電車が駅に着く。降りる人の流れに押され、澪は一歩先へ出た。いつもなら、そのまま改札まで歩いてしまう。だが今日は、階段の前で止まった。

「何してる」

 光一が聞く。

「直人くんがまだノートをしまってない」

「珍しいな」

「うるさい」

 直人が慌ててペンをしまい、三人で階段を降りた。


 学校へ戻ると、澪は会議資料のコピーを広げた。避難図、個人情報保護、現場共有、責任分担。どの言葉も、さっきは相手を追い詰めるために使ったものだ。

 澪は赤ペンで線を引く。

 資料を出す。

 その横に、小さく書き足した。

 誰が傷つくかを先に確認する。

 きれいな解決には見えない。むしろ、紙面は前より汚くなった。けれど、澪にはその汚れのほうが、少しだけ信用できた。


 次の会議までの三日間、澪は資料を読み直した。

 読めば読むほど、正しさは簡単に見えなくなった。個人情報を伏せる文書には、伏せなければならない理由がある。現場へ共有する文書には、共有しなければ動けない理由がある。どちらにも線を引くと、紙面は赤と青でいっぱいになった。

「色が怖い」

 直人が言った。

「分けてるだけ」

「責める色に見えます」

 澪は赤ペンを置いた。

「じゃあ、どうするの」

 直人は自分の筆箱から鉛筆を出した。

「一度、薄く書いたらどうですか。決まっていないところは」

 澪は鉛筆を受け取り、赤で囲んだ『資料を出す』の横に、薄い字で書いた。

 誰が読むか。

 それだけで、紙の見え方が変わった。出すか出さないかの二択ではなく、読む人を考える余地ができる。

 光一が斜め前の席から言う。

「直人のほうが先生みたいだな」

「やめてください」

 直人は本気で嫌そうな顔をした。

 澪は笑いかけて、すぐに資料へ戻った。笑って終わらせるには、まだ怖さが残っている。


 その日の帰り、澪は間宮へ追加の質問を送った。

『資料を出せない場合、現場には何を渡していますか。何も渡していないなら、代わりに何を渡せますか』

 送信したあと、スマホを机に伏せる。

 すぐに返信は来ない。


 待つ時間も、資料の一部だと思うことにした。


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