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第4章 第4話 開かない非常口

 校外活動施設「青葉の家」は、山の手前に建つ二階建ての古い施設だった。


 市内の小中学校が合宿や自然観察で使う。体育館ほど広くはない多目的ホール、木の床の宿泊室、裏手の炊事場。入口には、夏のキャンプ写真が色あせて掲示されている。


 澪はその写真の前で立ち止まった。

 笑っている生徒たちの後ろに、非常口の緑色の表示が写っている。現在の廊下にも同じ表示がある。だが、位置が少し違う。


「また図面が古い」

 澪が呟くと、案内役の施設管理人、成瀬が苦笑した。

「増改築を何度もしていますからね。全部の図面を最新にする予算は、なかなか」

「予算がないから安全確認が曖昧になるんですか」

 直人がちらりと澪を見た。


 成瀬は笑みを消した。

「そう聞こえたなら申し訳ありません。ただ、現場でできる限りのことはしています」

 澪は返事をしなかった。

 自分の言い方が強いことは分かっている。けれど、図書館で照明が落ち、支援センターで相談室が閉じた。その次に校外施設の非常口を見るとなれば、穏やかではいられない。


 光一は廊下の壁を指でなぞっていた。

「この施設、去年も避難訓練で問題が出てるな」

「知ってるの?」

「入口で掲示されてた報告に、改善済みって書いてあった」

「改善済み」

 澪はその言葉を繰り返す。


 その日の見学は、地元中学校の校外活動と重なっていた。生徒たちは多目的ホールでオリエンテーションを受け、午後から裏山の観察路へ出る予定だった。


 ところが昼前、ホール横の非常口が開かなくなった。

 外へ出ようとした男子生徒がドアノブを引き、びくともしないと声を上げた。教員が試しても開かない。非常口の外側には枯葉が溜まっているだけで、誰かが塞いだ様子はない。


「内側のラッチが噛んでる」

 光一がしゃがんで確認する。

「普段使ってないんですか」

 澪が聞くと、成瀬は首を横に振った。

「訓練のたびに開けています。先月も」

「記録は?」

「あります」

「見せてください」

 言ってから、澪は直人の視線に気づいた。

 また、先に記録を求めている。


 澪は一拍置き、言い直した。

「その前に、生徒を別の出口へ。ホールに残っている人数を確認してください」

 成瀬が頷き、教員に指示を出す。光一は何も言わなかった。


 非常口は工具で開けられた。金具に小さな木片が挟まっていた。

 誰かが意図的に差し込んだようにも見えるし、古い扉の割れた部材が落ちただけにも見える。

 澪は木片を透明袋に入れてもらい、廊下の床に置かれた整備記録を確認した。

「先月、非常口開閉確認済み。担当、成瀬さん」

「はい」

「そのとき、この扉は問題なく開いたんですね」

「開きました」

「証人は?」

 成瀬の顔が強張る。

「一人で確認しました」

「では、確認したことを証明できない」


 光一が息を吸った。

「篠宮」

「言い方が悪いのは分かってる。でも事実でしょ」

「事実を、相手を追い詰める形で出す必要はない」

「追い詰めないと出てこないこともある」

 澪は成瀬を見た。

「図書館でも、支援センターでも、確認済みの場所が危なかった。ここでも同じです。偶然が三回続いたと思えますか」

 成瀬は黙っていた。


 その沈黙を、澪は肯定と受け取ろうとした。

 だが、直人が口を開く。

「成瀬さん、木片って、この施設のどこかで使っている部材ですか」

「……宿泊室の二段ベッドです。古いものを解体して、倉庫に置いてあります」

「倉庫には誰が入れますか」

「職員と、活動で使う先生方です」

「生徒は?」

「通常は入りません」


 直人は非常口の外へ出た。地面にしゃがみ、枯葉を手でどける。

「外側に靴跡があります。小さいです」

 澪は外へ回った。

 確かに、非常口の前の柔らかい土に、小さなスニーカーの跡が残っている。生徒のものだろう。外から木片を差し込むことはできないが、外で何かをしていた可能性はある。

「生徒が関係している?」

「まだ分かりません」

 直人は静かに言った。

 澪は、その言い方に自分の勢いを削がれるのを感じた。


 午後、中学校の生徒の一人が名乗り出た。

 小柄な男子生徒で、名前は冬馬。彼は朝、非常口の外に落ちていた木片を拾い、何となく扉の隙間に差し込んだという。

「閉まらなくなると思った。開かなくなるとは思わなかった」

 冬馬はそう言って俯いた。

 澪は言葉に迷った。

 いたずらだ。危険ないたずらだ。叱るべきだ。けれど、その前に聞くことがある。

「どうして、そんなことをしたの」


 冬馬は黙った。

 教員が代わりに謝ろうとする。澪は手で制した。

「本人に聞いています」

「……避難訓練、嫌だったから」

「嫌?」

「先生が、毎回ちゃんとできてるって言う。でも、去年も、俺、最後まで数に入ってなかった。トイレにいたのに、全員避難済みって言われた。だから、ちゃんと困ればいいと思った」


 廊下が静かになった。

 また、同じだった。

 見たことになっている。数えたことになっている。そこにいるのに、いない扱いにされる。

 澪は成瀬を見た。

 成瀬は苦しそうに目を伏せていた。

 今回の直接の原因は冬馬のいたずらだ。けれど、冬馬をそこへ追い込んだのは、去年の確認漏れだった。


 それでも、澪は言ってしまった。

「だからって、危険なことをしていい理由にはならない」

 冬馬の肩が小さく震えた。

 正しい言葉だった。間違っていない。けれど、光一がすぐに続けた。

「ただ、理由を言ったことは、なかったことにしない」

 冬馬が顔を上げる。


 光一は澪を見ずに言った。

「危険なことは危険なこととして扱う。でも、去年数えられなかったことも、別の問題として扱う。どっちかで片づけない」

 澪は自分の胸が沈むのを感じた。

 澪は窓に映る自分の口元を見た。さっき出した言葉だけが、妙に白く浮いていた。


 帰りのバスで、直人が窓の外を見ながら言った。

「篠宮さん、今日は半分間違えましたね」

「半分?」

「非常口を閉じた原因は当てました。でも、冬馬くんの話を受け取る順番を間違えた気がします」

 澪は反論しなかった。

 光一も黙っている。

 バスは市街地へ下りていく。図書館、支援センター、青葉の家。その三つが、地図の上で線になっていく。


 第三避難先。

 澪はノートにその言葉を書いた。

 そして、その下に小さく付け足した。

 人を数える場所。

 自分が数え損ねているものが何なのか、まだ分からなかった。


 青葉の家から市街地へ戻るバスは、夕方になると一時間に一本しかなかった。

 車内には、古いビニールシートの匂いが残っている。冬馬は職員に付き添われ、前方の席に座っていた。膝の上で指を絡め、窓の外を見ている。澪は通路を挟んだ後ろの席で、その肩を見ていた。

 話しかければ、謝らせる形になる。

 黙っていれば、さっきの言葉だけが残る。

 迷っていると、直人が小声で言った。

「今は、職員さんに任せたほうがいいと思います」

「分かってる」

「本当に分かってる時の声じゃないです」

 澪は唇を噛んだ。


 バスが急なカーブを曲がり、窓の外に青葉の家の屋根が小さく見えた。非常口の扉は、点検のため開け放たれている。開いているのに、遠くから見ると黒い四角に見えた。


 学校に戻ると、成瀬からメールが届いていた。

『冬馬には、危険なことをした責任を取らせます。ただ、去年の確認漏れについても、こちらで記録を作り直します』

 澪は画面を見つめた。

 光一が横から覗こうとして、途中でやめる。

「見ないの?」

「見たら怒るだろ」

「怒る」

「なら見ない」

 澪は少しだけ笑った。笑うと、胸の固さがほんの少し緩んだ。


 そのあと、三人で学校の古い避難図を見に行った。職員室前の掲示板には、色あせた紙が透明なカバーの下に貼られている。体育館、校庭、正門前。そこに、第三避難先の文字はない。

「学校の図には載らないんだな」

 光一が言う。

「載せると、見えすぎるから」

 澪は答えた。

「でも、載らないと、誰も迷った時に思い出せない」

 直人がノートに、学校の避難図を簡単に写した。図の余白に、青葉の家、図書館、支援センターの名前を書き込む。線で結ぼうとして、途中で手を止めた。

「線を引くと、場所が決まったみたいになりますね」

「決まってないの?」

 澪が聞くと、直人は少し考えた。

「少なくとも、僕にはまだ分かりません。冬馬くんにとって青葉の家が避難先だったのか、去年の確認漏れを思い出す場所だったのか」

 澪は掲示板の反射に映る自分を見た。


 非常口を閉じたのは冬馬だ。そこは動かない。けれど、扉の前に立ったとき、あの子は誰に見つけてほしかったのか。

 答えを出すには、まだ足りない。

 澪は避難図の写真を撮り、成瀬に返信を書いた。

『冬馬くんを責める記録と、去年の確認漏れの記録を、同じ紙に載せないでください。混ざると、どちらかが消えます』


 送信してから、言葉が強すぎたかもしれないと思った。だが、消さなかった。

 光一がスマホをしまう澪を見て言う。

「今のは命令じゃないんだな」

「お願いのつもり」

「つもりか」

「うるさい」

 直人が、二人の間で避難図を畳んだ。

 紙の折り目はなかなか揃わない。澪は手を出しかけて、直人が折り終えるまで待った。


 数日後、青葉の家から修正された点検記録が届いた。

 冬馬が閉じた非常口のことだけでなく、去年の訓練時に彼が人数確認から漏れていたことも、別紙で記録されている。責任の所在はまだ整理中と書かれていたが、少なくとも一枚の紙にはなった。

 澪はその別紙を読みながら、冬馬の字を思い出した。非常口のそばに貼られた小さなメモ。見つけて、という言葉はなかった。けれど、あの行為は誰かに見つけられることを前提にしていた。

「本人は、読まないんだろうな」

 光一が言った。

「この記録?」

「ああ」

 澪は紙を机に置いた。

「読まなくても、残ることはある」

「残っただけで救われるか?」


 その問いに、澪はすぐ答えなかった。

 直人が、青葉の家の平面図に新しい印をつけている。非常口、職員室、去年の集合場所。印は三つで、どれも少し離れていた。

「救われるかは分からないけど」

 澪は言った。

「残らなかったことにされるよりは、たぶんまし」

 光一は「そうだな」とだけ言った。


 放課後の校庭では、運動部の声が重なっている。窓の外から聞こえるその声の中に、数え間違いはないように聞こえた。だが、実際には誰かが一人抜けていても、遠くからは分からない。

 澪は青葉の家の図面を畳む前に、冬馬の名前を伏せた欄の横へ小さく丸をつけた。

 そこには、もう誰かの失敗を責めるためだけではない印があった。

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