第4章 第1話 傾いた照明
市立図書館の閲覧室には、学校の廊下とは違う静けさがある。
誰かが息を吸う音まで棚のあいだに沈み、紙をめくる指先だけが小さく鳴る。窓の外では、雨が降りそうで降らない灰色の雲が低く垂れていた。
篠宮澪は、閲覧室の中央で足を止めた。
天井を見上げる。
白い照明パネルが一枚だけ、ほかの列よりわずかに傾いている。普通なら見過ごす程度だった。けれど、そこだけ影の落ち方が違っていた。澪はバッグの紐を握り、すぐ横にいる直人へ視線を向けた。
「直人くん、あそこの照明、少し下がって見えない?」
柏瀬直人は、手に持っていた利用案内の紙から顔を上げた。眼鏡の奥の目が、澪の見ている先を探す。
「……言われれば、そうですね。でも、図書館の人に言えばいいだけじゃないですか」
「もちろん言う。でも、ただの故障なら、今日わたしたちがここに呼ばれている理由と合わない」
地域学習連携プログラム。
生徒が学校外の教育関連施設を見学し、災害時の避難や学習支援の仕組みを知る。そう説明されていた。けれど、参加者は澪と光一と直人だけだった。
いや、正確には、光一は図書館の入口で職員に捕まり、別室へ連れていかれたまま戻ってこない。
澪は腕章を見下ろした。布の端が少し曲がっている。指で直すと、余計にそこだけ硬く見えた。
今日は、呼び止める人がいない。
澪は腕章の端を指で伸ばした。入口のほうを一度見たが、光一はまだ戻らない。
受付の呼び出し音が遠くで鳴り、直人が持っている利用案内の紙だけが、わずかに揺れた。
胸の奥が落ち着かなかった。早く確かめなければ、という焦りだけが、足を前に出した。
入口のガラスに、澪と直人だけが映っていた。少し遅れて、奥の壁時計の針が進む。
いつもなら聞こえるはずの光一の一言が、今日はまだ来ない。澪は鞄の紐を肩に掛け直し、受付カウンターへ向かった。
「すみません。閲覧室中央の照明パネルが少し傾いています。点検済みですか」
図書館員の女性は、最初、利用者からの申し出だと思った顔をした。だが澪が市教育委員会から配られた腕章を見せると、表情を変えた。
「点検は今月初めに済んでいます。異常なし、と報告を受けています」
「報告書、見られますか」
「え?」
直人が小さく咳払いした。
「篠宮さん、いきなりそれは」
「必要な確認だよ」
澪は言った。思ったより硬い声になった。
女性職員は戸惑いながら事務室へ入っていった。その背中を見送りながら、直人が低く言う。
「篠宮さん、今の、雨宮くんみたいでした」
「……そう?」
「似てました。でも、少し違います」
「何が?」
直人は答えなかった。答える前に、閲覧室の奥で金属の軋む音がした。
音は一度だけではなかった。
きい、と嫌な音が鳴り、そのあとで、誰かが椅子を引いた。澪が振り返った瞬間、照明パネルの端が外れた。
「下がって!」
澪の声が閲覧室に響く。
直人が近くにいた小学生の肩を引いた。パネルは床へ落ち、派手な音を立てて割れた。蛍光灯ではなく、薄いLEDパネルだった。それでも、破片は散り、閲覧室の静けさは一瞬で壊れた。
泣き出す子がいた。職員が走ってくる。誰かが「救急車」と言った。
澪は動けなかった。
自分は見つけていた。見つけていたのに、先に記録を求めた。人を下がらせるより、報告書を確認することを優先した。
その事実が、喉の奥に張りついた。
入口のほうから、光一が駆け込んできた。
「篠宮!」
「怪我人はまだ確認できてない。直人くんが子どもを下げた。職員さん、閲覧室の外へ誘導してください。破片を踏まないで」
澪は言葉を並べた。自分が止まっていたことを消すように、指示を出した。
光一は一瞬だけ澪を見た。
その目が何を言おうとしたのか、澪は分からなかった。いや、分かりたくなかった。
図書館員が事務室から点検報告書を持って戻ってきた。紙の上には、日付、担当業者名、点検箇所、異常なしの欄に押された印が並んでいる。
澪は報告書を受け取り、落ちた照明の位置と照合した。
「この列、点検対象から抜けてる」
「え?」
職員が覗き込む。
「報告書は閲覧室中央照明一式になっています。でも添付図面の番号を見ると、中央列の三番から六番までしか印がありません。落ちたのは二番。点検済みという扱いで、実際には見ていない」
光一が床の破片を避けながら近づいた。
「つまり、点検漏れか」
「まだ決めないで」
澪は反射的に言った。
光一が少しだけ眉を動かす。
その言葉は光一のものだった。澪は自分の口から出た瞬間に、それを意識した。
「点検漏れかもしれない。でも、図面の番号が古い可能性もある。落ちた場所が二番とは限らない。職員さん、改修後の図面はありますか」
「倉庫にあると思います」
「見せてください」
澪は先に歩き出した。
背中に光一の気配がある。いつもなら、その気配に安心する。今日は違った。見られていることが、落ち着かなかった。
倉庫は事務室の奥にあった。古い書架、折りたたみ椅子、イベント用の看板、廃棄待ちの本。埃の匂いが濃い。職員が青いファイルを出してくるあいだ、直人は倉庫の扉の前に立ったまま、床を見ていた。
「どうしたの?」
「この台車、さっき使いました?」
直人が指さしたのは、棚の横に置かれた平台車だった。車輪のまわりに、白い粉がついている。
澪はしゃがみ込んだ。
粉ではなく、石膏ボードのかけらだった。照明パネルの破片と似ている。
「落ちた後に運んだ?」
「でも、事件の前からここにありました。僕、入口で見ました」
光一が言う。
「誰かが、落ちる前に天井材を運んだかもしれない」
澪は顔を上げた。
言葉が出かかった。
犯人がいる。
そう言えば、分かりやすい。点検漏れではなく、誰かが細工した。施設事故ではなく事件だ。澪が先に見つけた事件になる。
けれど、直人がこちらを見ていた。
その視線は責めていない。ただ、記録している。澪が何を見て、何を選ぶのかを、静かに待っている。
「……まだ、そこまでは言えない」
澪は言い直した。
青いファイルの中には、三年前の改修図面が挟まっていた。閲覧室中央の照明番号は、現行の点検報告書とは違っていた。落ちた照明は、旧番号では二番、新番号では三番。つまり、点検対象に入っている。
「点検はされている。少なくとも、書類上は」
澪は紙を机に置いた。
「ではなぜ落ちたんですか」
職員の声は震えていた。
光一が答える前に、澪は言った。
「点検後に誰かが触った可能性があります。けれど、目的までは分かりません」
そのとき、倉庫の奥に積まれていた避難案内板が目に入った。そこには、古いシールが貼られている。
災害時第三避難先・市立図書館。
第三避難先。
澪は、その言葉を声に出さずに読んだ。
学校、家庭、そのどちらにも戻れない生徒のための場所。説明会では聞かなかった言葉だった。
図書館の事故は、ただの老朽化でも、ただの細工でもないのかもしれない。誰かがこの場所を危険だと示したい。あるいは、危険である事実を隠したい。
澪の胸の中で、別の熱が生まれた。
今度こそ、自分が先に掴む。
光一が小さく言った。
「篠宮」
「何?」
「急がなくていい」
澪は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「急いでないよ。ただ、先に進んでるだけ」
直人が、その言葉をノートに書いた。
雨が降り始めていた。図書館の窓を細かく叩く音が、割れた照明の破片の上にも降りていた。
図書館の事務室に移ると、濡れた傘の匂いとコピー機の熱が混ざっていた。
職員は落ちた照明の写真を撮り、別の職員が閲覧室の入口に立って利用者を止めている。さっき泣いていた小学生は、母親に抱かれてロビーの椅子に座っていた。膝に乗せた絵本の角が、何度も小さく折れる。
澪はその子のそばへ行きかけて、足を止めた。
謝る相手を探しているだけなら、今行くべきではない。
代わりに、床に落ちた破片の位置を写真に残し、職員から照明番号の古い図面を借りた。旧番号と新番号。点検報告書の欄外に書かれた鉛筆の丸。
そこには、誰かが見た痕跡と、誰かが見なかった痕跡が同じ紙の上に並んでいた。
「閲覧室は今日、閉めます」
館長代理が言った。
「当然です」
澪は答えたあと、少しだけ声を落とした。
「ただ、学習席を使いに来る子がいるなら、代わりの席を案内してください。帰らせるだけにしないでください」
館長代理は驚いたように澪を見た。
光一も何も言わない。
直人だけが、ノートに短く書いた。代わりの席。
帰り際、澪はロビーの掲示板を見た。災害時利用案内、休館日、読み聞かせ会。色の違う紙の下に、古い案内板の端が少しだけ見えている。
第三避難先。
その言葉は、施設名ではなく、誰かが最後に座る椅子のように見えた。
外へ出ると雨は強くなっていた。光一が傘を開くより先に、澪は一歩だけ屋根の下から出た。すぐに肩が濡れる。
「篠宮」
呼ばれて、澪は止まった。
「傘、持ってないのか」
「持ってる」
「じゃあ使え」
澪はバッグから折り畳み傘を出した。焦って開いた骨が一本だけ引っかかる。直そうとして指先を濡らし、結局、光一に見られる前にゆっくり広げた。
直人が横で言った。
「今の、急がなかったですね」
「傘くらいで評価しないで」
「傘でも分かることはあります」
澪は返事をせず、雨の中へ出た。さっきよりも足元を見ていた。水たまりに映る図書館の窓は、割れていない。けれど、澪にはその明るさが少しだけ危うく見えた。
学校へ戻るまでに、澪はノートの余白へ三つだけ書いた。
点検後に誰が触れたか。
第三避難先とは何か。
見つけた瞬間、誰を先に動かすか。
最後の行を書いたあと、ペン先を止めた。字は少し濃すぎた。それでも消さなかった。
翌朝、澪は図書館から借りた図面のコピーを机に広げた。
旧番号と新番号を照らし合わせる作業は、思ったより時間がかかった。線を一本引くたびに、照明の位置が一つずつずれる。
番号が変わっただけなら、事故にはならない。けれど、番号の変更を知っている人と知らない人が同じ報告書を読めば、見た場所そのものが違ってしまう。
「これ、間違えますね」
直人が隣から覗き込んだ。
「間違えたんだと思う。でも、ただの間違いなら、誰があの案内板を倉庫の奥に戻したのかが残る」
光一は机の反対側で、落下位置の写真を見ていた。
「戻した、か。捨てたんじゃなくて」
「うん。誰かが、まだ使うかもしれないと思った」
澪は旧案内板の写真をもう一度見た。第三避難先という文字の下、剥がれかけたシールの端に、古い押しピンの穴が三つ残っている。
掲示されていた時期がある。
外された時期もある。
誰かがそれを、完全には捨てなかった。
チャイムが鳴り、教室に人が戻ってくる。
澪はコピーを畳む前に、旧番号と新番号の対応表を一枚だけ別にした。今は小さなずれに見える。
だが、場所の名前が変わる時、人も同じようにずれるのかもしれなかった。




