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第4章 第3話 閉じた相談室

 不登校支援センターは、学校から歩いて二十分ほどの住宅街にあった。


 外観だけ見れば、古い公民館と変わらない。低いフェンス、手入れの行き届いた花壇、入口横の掲示板。そこには「ここに来ることも、来ないことも、あなたの選択です」と丸い文字で書かれていた。


 澪はその言葉を見て、少しだけ息を整えた。

 選択。

 この場所では、その言葉は軽々しく使えない。


 センター長の三枝は、穏やかな笑顔の男性だった。光一たちを談話室へ案内し、施設の説明を始める。

「ここは学校へ通いづらい生徒のための学習支援と相談の場所です。災害時には、学校や自宅へ戻るのが難しい子の一時避難先にもなります」

「第三避難先、ですね」

 澪が言うと、三枝の笑顔が少しだけ薄くなった。

「よくご存じですね」

「図書館で、その表示を見ました」

「昔の呼び方です。今はあまり使いません」

「なぜですか」

 問いが早すぎた。自分でも分かった。


 三枝はすぐには答えない。光一がテーブルの上の案内資料へ目を落とす。直人はまたノートを開いた。

「家庭、学校、地域施設。避難先に順位をつける言い方が、利用者を傷つけることもあるからです」

「でも、制度上は残っている」

「はい」

 澪は頷いた。

 図書館の事故と支援センター。線はまだ細い。それでも、ここを外すわけにはいかない。


 その日のセンターでは、避難誘導訓練が予定されていた。利用者の生徒は少なく、参加は自由。実際に参加するのは三人だけだという。

 澪たちは見学者として廊下に立った。


 訓練は静かに始まった。ベルは鳴らさない。大きな音が苦手な生徒がいるため、職員が各部屋を回り、声をかける。談話室、自習室、相談室。生徒は職員の誘導に従い、裏口から駐車場へ出る。

 それだけのはずだった。


 けれど、最後の相談室の扉が開かなかった。

「内側から鍵がかかっています」

 職員が言う。三枝の顔色が変わる。

「中に誰かいますか」

 返事はない。

 廊下にいた生徒の一人が、小さく言った。

「さっき、千秋が入ってた」

 澪は扉の前に立った。

「千秋さん。聞こえますか。篠宮澪です。扉の外にいます」

 返事はない。


 光一がドアノブを確かめる。内鍵はかかっているが、古い相談室の扉は外から非常解錠できる構造だった。職員が鍵束を探す。しかし非常解錠用の細い鍵が見つからない。

「鍵がない?」

 澪の声が鋭くなる。

「普段はここに」

「普段ではなく、今どこにあるんですか」

 職員が怯えたように黙る。

 光一が澪の袖を軽く引いた。

「責めるな。今は開けるのが先だ」

「分かってる」

 分かっているのに、声が尖る。


 直人が廊下の端で、非常口横の掲示板を見ていた。

「この相談室、隣の資料室と壁が薄いです。上の欄間、通気口じゃないですか」

 相談室の上部には、格子状の通気口があった。そこから中の気配は分からない。ただ、微かに机が擦れる音がした。

 生きている。

 澪は胸を撫で下ろしそうになって、すぐに言った。

「千秋さん、聞こえていますね。返事はしなくていいです。今から扉を開けます。嫌なら、机を一度叩いてください」

 音はしなかった。


 職員が倉庫から工具を持ってきた。光一と三枝が蝶番を外す。扉は五分ほどで開いた。

 中にいた千秋は、机の下に座り込んでいた。中学生くらいの少女で、顔を伏せ、両手で耳を塞いでいる。怪我はない。けれど、泣いてもいなかった。

 泣けないほど固まっていた。

 澪は一歩踏み出しかけ、止まった。

 ここで「大丈夫?」と聞くのは簡単だ。けれど、それは大丈夫と言わせる言葉かもしれない。

 三枝が膝をついて、低い声で千秋に話しかけた。千秋は小さく頷いた。職員に付き添われ、別室へ移る。


 廊下に残された澪は、壁に貼られた避難経路図を見た。

 相談室は避難済みの印がついていた。

「誰かが確認済みにした」

 澪は言った。

「中に千秋さんがいるのに」

「誘導ミスかもしれない」

 光一が言う。


「また、ミスで済ませるの?」

 澪の口調が荒くなる。

「図書館では点検したことになっていた。ここでは避難したことになっていた。書類の上では終わっていて、実際には見ていない。これ、同じだよ」

「同じかもしれない。でも、同じに見たいだけかもしれない」


 光一の言葉に、澪は黙った。

 直人が避難経路図の下に貼られた小さな紙を指さした。

「このチェック表、筆跡が二種類あります」

 避難済みの印の横に、青いペンで丸がついている。ほかの部屋は職員の字で時刻が書かれているが、相談室だけ時刻がない。

「誰かが先に丸だけつけた」

 澪はチェック表を見つめた。

「訓練前に、相談室は空だと決めていた」

「あるいは、空にしておきたかった」

 光一が言う。

「どういう意味?」

「千秋さんが入っていたことを、誰かが知っていたなら」

「閉じ込めたってこと?」

「まだ決めない」

 光一が言う。

 その言葉に、澪は苛立った。

「あなたはそれを言えばいいと思ってる」

「思ってない」

「思ってるよ。決めないって言えば、間違えなくて済む。誰かを傷つけなくて済む。けど、千秋さんは閉じ込められてた。決めない間にも怖い思いをする人はいる」


 廊下が静まり返った。

 三枝が戻ってきて、澪を見た。

「篠宮さん。あなたが怒ってくれること自体は、ありがたいです。でも、怒り方を間違えると、この場所は閉じます」

「閉じる?」

「ここへ来ている子は、誰かが大きな声で正しさを言うだけで、来られなくなることがあります」

 澪は言葉を失った。


 正しいことを言っているつもりだった。千秋を守るために怒っているつもりだった。けれど、その怒りがこの場所を危うくする。

 直人が、ノートを閉じた。

「篠宮さん」

「何」

「篠宮さんは今、雨宮くんより先に答えを出したいんですか。それとも、千秋さんが次にここへ来られるようにしたいんですか」


 澪は直人を見た。

 直人にそんなことを言われると思っていなかった。

 光一が止めるなら、反発できた。けれど直人の声は、止める声ではなかった。澪の向かっている先を確認する声だった。

「……両方」

 澪はようやく言った。

「両方じゃだめ?」

「だめじゃないです。でも、順番はあると思います」

 その言葉は、光一のものではなかった。


 澪は壁のチェック表を見た。

 相談室の丸。時刻のない確認。図書館の点検報告。見たことになっている場所。見られていない人。

 事件は、誰かが扉を閉じたことだけではない。

 誰かが、最初からそこに人はいないと決めていたことだ。


 帰り際、千秋が別室の扉の隙間から澪を見た。

 澪は何も言わなかった。

 頭を下げるだけにした。

 千秋は、ほんの少しだけ目を伏せた。それが許しなのか、拒絶なのか、澪には分からなかった。

 分からないまま持つ。

 光一なら、この沈黙をもう少し長く持てるのだろう。澪はそう思い、すぐにそれを打ち消した。今、扉の前に立っているのは自分だった。


 三枝は、千秋を追いかけなかった。

 相談室の扉が閉まってからも、廊下には小さな足音の余韻だけが残っていた。澪はその場に立ったまま、何度も謝る言葉を探した。けれど、今の千秋に渡していい言葉が、自分には見つからない。

「あとで、こちらから様子を見ます」

 三枝が言った。

「篠宮さんは、今日の記録をください。千秋さんの名前を出さない形で」

 澪は頷いた。


 職員用の小さな机を借り、出来事を時刻順に書く。壁の確認表、空欄の時刻、閉じていた相談室、直人の指摘、自分が声を荒らげた場所。

 最後の一つを書くとき、手が止まった。

 自分の失敗を記録に入れると、紙が急に重くなる。

「そこ、抜かないほうがいいです」

 直人が言った。

「分かってる」

「今の『分かってる』は、ぎりぎり本当っぽいです」

 澪はにらみかけて、やめた。怒る相手を間違えると、また同じことになる。

 光一は壁際で、相談室の入口を見ていた。

「雨宮くん」

 三枝が声をかける。

「あなたは、篠宮さんを止めなかったんですね」

「止める前に、直人が言ったので」

「そうではなく」

 三枝は少しだけ笑った。


「止められたはずなのに、待ったように見えました」

 澪はペンを握ったまま、光一を見なかった。

 光一は答えるまでに少し間を置いた。


「俺が止めると、俺の判断になる。今日は、篠宮がここに来た意味がなくなると思ったんです」

 その言葉は、澪に向けられたものではない。けれど、机の上に置かれた紙が一枚めくられたように、澪の胸の奥で音がした。

 三枝は記録を受け取り、赤ペンで一箇所だけ丸をつけた。

 声を荒らげた。

「ここを書けるなら、次に同じ扉の前で止まれるかもしれません」

 その言い方は責めていなかった。だから余計に、澪はうまく返事ができなかった。


 センターを出るころ、千秋は別室にはもういなかった。三枝によれば、裏口から帰ったという。

 澪は裏口の小さな庇を見上げた。傘を開くには狭く、雨の日は肩が濡れる。そこから誰かが一人で出ていく姿を想像して、喉が詰まった。

「追いかけないのか」

 光一が聞く。

 澪は首を横に振った。

「追いかけたら、わたしが楽になるだけだと思う」

 直人がノートに書く音がした。

「それも書くの?」

「はい」

「ほんと、嫌な記録係」

「呼んだのは篠宮さんです」

 澪は反論できなかった。


 学校に戻る途中、商店街のシャッターに三人の姿が細く映った。

 澪だけが、少し前を歩いている。気づいて足を緩めると、光一が横に並んだ。直人は半歩後ろでノートを抱えている。

 千秋に何を言うかは、まだ決めない。

 けれど、次に会えたら最初に謝る。理由を説明する前に、声を荒らげたことだけを。

 澪はそれを、ノートではなく、手のひらの内側に爪で押した。


 翌週、千秋は支援センターに来なかった。

 三枝は、それを大きな出来事のようには言わなかった。ただ、受付横の名簿に丸がつかなかった。それだけで、澪には十分だった。

「待つしかないんですか」

 澪が聞くと、三枝はコピー用紙を揃えながら答えた。

「待つことも仕事です。ただし、待つための準備はできます」

 三枝は、相談室の入口に貼る予定の小さな紙を見せた。

『中に人がいる時は、外から施錠しないでください』

 たった一文だった。

 澪はその紙を見て、拍子抜けした。もっと複雑な手順書が必要だと思っていた。けれど、三枝はその一文を何度も読み返している。

「強すぎますか」

「いえ」

 澪は首を振った。

「普通です」

「普通のことを、普通に貼るのが難しいんです」

 その言葉で、澪は相談室の扉を見た。普通に開くはずの扉が閉じられ、普通に帰れるはずの子が帰れなかった。


 帰り道、澪は同じ文をノートに写した。中に人がいる時は、外から施錠しない。

 当たり前の文なのに、字が妙に重くなる。

 直人が横から言った。

「篠宮さん、字が大きいです」

「大きく書いたの」

「怒っていますか」

「たぶん」

「誰に」

 澪は答えられなかった。千秋にではない。三枝にでもない。怒っている相手を探そうとすると、自分の声だけがまた大きくなりそうだった。


 だから、ノートを閉じた。今日はそれで終わりにした。


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