第3章 第12話 決める朝
翌朝の学校は、火事のあとの匂いを隠すみたいに、いつもより強い洗剤の匂いがした。
西棟へ続く渡り廊下には、新しいロープが張られていた。昨日までの立入禁止とは違う。黄色いテープと、臨時点検中の札と、教師が二人。そこまで増えると、もう「近づくな」ではなく、「ここで何かが起きました」と告げているのと同じだった。
昇降口では、誰も大きな声を出していなかった。それがかえって嫌だった。
人は本当に怖い話をするとき、声を落とす。声を落とせば落とすほど、それが大事な秘密みたいに見えてしまう。
「神代先生の名前、あったらしいよ」
「やっぱり三年前から知ってたんじゃない?」
「昨日の火も、証拠消すためだったって」
光一は靴を履き替えながら、その言葉を聞いた。
昨日、火は小さかった。柏瀬直人は助かった。資料保管室も、全焼はしていない。教師たちはそう説明するだろう。大事には至りませんでした、と。けれど、噂にとってはそれで十分だった。燃えなかった紙より、燃えたらしい話の方が早く広がる。
「顔、悪い」
隣で澪が言った。
「昨日より?」
「昨日と違う悪さ」
「褒めてないな」
「褒める要素がない」
いつものやり取りだった。けれど、いつも通りではなかった。
澪の目は、昇降口の奥に立つ神代玲奈を見ていた。神代は生徒たちの視線に気づいている。それでも逃げず、朝の見回りの位置に立っていた。昨日の夜と同じ顔だった。教師の顔にも、関係者の顔にも見える。その曖昧さが、今はいちばん危なかった。
誰かが言った。
「どう思う、名探偵」
杉浦だった。
いつもの軽口より、声が低い。彼自身も、もう茶化しだけでは済まないことを分かっている顔だった。
光一はすぐには答えなかった。
前なら、ここで一つの推理を口にしたかもしれない。神代先生は犯人じゃない、とか、逆に何か隠している、とか。
どちらも簡単だった。そして、簡単だから危ない。
「俺は……まだ決めない」
昇降口の空気が、ほんの少し止まった。でも、今日はそこで終わらせなかった。
「でも、神代先生を犯人として消費するのは止める。そこは決める」
杉浦が目を丸くした。
「消費って」
「名前が出たから、そこに全部乗せて安心することだよ」
光一は神代の方を見た。
神代もこちらを見ていた。
「昨日の火のことも、三年前のことも、まだ全部は分かってない。でも、今ここで決めていいことはある。誰か一人の名前だけで終わらせない。それだけは、もう決める」
澪が横で小さく息を吐いた。
安心ではない。
確認だった。
神代玲奈が話したのは、一時間目が始まる前の資料準備室だった。
部屋にいたのは、神代、光一、澪、そして養護室から戻ることを許された柏瀬直人だけだった。直人はまだ声が掠れていて、椅子に座る時も少しだけ咳き込んだ。
「寝てろよ」
光一が言うと、直人は苦笑した。
「寝てたら、僕の話だけ誰かに決められる気がした」
「それ、今言うと重い」
「昨日よりは軽いよ」
澪が黙って水の入った紙コップを差し出した。直人は少し驚いた顔をしてから、受け取った。
「ありがとう」
「うん」
短い返事だった。けれど、澪はちゃんと相手の目を見ていた。
神代は机の上に、透明の袋を二つ置いた。
一つは、昨日の資料保管室から回収されたICレコーダー。
もう一つは、半分だけ焦げた紙片。
紙片には、やはり神代玲奈の名前だけが残っていた。
「三年前の名簿よ」
神代はそう言った。
「火災当夜、最後に西棟の安全確認をした人間の一覧。正確には、そういうことにされた一覧」
「された?」
光一が訊く。
神代はうなずいた。
「私は当時、まだ新任に近かった。西棟で煙が出たと聞いて、最初に駆けつけた教員の一人だった。でも、火元は見ていない。誰が何をしたかも見ていない。私が見たのは、外へ出された生徒と、閉められた扉と、あとから運び込まれた書類だけ」
神代の声は淡々としていた。淡々と話すしかない、という声だった。
「それなのに、翌日には私の名前が確認者として入っていた。『神代玲奈が西棟内に残留者なしと確認』。私はそんな確認をしていない」
「抗議したんですか」
澪が訊いた。
「したわ」
神代は小さく笑った。
笑ったのに、顔は少しも緩まなかった。
「でも、あの時はもう話が終わる形に整っていた。小規模火災。怪我人なし。原因は古い配線の不具合。業者の点検記録も、学校の巡回記録も、その形に合わせて短くなっていた」
「先生は、それを止めなかった」
光一が言った。
責めるつもりだけではなかった。
でも、甘くするつもりもなかった。
神代は逃げずにうなずいた。
「止められなかった。止めるべきだった。でも、その時の私は、名前を入れられた側でもあった。自分が潰れないようにすることで精一杯だった」
沈黙が落ちた。
誰かが悪い、と言えば楽だった。
神代が悪い。
学校が悪い。
業者が悪い。
隠した大人たちが悪い。
どれも間違っていない。けれど、それだけでは昨日の火に届かない。
直人が掠れた声で言った。
「父さんのレコーダーです、それ」
光一と澪が同時に見た。
直人は机の上の銀色のケースを指さした。
「三年前、父さんが持ってた。地域設備管理組合の手伝いで、点検に立ち会った日があったらしくて。たぶん、何かを録ってた。でも、俺は中身を聞けなかった」
「昨日は、それを取りに?」
澪が訊く。
「うん。匿名の紙に、篠宮さんが西棟へ行くって書いてあった。嘘かもしれないと思った。でも、そのレコーダーがまだ資料保管室にあるって分かったら、放っておけなかった」
「俺たちに言えよ」
光一の声が少し荒くなった。
直人は水を一口飲んでから、かすかに笑った。
「言ったら、止められると思った」
「当たり前だろ」
「うん。だから言わなかった。間違ってた」
その返事に、光一は言葉を失った。
間違っていた、と本人が言った時、そこへさらに正しさを重ねても意味がない。
神代がレコーダーの再生ボタンを押した。
雑音が流れた。
古い音だった。布越しのようにくぐもっていて、誰の声かすぐには分からない。けれど、ところどころ言葉が拾えた。
『まだ中に――』
『確認済みにする。そうしないと明日の説明が――』
『神代先生の名前を』
『若い先生に背負わせるのは』
『背負わせるんじゃない。確認者だ』
そこで、音が大きく乱れた。
誰かがレコーダーをポケットに押し込んだような音。走る足音。遠くで誰かが咳き込む声。
そして、直人の父親らしい低い声が入った。
『閉めるな。まだ、順番が違う』
そこで録音は途切れた。
資料準備室の空気が重くなる。
昨日まで、何度も出てきた言葉。
順番。
誰を先に黙らせるか。
誰を後から守ったことにするか。
誰の名前を残し、誰の名前を消すか。
全部、その言葉に繋がっていた。
「これを出せば、三年前の説明は崩れる」
神代が言った。
「でも、これをそのまま校内に流せば、今度は別の誰かが吊るされる。私の名前を入れた教員。点検記録を短くした人。柏瀬君のお父さん。もう学校にいない人まで、全部」
「だから隠すんですか」
光一が訊いた。
神代は首を振った。
「だから、手順に乗せる。第三者調査へ渡す。学校の中だけで終わらせない。昨日の火も含めて」
澪がレコーダーを見た。
「昨日の音は?」
神代はもう一度、別のファイルを再生した。
今度の音は新しかった。
紙を踏む音。扉がきしむ音。直人の咳。
そして、女の子の声。
『また小さい事故で終わるなら、意味ないじゃん』
光一はその声を知っていた。
澪も、すぐに気づいた。
水瀬凪。
資料室で、半分燃えた付箋を前に「私じゃない」と言った生徒。
『誰かが怪我しなきゃ、また隠すんでしょ』
『火はだめだ』
直人の声だった。
『分かってる。煙だけ。すぐ消える。先生たちが来る。そしたら全部止まる』
『それ、止めてるんじゃない』
音が乱れる。
何かが倒れた。
次に入ったのは、凪の泣きそうな声だった。
『だって、もう誰も信じないじゃん。紙も、先生も、言葉も。だったら、本当に起きたことにするしかないじゃん』
再生が止まった。
誰もすぐには喋らなかった。
凪がやった。
そう言うのは簡単だった。
けれど、それを口にした瞬間、また同じ形になる。
名前を一つ決めて、そこへ全部を押しつける。
光一は、机の端を指で押さえた。
怒りはあった。
柏瀬が死にかけた。澪の名前が使われた。火が出た。許していい話ではない。
それでも。
「水瀬を、校内放送で吊るすのは違う
光一が言った。
澪がうなずいた。
「でも、なかったことにはしない」
「うん」
「本人に話させる。先生たちと、必要な相手に。昨日の火については、ちゃんと処分も受ける」
「それは決める」
光一ははっきり言った。
「でも、三年前の全部を水瀬に背負わせない。昨日の火も、水瀬一人の悪意ってことにはしない。あいつがそう考えるところまで、学校が来てた。それも消さない」
神代が、ほんの少しだけ目を伏せた。
「あなたたちに、そこまで言わせるのは情けないわね」
「先生にも言ってもらいます」
澪が言った。
神代は顔を上げる。
「私は、昨日の夜に逃げないと言いました」
「昨日じゃ足りません。今日も逃げないでください」
澪の声は静かだった。
光一は横で、その言葉を聞いていた。
少し前の澪なら、ここまで他人へ言葉を渡さなかったかもしれない。分かってほしい相手だけに、短い言葉を置いていた。
今は違う。
分かっていても、言う。
分かってもらうために、言う。
それができる人間として、澪はそこに立っていた。
昼休み、臨時の全校集会が開かれた。
体育館には、ざわめきがあった。昨日の火災未遂。神代玲奈の名前。水瀬凪の姿が見えないこと。柏瀬直人が登校していること。どれも噂の材料には十分すぎた。
壇上に立ったのは、校長ではなく神代玲奈だった。
その時点で、体育館の空気が少し変わった。
「昨日、西棟で火災未遂が起きました」
神代の声は、よく通った。
「けが人は出ていません。ただし、柏瀬直人君が煙を吸い、救護を受けました。火元と経緯については、学校だけで判断せず、外部を含む調査へ引き継ぎます」
生徒たちがざわつく。
神代は続けた。
「三年前の西棟火災についても、当時の記録に不備があることが分かりました。私の名前が残っている資料もあります」
その瞬間、ざわめきが大きくなった。
光一は体育館の後ろに立っていた。
澪はその隣にいる。
神代は逃げなかった。
「私は、三年前の記録に対して、もっと早く異議を唱えるべきでした。名前を使われた側だから仕方がなかった、では済みません。教師として、生徒に説明する責任があります」
声が止まる。
体育館も止まる。
「ただし、今日ここで、誰か一人を犯人として差し出すことはしません。昨日のことも、三年前のことも、必要な調査と手続きに渡します。憶測で名前を広げることは、もうやめてください」
誰かが小さく言った。
「隠すんじゃん」
その声は、意外なほど響いた。
神代が答えるより先に、光一が一歩前へ出た。
澪が一瞬だけ彼を見る。
止めなかった。
「隠すのと、晒さないのは違う」
体育館中の視線が、光一へ向いた。
杉浦が後ろの方で「出た」と小さく言ったのが聞こえた。
でも、今日の光一は笑わなかった。
「俺も知りたい。誰が何をしたのか、全部知りたい。でも、それを今ここで名前を出して広げたら、また誰かが追い詰められる。昨日みたいに、誰かが“本当に起こさなきゃ止まらない”って思う」
言葉にしながら、光一は少し怖くなった。
自分の声が、誰かをまた別の方向へ動かすかもしれない。
でも、黙っていれば、もっと早く別の言葉が広がる。
だったら、ここは決めるしかなかった。
「俺は、まだ決めない。三年前の責任も、昨日の火の意味も、ここで勝手には決めない」
光一は一度、息を吸った。
「でも、次の事件を待つのはもうやめる。誰かの名前を燃料にして騒ぐのは、ここで止める。そこだけは、決める」
体育館が静まり返った。
その静けさの中で、澪が前へ出た。
「昨日、火が出た時、私たちは証拠より人を先に出しました」
短い声だった。
けれど、よく届いた。
「今日も同じです。事実は消さない。でも、先に人を守る。守ったあとで、ちゃんと調べる。そういう順番にしてください」
澪は神代の方を見た。
「先生たちも」
神代は小さくうなずいた。
「はい」
教師が、生徒に返事をした。
それだけのことなのに、体育館の空気が少し変わった。
すべてが解決したわけではない。
誰も拍手なんてしなかった。
けれど、少なくともその場で誰かの名前が次の火種になることは、止まった。
放課後、柏瀬直人は図書室の窓際にいた。
喉はまだ本調子ではなさそうだったが、朝より顔色は戻っている。
机の上には、返却期限を過ぎた本が二冊置かれていた。
「退院祝いにしては地味だな」
光一が言うと、直人は顔を上げた。
「入院してないし」
「じゃあ生還祝い」
「それは重い」
直人はそう言ってから、澪を見た。
「篠宮さん」
「なに」
「昨日、僕が勝手に行ったのは、僕の判断だから」
「うん」
「でも、名前を使われたことは、ちゃんと怒っていいと思う」
澪は少しだけ黙った。
それから言った。
「怒ってる」
「見えない」
「見せる必要がある時は、見せる」
「じゃあ、今は?」
「今は、謝る方」
澪は直人の前で足を止めた。
「ごめん。私の名前が使われたことで、あなたを動かした」
「それは、篠宮さんがやったことじゃない」
「でも、私が何も言わなくても分かると思っていたことは、たぶん間違ってた」
直人は目を細めた。
少し困ったように、でも少し安心したように。
「そういうの、付き合ってた時に言ってくれたらよかったのに」
光一が一瞬だけ固まった。
澪は表情を変えなかった。
「今だから言える」
「だよね」
直人は笑った。
未練ではなかった。
ちゃんと終わったものを、ちゃんと置くための笑い方だった。
「雨宮」
「なに」
「篠宮さん、ちゃんと怒るらしいから」
「なんで俺に言うんだよ」
「君がいちばん怒らせそうだから」
「否定しづらいな」
澪が横から言った。
「否定しないんだ」
「しづらいって言っただけだろ」
そのやり取りに、直人は小さく笑って、また咳き込んだ。
「寝てろ」
「だから入院してない」
夕方の校舎は、昨日より少しだけ明るかった。
西棟はまだ閉じられている。資料保管室も、調査が終わるまでは入れない。三年前の火災について、学校は外部調査を受け入れることになった。昨日の火を起こした水瀬凪は、教師と保護者の前で事情を話している。処分は出るだろう。けれど、彼女一人がすべてを背負わされる形には、少なくとも今はなっていない。
それが正しいのかは、まだ分からない。
でも、昨日よりは少しましだった。
光一と澪は、渡り廊下の手前で足を止めた。
ロープの向こうに、西棟の暗い廊下が見える。昨日、焦げた匂いの中へ走った場所だ。今は何も動いていない。ただ、窓の一枚だけが新しい板で塞がれていた。
「終わったと思う?」
澪が訊いた。
「思わない」
「だよね」
「三年前のことは、これからだし。昨日のことも、これからだし。たぶん、誰かはまだ納得しない」
「うん」
「でも」
光一はロープを見た。
「次の事件を待つのは、もうやめる」
澪は横でうなずいた。
「それは決めた?」
「決めた」
「珍しい」
「お前が言えって顔してたから」
「してない」
「してた」
「じゃあ、してた」
あっさり認められて、光一は少し笑った。
それから、笑いを消す。
「澪」
「なに」
「昨日、ありがとう」
「昨日言った」
「もう一回言ってる」
「なんで」
「分かってても、言う方がいいんだろ」
澪は少しだけ目を伏せた。
それから、小さく息を吐く。
「そうだね」
「あと、ごめん」
「それも昨日聞いた」
「もう一回」
「理由は」
「まだ決めないって言葉を、時々、逃げ道にしてた」
澪はすぐには返事をしなかった。
夕方の光が、廊下の床に細く伸びている。昨日は煙で見えなかった線だった。
「私も」
澪は言った。
「あなたが決めないでいることに、乗ってた。自分で止める線を引くのが怖かったから」
「お前が?」
「私が」
「そっか」
「うん」
二人はしばらく黙っていた。
沈黙は、前より軽かった。
言わなくても分かるから黙っているのではない。言うべきことを言ったあとに、残っている沈黙だった。
昇降口へ向かう途中、杉浦が後ろから声をかけてきた。
「おーい、名探偵」
光一が振り返る。
「それ、まだ続けるのか」
「便利だからな」
「便利な言葉ほど危ないんだぞ」
「それ、お前が言うと重いんだよ」
杉浦は笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「で、次はどうすんの」
光一は澪を見た。
澪は何も言わなかった。
でも、待っている顔ではなかった。並んでいる顔だった。
「まだ決めない」
光一は言った。
杉浦が呆れたように肩をすくめる。
「結局それかよ」
「でも、放っておかない」
光一は続けた。
「次に何かが起きるまで待つんじゃなくて、起きないように見る。決めるところは決める。決めちゃいけないところは、二人で持つ」
「二人で?」
杉浦がにやっとした。
光一は嫌な予感がした。
澪が先に言う。
「変な意味にしたら殴る」
「まだ何も言ってない!」
「言う顔だった」
「篠宮、最近強くない?」
「前から」
そのやり取りで、ようやく少しだけ日常が戻った気がした。
完全には戻らない。
戻らなくていいのかもしれない。
起きたことは、なかったことにはならない。消えた紙も、燃えた端も、黙っていた大人も、火をつけようとした生徒も、全部が残る。
それでも、残し方は選べる。
誰か一人の名前にして終わらせるのか。
複雑なまま、持ちにくい重さとして残すのか。
光一は、靴箱の前で一度だけ振り返った。
掲示板には、もう匿名の紙はなかった。
代わりに、文化祭実行委員の募集用紙が貼られている。昨日までなら、そこに何かが混じっていないかを探しただろう。今日も、探さないわけではない。
ただ、探す前に、隣を見た。
澪がいた。
「行くか」
「うん」
二人は並んで校舎を出た。
手をつなぐわけでも、特別な約束を交わすわけでもなかった。
歩幅だけが、自然にそろっていた。
校門の外で、風が少しだけ冷たくなった。
光一は鞄の中のノートを思い出す。まだ白いページが残っている。そこに次の事件を書くかどうかは、まだ決まっていない。
けれど、ひとつだけ決めたことがある。
次の事件を待つために、ページを空けておくのはやめる。
誰かがまだ言えていないことを書くために、そこを残しておく。
そのくらいなら、今の自分にもできる気がした。
隣で澪が言った。
「光一」
「ん?」
「明日、図書室」
「また資料?」
「違う」
澪は少しだけ間を置いた。
「今回のこと、忘れないように書く。誰かを責めるためじゃなくて、次に遅れないために」
光一は笑った。
「それ、俺も行っていいやつ?」
「来ると思ってる」
「決めてた?」
「そこは、決めてた」
光一は空を見上げた。
夕方の雲は、昨日より少し薄い。
火の匂いはもうしなかった。
それでも、何かが燃えたあとにしか分からない温度が、まだ胸の奥に残っている。
それを消さないまま、二人は歩き出した。




