第4章 第2話 棚の影に残った警告
翌日の放課後、澪は図書館の閲覧室をもう一度訪れた。
割れた照明パネルは撤去され、床には養生テープで四角い範囲が囲われている。そこだけが、静かな閲覧室の中で事件の輪郭を保っていた。
光一は入口に立ち、館内の利用者を眺めている。
直人はノートを開いたまま、昨日の時系列を確認していた。
「十五時二十分、僕たち入館。十五時二十六分、篠宮さんが照明の傾きを指摘。二十八分、職員が報告書を取りに行く。三十一分、落下」
「三分ある」
澪は天井を見上げた。
「傾いていると分かってから落ちるまで三分。自然に外れたなら、偶然としては出来すぎてる。でも、誰かがその場で触ったわけでもない」
「遠隔操作?」
直人が言うと、光一が首を横に振った。
「この照明にそんな仕組みはない。落ちたのは固定具が緩んでいたからだろうな」
「じゃあ、いつ緩めたか」
澪は閲覧室の端から端まで歩いた。
利用者の邪魔にならないように、棚の影を選ぶ。
天井へ目をやり、壁際の防犯カメラを確認し、脚立の置き場所を探す。
防犯カメラは閲覧席を映しているが、天井の作業までは映らない。
脚立は職員用倉庫にある。鍵は受付と事務室。
澪は、昨日の自分が言いかけた言葉を思い出した。
犯人がいる。
その言い方は簡単だった。けれど、簡単な言い方ほど、誰か一人の背中に全部を載せる。
「職員の中に、昨日の午後、倉庫へ入った人は?」
澪が尋ねると、館長代理の女性は少し困った顔をした。
「記録上は、午前中に清掃業者さんが入っただけです。午後は誰も」
「記録上は、ですね」
澪の声に、また硬さが混じった。
女性が目を伏せる。光一が澪の横に立った。
「記録以外の出入りもありますか」
同じ内容なのに、光一が言うと責めているようには聞こえなかった。澪はその差に気づき、唇を噛んだ。
女性は小さく頷いた。
「イベント準備で、ボランティアの方が何人か。高校生もいました。地域学習の展示を手伝ってくれていて」
「高校生?」
「市内の別の学校の生徒さんです。名前は……名簿があります」
名簿には三人の名前があった。その中に、澪の知っている名前はない。だが、一人だけ、利用者カードの番号が空欄だった。
「この子だけ、なぜカード番号がないんですか」
「登録前だったので。支援センターの紹介で来ている子です」
「不登校支援センター?」
「はい。図書館は、支援センターと連携して学習席を提供しているので」
第三避難先という言葉が、再び澪の頭に浮かんだ。
支援センター、図書館、学習席。昨日見た古い避難案内板。一本の線のように見える。いや、線に見たいだけかもしれない。
澪は、自分の視線が急いでいることに気づいた。
「その子に会えますか」
「本人の許可がないと」
「では、紹介元の支援センターに確認を」
「篠宮」
光一が名を呼んだ。
澪は振り返らなかった。
「何?」
「相手は生徒だ。施設事故の関係者として扱うなら、順番がいる」
「分かってる」
「分かってるなら、今の言い方は違う」
澪の胸に、かっと火が入った。
「じゃあ、どう言えばいいの? 待っていたら、またどこかで同じことが起きるかもしれない。昨日だって、わたしがもっと早く下がらせていれば」
言ってから、澪は息を止めた。
昨日のことを、口にするつもりはなかった。
光一は反論しなかった。直人もノートから顔を上げない。ただ、書く手だけが止まっている。
館長代理が静かに言った。
「実は、落ちた照明の下に、前から小さな紙が挟まっていたそうです」
「紙?」
「昨日、撤去した業者さんが見つけました。固定具のところに、折りたたんだメモが」
差し出された透明袋の中に、破れた紙片が入っていた。
そこには鉛筆で短く書かれていた。
『この列は見ていない。危ない。』
澪は息を呑んだ。
「点検漏れを知っていた人がいた」
「でも、現行図面では点検対象だったんだろ」
光一が言う。
「見ていない、というのは、点検報告の話とは限らない」
直人が顔を上げた。
「利用者の誰かが、前から危ないと気づいていたとか」
「その場合、なぜ職員に言わずに天井へ紙を挟むの?」
「言っても聞いてもらえなかったから、とか」
直人の声は控えめだった。
澪はその可能性を考えた。支援センターから来た生徒。利用者カード番号のない名前。聞いてもらえなかった警告。第三避難先。
また線ができる。
澪は、その線を掴みたくなった。
「そのメモを書いた子を探す」
「子と決めるのは早い」
光一が言う。
「じゃあ誰? 職員なら普通に報告できる。業者なら記録を残せる。わざわざ紙を隠すのは、声を出せない人だよ」
「そうかもしれない。でも、声を出せない人を探すときに、こっちが声を大きくしたら意味がない」
澪は言葉に詰まった。
そのとき、直人が透明袋のメモを見つめたまま言った。
「これ、警告というより、確認じゃないですか」
「確認?」
「『危ない』って誰かに知らせるなら、もっと見えるところに置くと思います。天井の固定具に挟むなら、次にそこを見る人にしか届かない。つまり、点検するはずの人に読ませる紙です」
澪はメモをもう一度見た。
確かに、隠されていたのではない。そこを点検する人だけに見える場所に置かれていた。
「点検者への警告」
「でも、点検者は見なかった」
光一が続ける。
「あるいは、見たけれど無視した」
閲覧室の空気が重くなる。
澪は報告書、旧図面、新図面、ボランティア名簿を並べた。点検は書類上行われている。けれど、警告メモは残っていた。つまり、点検者は固定具を実際には見ていない。
誰かが落としたのではない。
落ちるように放置された。
それは、事件と言っていいのか。事故と言うべきなのか。
澪は判断を急ぎかけて、手を止めた。
「館長代理さん。支援センターから来ていた生徒に、こちらから直接聞くことはしません。でも、もし本人が話してもいいと言ったら、連絡をください」
女性はほっとしたように頷いた。
光一が澪を見た。
澪は視線をそらさなかった。
「今のは?」
「ぎりぎり、順番を守った」
「ぎりぎりか」
「うん。ぎりぎり」
直人が小さく笑った。
その笑いに、澪は少しだけ救われた。
帰り道、雨は上がっていた。歩道の水たまりに図書館の窓が映っている。澪はその反射を踏まないように歩いた。
光一が隣で言う。
「篠宮が先に行くの、悪くないと思う」
「褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「危ない」
澪は足を止めた。
「それ、前のあなたみたい」
「だから言ってる」
光一の声は静かだった。
澪は返事をしなかった。
前を向いたままでは、背後の足音が思ったより聞こえない。澪はそれに気づき、廊下の途中で一度だけ振り返った。
その当たり前のことに、澪はまだ慣れていなかった。
翌日、図書館の地下書庫は使えなくなっていた。
閲覧室の事故だけなら、照明の列を止めれば済む。けれど、棚の裏に挟まっていた紙片が見つかったことで、館長代理は書庫全体の点検を決めたらしい。
澪たちは、職員用階段の前で待たされた。
「本当に入らないんですか」
直人が小声で聞く。
「入らない」
澪は言った。
「昨日のわたしなら、たぶん入ってた」
「言い方に反省が混ざってます」
「混ぜてるの」
階段の下から、乾いた紙の匂いが上がってくる。閉じた書庫の奥に、誰かが警告を書いた。誰かがそれを見つけられる場所に置いた。だが、置いた人が助けを求めているとは限らない。危険を知らせたいのか、危険を作った人を誘い出したいのか。
光一は階段の手すりにもたれ、館長代理が戻るのを待っていた。
「さっきの支援センターの生徒、名前は聞かないんだな」
「聞きたいよ」
「だろうな」
「でも、聞いたら早いだけで、たぶん正しくない」
光一は、少しだけ口元を緩めた。
館長代理が封筒を持って戻ってきた。中には、古い利用申請書のコピーと、書庫に置かれていた紙片の写真が入っている。紙片には短い文字があった。
ここは残らない。
澪は声に出さずに読んだ。
残らない、という言い方が引っかかった。壊れるでも、危ないでもない。
場所がなくなることを知っている人の言葉だった。
「閉架書庫は、統合案が通れば廃止予定です」
館長代理は苦い顔で言った。
「統合案?」
澪が聞くと、代理は一瞬だけ口を閉じた。
「まだ公表前の検討です。図書館、支援センター、青葉の家の一部機能を、旧南部研修所へ移す案があります」
直人のペンが止まった。
光一は澪を見ない。
だが、澪には分かった。昨日の第三避難先が、ただの掲示板の文字ではなくなっていく。
帰り道、澪は図書館前のバス停で立ち止まった。停留所の時刻表には、夕方以降の本数が少なかった。ここへ来る子がいる。ここから帰れない子もいる。新しい場所に移れば、安全になるのかもしれない。けれど、そこへ行く足がなければ、その安全は紙の上だけだ。
「篠宮さん」
直人がノートを閉じる。
「今、何を見ていますか」
「バスの時刻」
「事件と関係ありますか」
「たぶん、ある」
澪は時刻表を写真に撮った。
光一が隣で傘を畳む。
「危ないって言ったの、取り消さないぞ」
「取り消さなくていい」
澪は写真を確認しながら答えた。
「でも、止めるなら、理由を言って。わたしも、理由を聞く」
バスが来た。乗り込むと、窓に雨の跡が残っていた。
澪はそこに指を触れそうになり、やめた。消せば、どこを水が通ったのか分からなくなる。
直人のノートには、紙片の言葉の下にもう一つ、細い字が増えていた。
残らない場所に来ていた人は、どこへ行くのか。
放課後、澪は図書館のバス停をもう一度見に行った。
誰かに頼まれたわけではない。時刻表の写真だけでは、そこに立っている時の感覚が分からなかったからだ。
西日が傾くと、バス停の屋根は車道側へ影を落とし、ベンチは半分だけ濡れたままだった。
制服の袖を少し濡らしながら、澪はベンチに座る。
次のバスまで二十九分。
ここに来る子が、急に家へ帰れなくなった時。学校にも戻れず、支援センターにも行けず、図書館だけが開いている時。二十九分は短いのか、長いのか。
スマホが震えた。光一からだった。
『ひとりで行ったのか』
澪は画面を見て、少しだけ迷ってから返信する。
『見てるだけ』
すぐに返事が来た。
『それで済ませるな』
澪は小さく笑った。怒られているのに、少し安心した。
十分ほどして、光一と直人が来た。直人は息を切らしている。
「急に呼び出すの、やめてください」
「呼んでない」
「雨宮くんが、篠宮さんがたぶん一人で変なところを見てるって」
「変なところではない」
澪は時刻表を指さした。
三人で、次のバスが来るまで待った。待っているだけなのに、少しずつ分かることがあった。
屋根の狭さ、照明の暗さ、夕方の人通りの少なさ。
紙片の『残らない』という言葉が、ベンチの湿り気と一緒に澪の袖に残った。




