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第3章 第11話 起きてしまった夜

 西棟の暗がりへ足を踏み入れた瞬間、焦げた匂いがはっきりした。


 しかも、火だけではなかった。薬品めいた、鼻の奥に残る嫌な刺激が混ざっている。古い配線の焦げる匂いとも、理科室のアルコールとも違う。誰かが、わざと混ぜたのだと分かる臭いだった。


「光一」

 澪の声は低かった。恐れているのではなく、確認していた。

「追うより先だよ」

「分かってる」


 そう言ってから、光一は自分の喉が乾いていることに気づいた。

 次の事故は、もう始まっていた。ここから先は、誰かを止める話ではない。間に合うものをどこまで間に合わせるかの話だ。


 廊下の先で、また咳き込む声がした。

 短く、詰まるような音だった。二人は同時に走った。割れたガラスを踏まないよう、床へ懐中電灯を落としながら角を曲がる。突き当たりの資料保管室の扉が半開きになっていた。内側の床へ、古いファイルが散らばっている。踏み跡は二種類。ひとつは奥へ向かい、もうひとつは途中で引き返していた。


「二人いた」

 澪が言った。

「うん。しかも片方は慌ててない」


 光一が扉を押し開けると、むっと熱が押し返してきた。

 部屋の奥、倒れた椅子のそばに人影がある。柏瀬直人だった。片手で口元を押さえ、もう片方の手を床へついている。完全に倒れてはいないが、立ち上がるだけの呼吸が残っていない顔だった。


「柏瀬!」

 光一が駆け寄る。

 直人は顔を上げたが、すぐ咳き込んだ。

「……来るな、って言いたかったんだけど」

「そういうのは立ち上がってから言え」


 軽口の形を借りないと、自分の焦りが崩れそうだった。

 澪は窓際へ走り、半分固着した鍵を無理やり押し上げた。夜気が一気に入り込む。煙は薄くなるが、それで火が消えるわけではない。部屋の隅、配線束の近くで小さな火が壁紙を舐めていた。まだ大きくはない。けれど、ここで数分遅れれば、廊下へ回る。


「光一、火はまだ小さい」

「分かってる」

「でも、紙が多い」

「先に人」

「うん」


 そのやり取りだけで十分だった。

 直人の肩を抱え起こそうとした時、床に散った紙の下から銀色の小さなケースが転がった。ICレコーダーだった。合宿の夜に見たものとよく似た、少し古い型だ。光一は拾い上げかけて、やめた。

 今、それを取れば片手が塞がる。取れる。けれど、その一秒で直人の足がもつれるかもしれない。


 澪がその迷いを見た。

「置いて」

「……うん」


 直人を二人で挟むようにして立たせる。彼の身体は見た目より重かった。意識が落ち切っていない分、逆に力の逃がし方が不安定なのだろう。廊下へ出た瞬間、後ろでぱち、と乾いた音がした。火が配線の外側へ移った音だった。


「走れる?」

 澪が訊く。

 直人は咳き込みながらも、かすかにうなずいた。

「篠宮さんが、そういう顔するとき、たいてい走らされる」

「文句が言えるならまだ大丈夫」

「基準が雑だな」


 その返しに、光一は少しだけ救われた。

 まだ会話ができる。まだ間に合う。


 渡り廊下の手前まで戻ると、外周を見ていた教師たちが異変に気づいて駆けてきた。

 神代玲奈が真っ先に直人を受け取り、続いて叫ぶ。

「養護室! それから消火器! 西棟一階の資料保管室、配線火災の可能性あり!」

 怒鳴り声なのに、無駄がなかった。

 その横で光一は、さっき部屋へ置いてきたレコーダーのことを考えていた。取れたはずだ、という思いが一瞬だけ胸を刺す。だが、その考えを口にする前に、澪が言った。


「今、それは違う」

「……分かってる」

「ほんとに?」

「分かってるよ」


 少し強く返したあとで、光一は自分の声がひどく子どもっぽかったことに気づいた。

 けれど澪は責めなかった。責める代わりに、彼の袖を一度だけ引いた。

「後悔するのは、消えてからでもできる」

「お前、そういう時だけ容赦ないな」

「知ってる」


 直人を神代へ任せたあと、二人はもう一度だけ西棟の手前まで戻った。

 教師たちが消火器を持って走り、用務員が主電源の遮断へ向かっている。火は廊下へ出る前に抑えられそうだった。大事故ではない。ニュースになるほどの火事でもない。けれど、だからこそ嫌だった。三年前と同じだ。小さいと言い切れる規模に収まると、誰かはすぐに「これで済んだ」と言いたがる。


 光一はロープの外から暗い一階を見た。

 さっきまで人がいた部屋の窓が、黒く曇っている。その向こうで、誰かが残していった足跡だけがまだ消えていない気がした。


「間に合わなかった」

 思わず漏れた声は、思っていたより静かだった。


 澪はすぐに否定しなかった。

「全部は、ね」

「全部止めるつもりだったわけじゃない」

「うん」

「でも、もっと早く線を引けたかもしれない」


 自分で言ってから、その言葉がどこへ落ちるのかを待った。

 責められたくて言ったわけではない。けれど、無責任に流されたくもなかった。


 澪はしばらく黙って、西棟の窓を見ていた。

 それから、視線を戻さないまま言った。

「私も同じこと考えてた」

「……え」

「昨日、図書室の図面がもう一冊抜かれた時点で、今夜をもっと強く止めるべきだったかもしれないって」

「お前」

「だから、一人の後悔にしない」

 そこで初めて、澪は光一の方を見た。

「私も持つ。今日の遅れも、今日止められたものも」


 光一は返事ができなかった。

 慰めではない言葉だった。庇いでもない。事実を分けるための言葉だった。

 それが、ひどくありがたかった。


 養護室では、直人がベッドの端に座っていた。

 酸素吸入をつけられるほどではないが、喉をやられていて声が掠れている。神代が出ていったあと、部屋には三人だけが残った。

「悪い」

 直人が先に言った。

「呼ばれたの、僕の方だ」

「何で」

 光一が訊くと、直人は制服のポケットから折れた紙片を出した。

『篠宮が西棟へ行く。止めるなら今夜』

 雑な印字だった。校内の共用プリンタを使った文字列だ。何度も見てきた、あの匿名文と同じ癖がある。


「行く前に変だとは思ったんだけど」

 直人は苦笑した。

「思ったけど、篠宮さんの名前が書いてあったから」

 澪が息を止める気配がした。

 彼女はすぐに謝ろうとしたのだろう。けれど直人が先に首を振った。

「今のは責めてない。僕が決めて行った」

「でも」

「でも、って言うなら、その先をちゃんと言って」

 直人の声は弱っているのに、言葉だけはやけにまっすぐだった。

 澪は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく言った。

「……ごめん」

「うん」

「名前を使われたのに、もっと早く気づけたかもしれない」

「それは雨宮にも言え」

「あとで言う」

「今言えばいいのに」

 そこまで言って、直人はまた咳き込んだ。


 養護室を出たあと、廊下の窓に夜の校庭が映っていた。

 さっきまで走っていた教師たちの灯りが、もう小さく見える。火は消えた。人も助かった。なのに、終わった感じがまるでしなかった。


「光一」

「ん?」

「さっきの」

「うん」

「ごめん」

 立ち止まったのは光一の方だった。

 澪は続ける。

「もっと早く、止める線を引くべきだと思ってたのに、まだ決めない方を一緒に持った。だから、今日の遅れは私の分でもある」

 光一は数秒だけ何も言えなかった。

 それから、ようやく口を開く。

「……ありがとう」

「そっち?」

「ごめんもある。でも、先にそっちだろ」


 澪は少しだけ目を丸くして、それから弱く笑った。

「変なの」

「知ってる」


 その会話のあとで、神代が戻ってきた。

 手には透明の証拠袋が一つある。中に入っていたのは、さっき資料保管室で見かけた銀色のレコーダーと、半分だけ焦げた紙片だった。

「火元の近くにあった」

 神代は言う。

「レコーダーはまだ生きてるかもしれない」

「紙は?」

 光一が訊くと、神代は袋を少し持ち上げた。

 紙片の残った部分には、名簿のような縦線と、読み取れる名前が一つだけあった。


 ――神代 玲奈


 光一と澪は同時に黙った。

 神代はその沈黙を見て、逃げなかった。

「そういう顔をすると思った」

 彼女は静かに言う。

「明日の朝、全部話す。……今夜は、まだその順番じゃない」


 その言葉に、光一は即座に反発できなかった。

 今すぐ問い詰めるべきかもしれない。けれど、ここで神代を敵に固定した瞬間、また同じことが起きる気もした。名前を一つ決めて、そこへ全部の重みを押しつけるやり方だ。


 澪が先に息を吐く。

「まだ決めない」

 それは自分に言い聞かせる声だった。

 光一も小さくうなずく。

「でも、明日は逃がさない」

「逃げないわよ」

 神代はそう返した。

 その表情は教師のものにも、追い詰められた関係者のものにも見えた。


 夜はまだ終わっていなかった。

 火は消えた。人も助かった。けれど、消え残った熱だけが、校舎のどこかにまだある気がした。

 そして二人は知っていた。

 次に決めるのは、火の原因じゃない。


 誰の名前を、どこまで背負わせるのか――その順番なのだと。

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